208 貴人の胸の内
――で、その翌朝。
私は豪華な寝台の上で目を覚ました。
甘い花の香りがする柔らかなおふとんにくるまれ、肌触りの良いシルクの寝間着に身を包んで。
寝ぼけまなこをこすりながら、気だるい体を起こす。
――どこだ、ここは。
クリア姫のお屋敷で、いつも寝起きさせてもらっている部屋ではない。
少なく見積もっても、その3倍は広さがある。
調度品は豪華だし、床も壁も汚れひとつない。ぱっと見でもお金持ちの部屋だとわかるその場所で、豪華な寝台に寝ていたのは他でもない、自分。
いったい何事が起きたのかと思った。
「あら、目が覚めたのね。ゆうべはよく眠れたかしら?」
寝起きの私に優しく声をかけてくれたのは、黒髪黒目の絶世の美女。私の雇い主そっくりのその人は、前日バザーでご一緒した叔母上様だ。
私はふとんから飛び起きた。
そうだ。ここは宰相閣下のお屋敷。昨夜遅く、殿下と共に訪れたのだ。
クリア姫の無事を確かめに行くといっても、倒れた姫が1人でお城に戻るとは考えにくい。
そのまま叔母上様と一緒なんじゃないかと、つまりは宰相閣下のお屋敷に居るんじゃないかと、予想して来てみれば当たりだったのだ。
幸い、クリア姫はご無事だった。
ベッドでぐっすり眠ってはいたけど、お医者様の診断は「異常なし」だったとのことで。
愛らしい寝顔を眺めながら、殿下と2人、胸をなで下ろし。
……その後は、わりと修羅場だった。
殿下の予想通り、深夜にも関わらず、宰相閣下は起きて待っていた。
静かな火花を散らす叔父と甥の間で、私は為す術もなく固まっていることしかできず。
率直に言って、10年くらいは寿命が縮んだんじゃないかと思う。
2人を止めてくれたのは叔母上様だった。
にらみ合う夫と甥の間に静かに割って入り、「もう夜も遅いし、難しい話は明日あらためてしましょう?」とやんわり説得した。
そんなわけにはいかないと言い張っていた殿下も、
「エルさんだって疲れているでしょう」
の一言で、結局は折れた。
「それじゃあ、すぐに寝室を用意しなきゃね。カイヤはいつも使っている部屋でいいわよね? エルさんの方は、私に任せてちょうだい」
叔母上様はてきぱきと使用人に指示を出し、それから私の手を引いて、客間へと連れて行ってくれた。
「まずはお風呂ね。軽く食事もとってもらった方がいいかしら――」
赤いバラの花びらが浮かぶ、温かな湯船で手足をのばし。
湯上がりには、メイドさんたちからアロママッサージまでしてもらい。
至れり尽くせりのもてなしに緊張の糸が切れた瞬間、疲労がどっと押し寄せてきた。
そのまま泥のように眠りに落ちて、目覚めたのが、今。
窓から差し込む日光の角度からして、既に「朝」とは呼べない時刻だ。
メイドの身で、メイドのくせに、昼過ぎまで客間を占拠して、惰眠をむさぼっていた。
――何という醜態を演じてしまったのか。
「申し訳ありません!」
寝台の上で土下座して謝ると、「まあまあ、急にどうしたの」とびっくりされてしまった。
「もしかして、ちょっとだけ寝ぼけているのかしら? きのうは大変だったものね、無理もないわ」
近づいてきて、私の背中をなでてくれる。その手は、母のような慈愛に満ちていた。
「もうだいじょうぶ。何の心配もいりませんよ」
耳元でささやかれる、甘い声。
女性の声だから、殿下とは全然違う。でも、「高貴な美声」であることは同じだ。
声質にも、ひょっとしたら似た部分があるのだろうか。そんな場合じゃないのに、何だかホッとしてしまう。
私はおそるおそる顔を上げ、叔母上様を見た。
「あの……」
カイヤ殿下は。宰相閣下は。クリア姫は今どうしているのか?
「クリアちゃんは元気よ。カイヤと一緒に、仲良く朝ごはんも食べたし、さっきお昼もすませたところ」
私は、再度いたたまれなくなった。
お仕えする方々がお食事を――しかも2食――すませている間に、メイドの自分がぐーすか寝ていたとは。
一方、叔母上様は眉間にしわを寄せて、
「それでね、もう1度くわしく聞かせてほしいの。あの子が倒れた時のこと」
クリア姫がお倒れになった原因は、「精神性の貧血」ではないかというのが医師の見立てだった。
つまり、何か強いショックを受けたんじゃないかってことだ。
その原因――かどうかはわからないものの、バザーの会場で売られていたオルゴールの曲に耳を傾けていた時、急に様子がおかしくなった、ということについては、昨夜のうちに伝えてある。
一緒に居たティファニー嬢の話によれば、その曲は「王女の呪い」。
「2人の魔女のおはなし」をモチーフにして、後世作られた歌曲集のひとつだという。
「その歌曲集なら、私も知ってるのよ。だって、とても有名だし、とても素敵な曲ばかりなんですもの。ピアノ曲やヴァイオリン曲にもなっていてね。うちのエンジェラが、私の誕生日に弾いてくれたこともあるのよ」
叔母上様の娘のエンジェラ嬢はヴァイオリンの名手だ。しばらく前にクリア姫のお屋敷に来て、素晴らしい演奏を披露してくださった。
「でも、『王女の呪い』なんて曲は聞いたことがないのよね。あなたに話を聞いてすぐ、調べ直してみたのだけど……」
「そうなんですか?」
私は驚いた。だって、ティファニー嬢はその曲について、けっこう詳細に語っていたのに。
水晶の塔に閉じ込められた王女の、報われることのない王子への愛をイメージした曲だとか。
『呪い』という曲名が不吉だから、曲が発表された当時の王妃様が改名を迫ったとか、確かそんな話もしていた気がする。
時の王妃様に嫌われたのが祟って、結果、歌曲集から削除されてしまったのだろうか?
「それなら、その逸話が伝わっているはずなのよね。要は王家の裏話でしょう。私やうちの旦那様が知らないわけはないのだけど……」
叔母上様は腑に落ちないという顔をしている
「ティファニー様に直接確かめてみるとか……」
まあ、そこまでする必要があるかは微妙だけど。クリア姫が倒れた原因が、あのオルゴールだと決まったわけではないのだし。
「ああ、ティファニーちゃんね。何だか失踪しちゃったみたいなのよ」
「…………」
すっごい軽く言われて、理解が追いつかなかった。
「失踪……」
「今朝、うちの旦那様がギベオンに問い合わせてみたらね、そういう返事だったらしいの。自分のお屋敷には戻っていないし、行き先もわからない。完全に姿を消してしまったようなのですって」
それが事実なのか、あるいはギベオンがティファニー嬢を匿っているのか、宰相閣下の部下が現在、調査中だそうだ。
「ほとぼりが覚めるまで、雲隠れする気なのかもしれないわね。あの子のお母様もご実家に戻られたそうだし……。知ってるかしら? ギベオン夫人はクンツァイトの出身なのよ」
実家に帰ったという話は、バザーの会場でティファニー嬢本人から聞いた。
理由は「クソ親父へのあてつけ」だと言っていたはずだが、実際はそうじゃなかった?
「本当の事情は、私にもわからないわ。わかっているのは、これからあの家が大変だってことだけ。クンツァイトの不祥事が全て明るみに出れば、ギベオンだってただではすまないでしょう。もちろん、両家と関係の深いラズワルドもね」
ギベオンとクンツァイトは、ラズワルドにとって、今では数少ない有力な味方だ。
その両家を失えば、どうなるか。長年、王国を支えてきた名家も、いよいよ危ういかもしれない。
「うちの旦那様は準備万端みたいよ。今回のことを足がかりに、一気呵成に攻勢に出るつもりみたいね」
「はあ……」
私は間の抜けた相槌を打った。
叔母上様の言う、「クンツァイトの不祥事」の中には、私の誘拐事件も含まれている。それはわかっている。
つまり私も当事者の1人なのだが、何というか、置いていかれ感が半端ない。
自分とは関係のないところで、事態が動いていく。それも国全体を揺るがすような大きなことが。
「宰相閣下は、どこまでご存知だったんでしょうか……」
やっぱり、気になるのはそこなんだよな。
叔母上様は「準備万端」と表現した。ってことは、クンツァイトの不祥事について、昨日今日知ったわけじゃない。
元・最高司祭の老人が私を利用したがっていたことも、やっぱり知ってたんだろうなあ……。
「ごめんなさいね」
ふいに叔母上様の口調が変わった。
「悪い人たちにさらわれて、とても怖い思いをしたのでしょう。うちの人のこと、恨んでるわよね?」
少し悲しそうに、とてもすまなそうに。宝石みたいな黒い瞳で見つめられて、私は大いに慌てた。
「違います、あの――そうではなくて、つまり――」
とっさに言葉がまとまらない。
違うというのはつまり、宰相閣下のことを恨む気持ちが全くない、という意味ではなく。
配偶者である叔母上様を責めたいわけではなく、謝ってほしいわけでもない、ということだ。
「あら、いいのよ。責めてくれても。だって、そうされても仕方がないだけのことを私たち、しているのだもの」
ふっと、叔母上様の口元が緩んだ。
今の会話の流れにふさわしくない、陽気でおどけた笑顔。
ぞっとするほど美しく、氷の花が咲いたかのような冷たい笑顔だった。
「決めてるの。やれることは全部やる。利用できるものは何でも利用するって。だって私たち、あきれるほど無力なんですもの。やれることさえやらずに居たら、後悔するって知ってるから。それを嫌というほど味わったから。あんな想いは、もうたくさんだから」
「あの……?」
叔母上様の言っていることがわからない。
急にどうしたんだろう? ついさっきまで普通に話していたのに。
……今は、何だか、普通に見えない。
目の前に居るのに私の方を見ておらず、どこか遠いところに向かって言葉を発しているみたいだった。
戸惑う私の前で、叔母上様がまた笑った。
今度は苦笑に近いような笑みで、その目はちゃんと私をうつしていた。
「あなたは怒っていいのよ。何なら見返りを要求したっていい。それが正当なものなら、きちんと応じるわ。さすがに死んでしまったらどうにもできないけれど、命がある限りは償ってあげる」
ふふ、とイタズラっぽく、小悪魔みたいに笑う。
この人はいくつ笑顔を持っているんだろう。そのひとつひとつが、どうしてこんなにも美しく魅力的なんだろう。
「でも、あの子を守るためなら、私たち何だってするつもりだから。それは今後も変わらないってこと、知っておいてちょうだいね。あなたがこの先もあの子のそばに居るつもりなら――」
なぜか背筋に悪寒が走るのを感じながら。
私は、思ってしまった。
クリア姫がバザーに参加したがっていると知り、一緒にお店をしようと誘ってくださったのは叔母上様だ。
今回の誘拐事件。
果たして彼女は、何も知らなかったのだろうか――と。