209 自分勝手1
――そういえば。
少し前にも、今回と同じようなことがあった気がする。
殿下とクリア姫が、兄妹水入らずで過ごすはずだった休日。
観劇に行った大劇場で、レイテッド家の人々が待ち構えていて、要人の暗殺未遂事件に関わる物騒な話をされ、楽しい休日どころじゃなくなった。あの時も、観劇を勧めてくれたのは叔母上様だった。
私の疑惑のまなざしにも、ご本人は笑顔のままで。
「あらあら、ごめんなさいね。すっかり話し込んでしまって。お腹がすいたでしょう? 今、食事を持ってきますからね」
そう言って、客間から出て行ってしまった。
かと思えば、すぐにまた戻ってきて、
「言い忘れていたわ。あなたの着替え、そこのソファーの上に用意してありますからね」
好きな物を選んでちょうだいと言い残し、今度こそ去っていく。
私はずっと寝間着のまま、寝起きの顔で話をしていたのだ。
これまた、失態である。メイドとして、というより人として恥ずべき失態だ。
叔母上様が戻ってくる前にと、私は急ぎ身支度を整えることにした。
昨夜、使わせてもらったバスルームに移動し、顔を洗い、髪を梳き、ソファーの上に用意してあった着替えの中から、適当なものを選んで身につける。
ちなみに、置いてあったのはどれもシンプルなデザインの服だった。
叔母上様好みの可愛い系だったらどうしようと不安だったのだが、そこは私の趣味を考慮してくださったようだ。
無地のロングスカートと白いブラウスを着て、いつも通りに白い髪を結い上げた時。
コン、コンとノックの音がした。
「エル、私だ。入ってもいいだろうか?」
聞こえた声は、クリア姫のものだった。「叔母様から目が覚めたと聞いて、会いに来たのだ」
「姫様!」
私は扉に駆け寄った。
ドアノブが回り、向こう側から扉が押し開かれる。
のぞいた顔は、まぎれもなくクリア姫だった。
賢そうな鳶色の瞳と、長い金髪のおさげ。これも叔母上様が用意したものか、オレンジ色で胸元にリボンがついた、可愛らしいワンピースを着ている。
「だいじょうぶですか!? ご気分は――」
「どこも悪くない。安心してくれ」
その言葉通り、クリア姫の顔色はすっかり良くなっていた。
「急に倒れたりして心配をかけたと思うが、だいじょうぶだ。あの時は少し、驚いただけだから……」
そう言って、長いまつげを伏せる。
「…………」
驚いたって、どういう意味だろう。あのオルゴールのせい? それとも何か他の理由で?
くわしく聞いてもいいのかなと迷う私に、クリア姫は言った。
「すまない。今は何も聞かないでほしい」と。
本当にすまなそうに、でもきっぱりと強い口調で。
「エルが隠し事をしていると責めたくせに、私も同じなのだ。今はどうしても話すことができない。勝手だと思うだろうが、許してほしい」
「そんな、許すだなんて……」
私に気を遣う必要は全くない。クリア姫が本当に「だいじょうぶ」ならそれでいいんだけど……。
「私よりも、昨夜はエルの方が大変な目にあったのだろう?」
クリア姫はきゅっと眉根を寄せた。
「私が寝ている間に、とても恐ろしい目にあっていたと聞いた。あろうことか、最高司祭のクンツァイトに誘拐されたと――」
「お聞きになったんですか……」
クリア姫は力強くうなずいた。
「兄様からも少し聞いたし、それに叔父様からも話を聞いたのだ」
「宰相閣下から……」
「そうだ。『巨人殺し』という名の暗殺者が捕まったという話と、それから――その暗殺者から、叔父様の所に届いていたという手紙のことも」
え、と息を飲む。
兄殿下への「暗殺予告状」。まさか、その話を聞いてしまったの?
私の反応を見てクリア姫は、
「やはり、エルも知っていたのだな」
と、幼い顔を曇らせた。
「……っ!」
そうだ。隠し事はやめると決めた私だったけど、予告状の件については、クリア姫に黙っていた。
聞いたらショックを受けるのはわかっていたし、兄殿下の暗殺が予告された日まで、どんな想いで過ごすことになるかと想像したら、とても言えなかったのだ。
つまり私は、嘘をついた。
もう隠し事はしません、なんて口にしておきながら。
青ざめる私に、「責めているわけではない」とクリア姫は静かに言った。
「私も、エルに言えないことがある。叔父様や叔母様にも、ハウル兄様やカイヤ兄様にも」
一言ずつ噛みしめるように、自分自身に言い聞かせるように。
視線を私の顔ではなく宙の一点にすえて、クリア姫は言葉を紡ぐ。
「誰にだって秘密がある。どんなに親しい人にでも、言えないことがあるのは当たり前なのだ。ましてエルは、私のためを思って黙っていてくれたのだろう? それを知ったら私が苦しむと思い、敢えて胸の内にしまっておいてくれたのだ」
ありがとう、感謝している、と真顔で告げる。
「姫様……」
何と返せばいいのかわからない。
この小さなお姫様は、つくづく大人だ。ちゃんと相手の立場を考え、物事を公平な目で見ようとしている。
「私の場合は違うのだ。それを口にしたら、エルに嫌われてしまうかもしれない。軽蔑されてしまうかもしれないと怖くて、言えないだけだ」
自嘲的につぶやいて、下を向いてしまう。
……大人なのに、いや、大人だからこそか。自分に対してだけは厳しいというか、あまり公平にも客観的にもなれないようだ。
「嫌うなんてことは絶対、ありえませんが」
それがどんな秘密でも、私がクリア姫を軽蔑することもない。内容を聞かなくたって断言できる。
クリア姫は一瞬目を丸くしたが、すぐに気を取り直したように真顔になって、
「それで、その――叔父様に聞いたのだが、『巨人殺し』を名乗る男は捕まったものの、どうやら手紙の差出人ではなかったらしいと。だから問題は何も解決していないのだと」
その通りである。だけど、なんでそのこと、クリア姫に言っちゃうの? わざわざ不安にさせるようなことを、どうして。
私の疑問が、クリア姫にも伝わったらしい。小さく嘆息して、
「叔父様は私に、カイヤ兄様を説得するようにと仰ったのだ」
説得って?
自分を狙う者が居るとわかっているのに出歩くのをやめろとか、問題がちゃんと解決するまでおとなしくしていろとか、あるいは、怪しいメイドはさっさとクビにしろとか?
「……だいたい、エルの考えているようなことだと思う。それを聞いた兄様が怒ってしまって……」
殿下の居る場所で、その話をしたわけですか。
そりゃ怒るでしょうよ。幼い妹まで巻き込むな、都合よく利用するなって思うよね。
「兄様と叔父様は、今朝からずっと難しい顔で何事かを話し合われていた」
クリア姫は同席していたわけではないので、話の内容はわからない。
ただ、叔母上様から伝え聞いたところによれば、その話し合いは平行線で、いまだ解決の糸口は見えておらず。
業を煮やした宰相閣下が、クリア姫に殿下の「説得」を頼み、殿下を怒らせたと、そういう流れだったらしい。
「兄様は私に、今すぐ城に戻ろうと言っている」
私とクリア姫のことをお城まで送り届けてから、またあらためてこのお屋敷に戻り、宰相閣下と話の続きをするつもりらしい。
「私は、その前にエルと2人で話したかったので、こうして会いに来た」
昨夜からの出来事を順序立てて教えてほしい、とクリア姫は私に頼んだ。
「兄様と叔父様が何を争っているのか、くわしく知りたいのだ」
それは当然だと思う。すぐに話を始めようとしたら、それを遮るようにノックの音が響いた。
扉が開いて、ひょっこりのぞいたのは叔母上様の顔だった。
「あら、2人はまだゆっくりしていたのね。よかったわ」
「?」
意味がわからず、顔を見合わせる私とクリア姫に、叔母上様は続けてこう言った。
「カイヤが馬車の用意をしていたものだから、てっきりもう帰ってしまうつもりなのかしらと思って」
「兄様が、馬車の用意を……?」
「もしかして、待ちきれなくなっちゃったんでしょうか?」
殿下は気が短いわけではないが、こうと決めたら行動が早い人である。
「少し待ってくださいって、言いに行った方がいいかも……」
あるいは、クリア姫への説明はお城に帰ってから、ということにした方がいいだろうか?
「とにかく、兄様の所に行こう」
私が迷っているうちに、クリア姫はすばやく席を立つ。
慌ててついていこうとしたら、叔母上様の声が追いかけてきた。
「カイヤに伝えてちょうだいね。そんなに急いで帰らなくてもいいのよって。何なら、今夜も3人で泊まっていきなさいって」
その真意の読めない笑顔が今は怖くて、私は逃げるように廊下に飛び出した。
五大家のひとつ、オーソクレーズ家のお屋敷は、言うまでもなく広くて立派だった。
絵とか、花瓶とか、彫像とか。
高価そうな調度品が、必要な場所に必要なだけ、整然と飾られている。
それは隙なく合理的で、まさに宰相閣下のお屋敷という感じ。
もちろんここは叔母上様のお屋敷でもあるのだが、バザーの時に使ったお店みたいな、可愛い系の装飾は見当たらない。
それを不思議に思いながら廊下を歩き、ほどなく表玄関から外に出る。
とても立派で、やはり無駄なく隙なく整えられた前庭が、私の眼前に広がっていた。
今はダリアの花が満開で、赤や黄色、白にピンクと、さまざまな色の花弁を広げている。
殿下が用意しているという馬車はどこだろうと周囲を見回し、少し離れた所に、それらしきものを見つけた。
同時に、見慣れた後ろ姿も。
殿下はいつもの黒ずくめの格好で、2頭立ての馬車のすぐそばに立っていた。
「あ」
クリア姫が小さく声を上げた。「ハウル兄様が来ているのだ」
一瞬遅れて、私も気づいた。
カイヤ殿下と向かい合って話している、長身、金髪の知的な美形。ご尊顔を拝するのは久しぶりだが、第一王子のハウライト殿下だとすぐにわかった。
「…………」
クリア姫は兄2人に近づくのをためらっている。
それもそのはずで、2人は普通に話しているのではない。何やら言い争っている様子なのだ。
話の内容までは聞こえないが、張りつめた空気はここまで伝わってくる。
「どうしましょうか?」
けんかなら、止めたほうがいい。でも大事な話なら、邪魔をしない方がいいかもしれない。
ここから見る限り、2人とも熱くなって怒鳴りあっているわけじゃない。冷静に議論しているって感じだ。
だったら、話が終わるまで待った方がいいのかな。
そう思っていた時、それは起きた。
私と、クリア姫の見ている前で。
ハウライト殿下の右手がすっと持ち上がったかと思うと、弟の、カイヤ殿下の頬を打ちすえた。
と言っても、かなり軽くだ。あれではほとんど痛みもないはずだ。
事実、頬を打たれた側はよろめきもしなかった。ただ驚いたように、瞳を見開いているだけ。
「兄様!」
クリア姫が悲鳴を上げた。その声で、ハウライト殿下がこちらに気づく。
かすかに眉をひそめて私とクリア姫を見比べ、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくると――。
無言のまま、私たちの横を通り過ぎ、お屋敷の中に入っていってしまった。
クリア姫は驚いた顔で長兄の背中を見送っていたが、それも一瞬だった。
「兄様!」
もう1度叫んで、カイヤ殿下のもとに駆け寄っていく。
私も、後に続いた。
「殿下――」
だいじょうぶですか? と声をかけるつもりだった。いったいどうしたんですか、けんかでもしたんですかと。
しかし結局はその言葉を飲み込むことになった。
殿下は茫然と立ち尽くしていた。
その表情は、奇しくも昨晩、「巨人殺し」を名乗る男が浮かべていたものとそっくり同じだった。