217 悪夢の続き
「火事、ですね」
と私は言った。
そう、火事だ。あまりに唐突すぎて、理解が追いつかないが。
ほんの少し前まで静けさに包まれていた夜の庭園は、今やごうごうと燃えさかる真っ赤な炎に飲み込まれようとしている。
「んなわけあるかよ」
と突っ込むダンビュラ。「ついさっきまで何ともなかっただろうが! それがいきなり――」
私も、気持ちは彼と同じだった。本当に、ついさっきまで、何ともなかったのにって。
しかし、私や彼がどう思おうとも、目の前の現実は変わらなかった。
このお屋敷も。
このままでは、遠からず火に巻かれてしまう。
「……っ! 逃げ、ないと」
「同感だな! けど、どこへだ!?」
「わかりませんよ! とにかく裏へ回ってみましょう!」
ここから見た感じ、表側はだめだ。かなり広範囲に渡って燃えている。
いまだ意味のわからないうわごとを繰り返しながら震えているクリア姫をベッドから連れ出し、大急ぎで裏口へと向かう。
だけど、ああ、なんてことだろう。
お屋敷の裏手もまた、見渡す限り火の海だった。
洗濯用のたらいが熱気に煽られて、コロコロと転がっていく。少し離れた場所に立ててある物干し竿に、たった今、火が移ったところだった。
「なんで……、こんな……」
「俺が聞きてえよ」
とダンビュラ。
あまりのことに、膝ががくがくした。ついでに奥歯もガチガチと鳴る。
「だだだだ、誰かが、火をつけた?」
「いーや、そんなはずはねえ!」
ダンビュラは太い首を大きく振った。
「絶対に、誰の匂いもしなかった! 油の匂いも、焦げた匂いも! ついさっきまで、何もおかしなことはなかったんだ!!」
「…………」
お屋敷の外からは、パチパチと火の粉の爆ぜる音が聞こえる。
大勢の人が手を叩いているような、にぎやかな音。その場違いに陽気な音色に耳を傾けながら、私はパニックを起こしそうになる自分を懸命に落ち着かせた。
右往左往しているだけじゃどうにもならない。
と、いうより、この状況。
冷静さを失ったら最後、かなり高確率で人生が終わる。
気がついたら周囲が火の海とか、本気でわけがわからないけど。
わけがわからない状況に放り込まれるのは、何もこれが初めてってわけじゃない。
突如として降りかかってきた理不尽な災難と、戦う覚悟を決めて。
「逃げないと」
私はもう1度、同じ言葉を繰り返した。
「そうだな」
ダンビュラも腹をくくったようだ。
「確か、台所に汲み置きの水があったよな」
「あります。水瓶にいっぱい」
「よし。それだけあれば、かなり役に立つ」
台所に移動し、水瓶の水がちゃんとあることを確認してから、私とダンビュラは作戦会議を始めた。
どうやって、この危機的状況を脱するか。特に、クリア姫の安全をどう確保するのか。
「あのな。俺は昔、山火事に巻き込まれたことがあるんだが」
ダンビュラいわく、100年以上も前のこと。
原因は落雷だったらしい。
人里離れた深い山奥で災難にあったダンビュラは、炎の中をひたすら逃げ惑った。
混乱し、方角を見失い、安全な場所に逃れるまで数時間もかかってしまったそうだが、
「不思議と死ななかったんだよな、これが」
煙に巻かれても。全身に火傷を負っても。
大昔、魔女に姿を変えられたという彼の身体は、並外れて頑丈にできているらしく。
ちょっとやそっとのことでは死なない。火の海を突っ切って走ることさえ可能なほどに。
「ただ、問題は嬢ちゃんだ」
クリア姫は彼とは違う。炎の中を駆け抜けることなどできはしない。
「少し先に小川があるだろ。あれは庭園の外まで続いてる」
彼が全力で走れば、このお屋敷から小川まで1分もかからない。その後は川の中を進んでいけば、どうにか安全な場所まで行けるはずだとダンビュラは言った。
「まさか、城まで燃えてるってことはないだろうからな」
さすがに、そんなことはないと思いたい。
「殿下はお城にいらっしゃるんですよね……」
おそらく今頃は、見張りの兵士が、この火事に気づいているだろう。
きっと、大変な騒ぎになっているに違いない。いずれはカイヤ殿下のもとにも知らせが行って――。
どれほどショックを受けるだろう。妹姫の住む庭園が、炎に包まれているなんて聞いたら。
何としても、無事に届けなきゃ。クリア姫だけは絶対、無事に。
ダンビュラの全身に水をかけ、さらにクリア姫にも、申し訳ないとは思ったが頭から水をかけた。
「姫様、我慢してくださいね」
「…………」
クリア姫は無反応だった。無言で震えているだけで、その鳶色の瞳は周囲の状況をうつしていない。
ただ、ダンビュラが自分の背中に乗るよう促すと、ゆっくりとだがその太い首につかまった。
「念のため、お2人の体をつないでおきましょうか」
逃げる途中で、落っこちたりしたら困るものね。
幸い、物置に手頃なロープがあったので、クリア姫とダンビュラの体をしっかり結びつけた。
さらに、大きめのシーツを水瓶の水に浸して、ダンビュラの首に結ぶ。
これなら濡れたシーツでクリア姫の体がすっぽり覆われる。小川までの短い距離ならどうにか耐えられそうだ。
準備万端、整えてから、玄関に移動。
いざ、燃える庭園に飛び出そうという時、ダンビュラは私の顔を見上げて、静かに告げてきた。
「あのな。嬢ちゃんを安全な場所に連れて行ったら、すぐにあんたのことも助けに戻るつもりだが」
絶対に戻ってくるとは言い切れない、と続ける。
「俺は自分の身が大事だし、今は嬢ちゃんの命を優先せにゃならん。……もし、見捨てるようなことになったら、その時は」
恨むなよ、と彼は言った。
いつも通りの、ちょっと軽い口調で。しかしその目は真剣だ。おふざけのかけらもない。
おかげで、これは本当にヤバイ状況なんだと私は実感した。自分は今、生死のかかった瀬戸際に居るんだと。
でも。そうだとしても。
「仕方ないです」
死にたくはない。絶対に、ここでくたばるつもりなどない。
とはいえ、自分の命を危険にさらしてまで戻ってきてくれ、と言うわけにもいかない。
絶対に助けに来るから待っていろ、とおためごかしを言わず、見捨てることもあるかもしれないと正直に告げたダンビュラは、ある意味、誠実だと思うし。
助かりたければ、自分で努力するしかないのだ。他でもない。自分の命なんだから。
「ただ、できれば助けに来てほしいので、早く行ってください」
「わかった。じゃあな」
ダンビュラが扉に向き直る。視線を交わし、軽くうなずき合ってから、私は思いっきり扉を押した。
途端に、すさまじい熱風が吹きつけてきた。
さっきまでパチパチと聞こえていた音は、パン! パン! と火薬が弾けるような音に変わっている。
燃える木立の群れ。
立ち上る黒煙の隙間から見える夜空は、ただ静かに星がまたたいていた。
「しっかりつかまってろよ、嬢ちゃん!」
ダンビュラが飛び出していく。
火の粉や熱風をものともせずに、矢のように速く、まっすぐに。