195 あの日2
それは唐突で、悪夢のような出来事だった。
目の前に、知らない男が立っている。暗い色の旅装束。目深に下ろしたフードとマスクで顔を隠した、いかにも怪しい男が。
「シムの娘だな」
そう言って、私を見る。気を失った弟を、荷物のように片手でぶら下げたまま。
「あいつが戻ってきたら伝えろ。息子は俺が預かっておくが――」
「……」
男の姿から目線を切らないようにしながら、私はそっと足もとの石を拾い上げ――。
「ていっ!」
男の顔面めがけて、思いっきり投げつけた。
まるっきり予想していなかったのか、私が投げた石は、男の眉間にモロに命中した。
「ふごっ!!」
間抜けな悲鳴を上げて、ぶっ倒れる男。その隙にと、私は気絶した弟を抱えて逃げようとした。
誤算は、その体が予想よりも重かったことだ。
気を失って脱力した状態だと、人の体は重い。普通に寝ている時よりまだ重い。
もたついているうちに、男が起き上がった。
「おい! いきなり何すんだ!」
私は再度、足もとから石を拾って投げつけた――が、今度は上半身をよじって避けられてしまった。
「落ち着け! 俺は怪しい者じゃない!」
この状況でその言葉を信じる人間が居たら会ってみたい。
「黙れ、誘拐犯!」
私はもう1度、地面から手頃な石を拾い上げた。また上体をよじって避けられないよう、男の体の真ん中辺りを狙って投げつけると。
澄んだ、硬い音がした。
私が投げた石が、地面に転がっていく。神業のようなスピードで、男が取り出したナイフに弾かれた石が。
初めて見る白刃の輝きに、私は足がすくみそうになった。それでも、気を失ったままの弟を守ろうと、何か武器になりそうなものを目で探した。手頃な石はもうない。代わりに、折れた木の枝を地面から拾い上げ、
「誘拐じゃない! 確かに黙って連れて行こうとはしたが――」
男の頭上に振り下ろす。いや、投げつける。
「頼むから話を聞いてくれ! 俺はおまえの親父の知り合いなんだよ!」
意味もなく両手をバタつかせながら、必死に弁明する男。
「おまえの親父が間に合いそうにないんで、俺が代わりに来たんだ! 親父に伝えてくれ! 息子は俺が預かっておくが、それはあの連中に狙わせないためだって!」
ぶっつりと。
白昼夢が途切れ、私は現実に引き戻された。
狭い部屋。石造りの壁と天井。目の前には、あの日と同じ男が立っている。
「…………」
私は全身に冷や汗をかいていた。
胸の内にあるのはただ、恐怖と、嫌悪のみ。
「お、おい。急にどうしたんだ? だいじょうぶか?」
私の様子がおかしいのを見て、男も戸惑っている。
浮かべた表情はどこか頼りなく、心配そうで、一見すると悪人ではないようだったが、
「人殺し……」
闇色の瞳を見すえて、私は言った。
「父さんじゃない……。あなたが殺した……」
私の村にやってきた、怪しい黒衣の男たちを。
父ではない。この男が。
物も言わず。警告ひとつせず。次々と斬り捨てたのだ。
そうだ。私はそれを見ていたはずだった。
「……思い出したのか?」
男がつぶやく。その顔は、いつのまにか起きたまま寝ているような無表情に変わっている。
「そうだよ。連中を殺ったのは俺だ。おまえの親父は、人どころか虫も殺さない優しい奴だもんな」
軽く後ろ頭をかいて、私に背を向ける。
「続きは後だ。人が来た」
その言葉通り、部屋の外から足音が響いてくる。
「いいか。余計なことはしゃべるなよ」
顔だけこちらに向けて、警告してくる男。「おまえと俺の事情を、関係ない奴に知られたくない」
誰がこいつの言う通りになんてしてやるもんか。
きつくにらみ返しても、男は無表情のまま。
「俺はおまえに危害を加える気はないが、おまえ以外の奴が相手なら話は別だ。余計なことをしゃべったら、聞いた人間が不幸になるからな。それを、忘れるな」
脅しとしか思えないセリフを口にして、ドアの方に向き直る。
間もなく、大柄で目つきの鋭い男が現れた。ゼオと名乗った男とよく似た怪しい服装。ただし覆面はかぶっていない。
「主人がお呼びだ」
今連れて行く、と答えるゼオ。
そして私の耳元で、こうささやいてくる。
「おまえを誘拐させたのは、引退したクンツァイトの元当主だよ。色々聞いてみたいこともあるんじゃないのか? 今から会えるぞ」