172 境界
どうして、クロサイト様がここに?
という私の疑問のまなざしを受けて、クロサイト様は言った。
「殿下のご命令により参りました。庭園までお送りするようにと」
なんで、クロサイト様がわざわざ?
お屋敷に送るだけなら、普通の兵士でも使用人でもできる。
「おそらく、特別な理由はないかと。たまたま近くに居て、手が空いているように見えたからではないでしょうか」
「……そうですか」
たまたま手が空いていたからって、近衛副隊長にそんな雑用やらせちゃだめでしょ。殿下も殿下だけど、それを承知してしまうクロサイト様もちょっと。
「あの、私は適当に道を聞くとかして帰りますから……。どうか、お戻りになってください」
ついさっき、あんな話を――王都では有名な暗殺者から、暗殺予告状が届いたなんて話を聞かされたばかりである。
クロサイト様にはメイドの送迎なんかより、殿下の護衛をしてほしい。
「ご心配なく。殿下の周囲には、近衛騎士の中でも手練れの者たちをつけておりますので」
「ジェーンさんとか?」
「はい。ジェーンもその1人です」
安心できない。ジェーンは強いが、敵味方の別なく吹っ飛ばしてしまう人でもある。
「他にも、殿下に個人的に仕える護衛が、影から守護しております」
個人的な護衛。それって、クリア姫にとってのダンビュラみたいな?
「護衛は数名おります。ダンビュラ殿に匹敵するとまでは申せませんが、いずれも腕はたちます」
「そうなんですか」
「気まぐれで、勤務態度に問題があり、雇い主の許可なく持ち場を離れる悪癖はありますが」
「……やっぱり、戻ってください」
そう頼んでみたものの、クロサイト様は「殿下のご命令ですので」と繰り返すばかり。
ここで押し問答しているより、早く仕事を終わらせて帰ってもらった方がいいだろうと判断した私は、彼と共にお屋敷に向かうことにした。
広い回廊。高い天井。当たり前みたいに飾られている、高そうな美術品。たまにすれ違う、立派な身なりの人たち。
ついさっき殿下と通った廊下を、今度はクロサイト様と逆向きにたどっていく。
「今回の件」
並んで歩きながら、ぽつりとつぶやくクロサイト様。
「やはり、ご心配でしょうか」
とっさに、意味がつかめなかった。
今回の件って、暗殺予告状のこと? ご心配かと聞かれたら、もちろんご心配ですけど。
「クロサイト様は心配じゃないんですか?」
そんなわけないだろうと思ったのに、返ってきたのは肯定の言葉だった。
「率直に言って、さほど脅威には感じておりません」
なぜ。イタズラや脅しかもしれないから?
「それもありますが――」
と認めた上で、クロサイト様は少し考え込むように間を取った。
「私が初めて殿下にお会いしたのは7年前、国境線の守備についていた時のことです」
急に、昔語りが始まった。
「殿下が戦地に赴くことになった経緯についてはご存知でしょうか」
「……ええ、まあ……。人から聞いただけですけど……」
悪化した戦況を立て直すため、というのが建前で、本音はクォーツの正統な血を引く殿下のことが邪魔だったから、厄介払いのために。
クロサイト様は「その通りです」と静かにうなずいた。
何度思い出しても、ひどい話だと思う。
殿下はまだ15歳だったのに。そんな「敵兵に殺されてしまえばいい」みたいな扱い、あんまりだ。
「それは違います」
今度は静かに首を振るクロサイト様。
「殿下を戦地に送り込んだ者たちの目的は、殿下を敵兵の手にかけること、ではありません。そう見せかけて始末するためです」
「……は」
私は、隣を歩く彼の横顔を見た。
そこに特筆すべき表情はない。いつもと同じ、冷静な顔。いつもと同じ、疲れたような瞳で、彼は言う。
つまり敵の目的は――「暗殺」だったのだと。
7年前。
溺愛していた甥の事故死から暴走した騎士団長ラズワルドは、でっちあげの謀反の疑いでハウライト殿下や宰相閣下を捕らえ、幽閉した。
兄の身を案じ、王妃様の離宮から王都に出てきたカイヤ殿下も、同じように身柄を拘束されてしまったらしい。
「騎士団長としては、そのまま処刑まで持っていきたいところだったのでしょうが――」
多方面から反対の声が上がり、頓挫した。
それは騎士団長の非道な行いに怒った人たちが大勢居たから、ではなくて。
「王族が処刑されることにでもなれば、30年前に起きた政変以来となります。王都の貴族社会には、いまだあの時の爪痕が深く残っている」
「血の政変」の別名で呼ばれる、30年前の事件。
当時、王都の貴族家で犠牲者を出さなかった家はひとつもない、と言われるほど多くの血が流れた、王国史に残る悲惨な出来事。
偉大な先々代の国王陛下が病没し。
後を継ぐはずだった王太子が暗殺され、代わりに暗君として名高い先代国王が即位して。
その後、王太子の弟たちや子息らが幽閉の果てに殺され、さらには親戚たちや臣下までもが犠牲になって。
数年後、先代国王が王宮内で謎の死を遂げると、今度は報復のために彼の身内や臣下が殺されて。
血が血を呼び、報復が報復を呼び、王都の貴族社会は血にまみれた。
「あの政変を若い頃に経験した世代が、今現在、多くの家々で当主の地位にあります。彼らは忘れていないのでしょう。かつて目の当たりにした親世代の愚行を」
だからこそ7年前の時も、王族の処刑には及び腰になった。
また、あの惨事を繰り返すことになるのではないかと恐れて。
「もっともそれは、あくまで王都の貴族社会における話です」
王都を遠く離れた場所でなら、事情は違う。
まして、戦場であれば。
いつ何が起きてもおかしくない。多少不可解な死であっても、敵兵の仕業だと主張すればいい。
だからラズワルドは、カイヤ殿下を戦地に送ることにした。
「王都では反対する者が多すぎる。ならば前線で『戦死』してもらおうと、そういうわけです」
そういうわけです、じゃないってば。
何なの、それ。……本当に、何なの。
「殿下もご承知の上でした。王都を発つ前、ラズワルドから直に聞かされていたそうです」
当時15歳の少年が、おまえを始末するために戦場に送るのだと、覚悟しておけと、そう言われた?
言葉が出ない。私の拙い語彙力では、ふさわしい言葉が見つけられない。
私が黙り込むと、クロサイト様もまた口を閉じてしまった。
互いに黙ったまま、しばし歩き続けて――。
「……クロサイト様は知ってたんですか」
沈黙の重さに耐えきれなくなった私は、やがて自分から口をひらいた。
知っていたのか。王都から第二王子が、政敵の手によって送られてくることを。その真の目的を。当時は最前線の砦で、守備隊長をしていたはずだが。
「自分は副隊長でした」
カイヤ殿下が来るか来ないかの頃に隊長が戦死してしまい、繰り上がりで隊長になったんだそうだ。
「前任者は事情を知っていました。何があっても見て見ぬフリをしろと命じられ、実際その通りにするつもりでいたようです」
隊長の急死後、自室に残されていた密書から、クロサイト様はその事実を知った。
「アイオラ・アレイズには会いましたか」
急に話が変わって、「え?」と聞き返す私。
それって、「魔女の憩い亭」のオーナーさんの名前。さっきカイト・リウスが過剰反応していた人である。
「傭兵だったアイオラは、カイヤ殿下に雇われ、砦にやってきました。彼女は私が知る中で最強の剣士です。そのアイオラに、殿下は剣の指導を頼んだ」
――自分を強くしてほしい。何としても生きて帰らなければならないから。
それが、妹との約束だから。
自分が死んだら、次は兄殿下が戦場に送られるかもしれない。そんなことは絶対にさせたくないから。
「アイオラはその願いにこたえて、厳しく指導しました」
殿下は剣術の基礎こそ学んでいたものの、離宮に居た頃は、病がちの母親と幼い妹、メイドたちに囲まれての生活だった。戦場に来るまで、戦い方などろくに知らなかったのだ。
その状態から、暗殺者に命を狙われても生き延びられるくらいになるためには、
「普通の方法では難しかったので」
厳しく指導し過ぎて、半殺しにしかけたこともあったとかなかったとか。
長い話が終わって、クロサイト様が口をつぐむ。
私は、何も言えなかった。
カイヤ殿下は、見た目によらず苦労してきた人なんだって、そういう話は前にも聞いたことがある。
でも、実際の「苦労」は、私の想像なんてはるかに超えていたようだ。
その時の過酷さに比べれば、イタズラまがいの「暗殺予告状」なんて、脅威でも何でもない。不安を覚えるほどのものではないと、そういうことなんだろうか――。
物思いに耽っていた私は、ふいにクロサイト様に腕をつかまれて驚いた。
「…………」
彼は無言で前方を見すえている。戸惑いながらも同じ方を見やると、広い廊下の先から、こちらに向かってくる人物、いや集団が居た。
体格のいい男性ばかりが、全部で7、8人。
その先頭には、まるで絵の中から抜け出てきたような風貌の騎士が――。
広い肩幅、堂々たる風格、鷹のように鋭い眼光。鷲鼻で、長く立派なひげを生やしている。
年齢は60代くらい? もうけっこうな老齢に見える。
「騎士団長です」
クロサイト様のささやきに、私の全身が硬く強張った。
名前だけはさんざん聞かされてきたけど、実物を見るのは初めてである。
「こちらに」
私をかばうように廊下の隅に寄り、小さく一礼するクロサイト様。慌ててその動きに習う私。
カツカツと硬い靴音が迫り、ほんの少しだけ視線を上げてみる。
すぐ目の前に、騎士団長が居た。冷たく硬い表情を浮かべて通り過ぎていく。仮にも近衛副隊長の肩書きを持つクロサイト様に対して、礼を返そうともしない。ましてメイドになんか目もくれず――いや。ちらりと一瞥した。
瞬間、蘇る。遠い日の記憶。
実家の裏手にある大きな木の下で、怪しい黒衣の男が、私の弟を荷物のようにぶら下げている。その光景が、ありありと目の前に浮かんだ。
――同じだ。同じ目をしている。
人と、人でなしの境界を越えてしまったような目。
あれは人殺しの目だ。




