177 姫君の涙
なんかもう、色々あって頭痛が吹き飛んだ。
ついでに不安や心配も吹き飛んだ――かといったら、そっちの方は残念ながら残っている。
殿下の護衛が人間だろうが使い魔だろうが、「巨人殺し」の予告状が消えてなくなるわけじゃない。問題は何も解決していないのだ。
まあ、殿下はああいう人だから、なんとなく大丈夫じゃないかって気もするけど。
気がかりなのはクリア姫だ。
予告状のことは知らされていない。でも、兄殿下が大変な状況にあるのは察しているはず。
誰よりも殿下のことを心配しているのに、何も話してもらえずに。きっと、つらい想いをしているんじゃないだろうか。
そう考えると居ても立っても居られず、私はお屋敷に戻ったその足でクリア姫に会いに行った。
クリア姫は自室に居た。机に向かって、本を読むでもお勉強をするでもなく、ぼんやりと宙を見上げている。
「姫様」
私が話しかけると振り向いて、「兄様はお帰りになったか?」
無事お帰りになりましたよと答えながら、私はそっとクリア姫に近づいた。
「そうか……」
クリア姫の手元には、可愛らしい小箱がひとつ。宝石箱か、それともオルゴールかな? 多分、殿下が持ってきたおみやげだ。
「…………」
じっとその箱を見つめる、クリア姫の横顔はどこか虚ろで。声をかけることもできずに見守っていると、ふいにその瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「姫様……」
「すまない、何でもないのだ」
慌てて涙をぬぐうクリア姫。
「そうだ、エルに相談があるのだ」
不自然に明るい声と笑顔。どう見ても無理をしている。
「ギベオン家の令嬢にお誘いを受けた、チャリティーバザーの件なのだが」
そう言って、机の引き出しの中から、白地にバラの絵が描かれた封筒を取り出す。
その手紙によれば、マーガレット嬢はただバザーを見て回るだけではなく、出品者として参加するつもりらしい。2人居る彼女の姉に手伝ってもらい、クッキーやケーキを作るんだとか。
「外務卿夫人のバザーには、叔母様も毎年レース編みや刺繍を出しているのだ。せっかくの催し物だ。私は、自分も何か作って参加してみたいと思う」
この姫様にしては、珍しく積極的なことを言う。もしかして、不安をまぎらわせようとしてるのかな……。
「エルも手伝ってもらえるだろうか?」
それはつまり、貴族限定のバザーに、庶民生まれの自分の手が入った品物が並ぶということ。
果たして、その場にふさわしい物が作れるか?
自信は全くない。それでも、この状況でクリア姫が言い出したことに、反対するなんてありえない。
「もちろんですよ。何を作りましょうか?」
「私は、王国の伝統菓子を作ってみたいのだ」
王国には、お祭の時期限定で作られる焼き菓子がある。
宝石っぽい形をした専用の型に入れて焼き上げ、中にイチゴやベリーのジャムを入れる。味と食感はマドレーヌに近い。
「ちょうど庭園のベリーが食べ頃だろう。あれでジャムを作ってはどうかと思うのだ」
「いいアイディアですね。見た目もキレイだし」
「そうだろう。兄様もきっと喜んでくださる」
クリア姫の笑顔が固まった。室内の空気も、同時に固まって。
私はといえば、とっさにフォローできればよかったのに、気の利いたセリフが浮かばなかった。
気まずい空気と沈黙が流れて――。
「……どうして」
クリア姫がつぶやく。その声は、聞き間違いでなければ、確かに震えていた。
「どうして、急に来られなくなったのだろう」
それは「巨人殺し」の予告状のせいだと、知っていても言うことができない私は、口をつぐんでいるしかない。
「どうして、何も教えてくれないのだろう。私が子供だからか?」
そしてクリア姫もまた、私に話しかけているというよりは自問自答のように言った。
「そうなのだろうな。私が役立たずだからだ」
「姫様……」
「私が子供で、弱いから。一緒に悩むことも、考えることもできないと思われているから。私があれこれと心配したら、兄様の負担になってしまうから……」
そんなことない。クリア姫の心配が負担なんてこと。
否定の言葉を紡ごうとした時、唐突にクリア姫の顔がこっちを向いた。
涙に濡れた鳶色の瞳。かすかに震える唇。次の瞬間、そこから放たれた言葉に、心臓が凍りつく。
「エルもそうだろう? だから私に隠し事をしているのだ」
「…………!」
「驚いているのか? そのくらいわかるのだ。最初に会った時から、何か事情があるのだろうと思っていた」
私みたいな若い娘が、何のツテもなく王都に職探しに来るのはおかしい、とクリア姫は言った。
そもそも、どうしてメイドの仕事を引き受けたのか。ルチル姫の妹いじめのことを聞き、面倒な仕事だと知っていたはずなのに。
お金のためには見えない。前任のメイドであるパイラのように、条件のいい結婚相手を探している様子もない。まして、お城や貴族に憧れたとか、そんなふわふわした理由とは思えない。
何か明確な目的があって、王都にやってきたはずだ。そしてその目的をかなえるためには、お城で働くことが好都合だったのだ。
ほとんど完璧に見抜かれて、私は言葉が出なかった。
でくのぼうのように突っ立っていると、とどめとばかりにクリア姫は言った。
「その事情を話さなかったのは、私が子供だからだろう? きっと、カイヤ兄様には話したはずなのだ――」
「姫様……」
馬鹿のように繰り返しながら、私は必死で頭を働かせた。
どうしよう。何を言えばいい? 謝罪? 弁解? そのどちらも、役に立つとは思えない。
しかし、私が何かを言うより早く。
謝罪の言葉を口にしたのは、他ならぬクリア姫の方だった。自分で自分の言葉に驚いたという風に目を見張り、口元を押さえて、
「すまない。急におかしなことを言ったりして……!」
個人的な事情について、話せなくても仕方ない、むしろ当然のことだ。
自分はまだ子供で、兄様のように役に立てないし――とにかく、責めているわけではない、そんな顔をしないでくれと。
そんな顔がどんな顔か、考える余裕もなかった。
私は馬鹿だ。こんな有様で――自分は秘密を持ったままで、どうやってクリア姫の信頼を得るつもりだったのか。どうやって心をひらいてもらい、大切な秘密を打ち明けてもらう気でいたのか。
本当に馬鹿だ。穴があったら入りたい。そのまま埋めてもらってもいいくらいだが、今はそれよりも為すべきことがある。
「何を騒いでるんだ。ケンカか?」
尋常ではない空気を察知したらしく、部屋の入り口からダンビュラの顔がのぞいた。
「今すぐ、姫様に聞いていただきたいことがあります」
私はほとんど叫ぶように宣言した。「ついでに、ダンビュラさんにも」
俺はついでかと文句を言いつつ、空気を読んだのか、おとなしく室内に入ってくるダンビュラ。
クリア姫の足もとに腰を下ろし、「で、何の話だ?」と私を見上げてきた。




