173 あの日
それは唐突で、悪夢のような出来事だった。
――7年前。私の平穏な日常が、突如終わりを迎えた日。
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている――というのは嘘で、実際はよく思い出せないことの方が多い。それこそ悪い夢でも見たように、記憶は曖昧だ。
確か夕食の支度を手伝っていて、それができる頃になっても戻ってこない弟を探して、家を出たのだと思う。
弟は当時7歳。体が弱く、そのくせ生意気で鼻っ柱が強く、村の子供たちとはなじもうとせず、いつも1人で本ばかり読んでいた。
大抵は、家の裏手にある大きな木の下で。
夢中になりすぎて時間を忘れることも多かったから、その日もきっとそこに居るだろうと思ったのだ。
予想通り、弟は居た。
予想と違ったのは、1人ではなかったことだ。
知らない男が居た。
ぐったりと気を失っているらしい私の弟を、まるで荷物でも引きずるみたいに片手でぶら下げて。
これといって目立つ所のない地味な旅装束を着て、目深にフードを下ろし、マスクをつけていた。おかげで顔がほとんど見えなかったが、その目付きだけは覚えている。
忘れようもない。あんな冷たい目をした人間を、私はそれまで見たことがなかった。
人と、人でなしの境界線を超えてしまったような目。
淡々と、冷静に、人の命を奪うことができる。そんな人間だけが持つ、無慈悲なまなざし。
その目が、自分を見ていた。
私は、蛇ににらまれたカエルよろしくその場を動けず、言葉を発することもできなかった。
男は言った。――シムの娘だな、と。
シム・ジェイドというのが私の父の名だ。「ジェイド」は母方の姓である。父は家名を持たなかった。貧しい家の生まれで、もともと姓などなかったと家族には話していた。
――あいつが戻ってきたら伝えろ。息子は俺が預かっておくが――。
男が何を言ったか。……私の父に、何を伝えろと命じたのか。
私は覚えていない。歯がゆいことに、いくら考えても思い出せない。
――息子は俺が預かっておくが――。
リフレインする、男の声を聞きながら。私はそっと足もとの石を拾い上げ――。
男の顔面めがけて、思いっきり投げつけた。




