16 金貸し登場
「静粛に!」
声が、した。
通りの隅々まで響くような大声。朗々とした深みのあるバリトンボイス。
発したのは、1人の男だった。
年は50がらみ、肩まで届く銀髪を振り乱し、見事な口ひげをたくわえている。
派手なフリルつきのシャツに、真っ赤なスーツ、といういでたち。
まあ、1度見たら忘れられそうもない。今夜、絶対夢に出るなという濃い容姿のおっさんだった。いったい誰かと思えば、
「ヴィル・アゲート!!」
中年男が叫ぶ。先程から話題の、金貸し当人のご登場であった。
「貴様、よくものこのこと……!」
怒気に震える中年男を、ヴィル・アゲートと呼ばれたおっさんは軽く手を振っていなし、
「まあ落ち着きたまえ。話は、これを見てからでも――」
スーツの内ポケットから細長い箱を取り出し、ぱかっと開けて見せる。
「遅くはないだろう? ん?」
箱の中には、古びた真珠のネックレス。
見た目はだいぶ貧相だが、どうやらそれが質草にとられた「家宝」だったらしい。私の背後で、中年男がごくりと息を飲むのがわかった。
「これを渡す代わりに、そのお嬢さんを放したまえ」
おっさんのセリフに、一瞬、中年男の手が緩みかけた気がした。
しかし、すんでのところで思いとどまったらしく、
「だ、だまされるものか! おまえが約束を守るはずがない!」
さらに力を入れて、私の腕を握りしめる。
だいぶ錯乱しているようだが、「人質を手放せば、自分の身を守るものがなくなる」くらいの知恵はまだ回るらしい。……それはともかく、腕が痛いんだけど。
「では、どうしたいのかね?」
おっさんは余裕しゃくしゃく、この状況を楽しんでいるようにさえ見える。
――どうしたいのか。
おっさんの問いに、中年男は必死で頭を働かせた、ようだった。10数秒の沈黙を挟んで、「馬車を用意しろ」と言い出した。
「2頭だて以上の馬車を持ってこい。それと人質を交換する」
おっさんは「ふむ、よかろう」とあっさりうなずいた。
それから馬車が運ばれてくるまで、どれくらい時間がかかったのか。
30分くらいか、1時間くらいか、それ以上だったのか。私にはよくわからない。
何にせよ短くはないその時間を埋めてくれたのは、アゲートというおっさんの無駄話だった。
べらべらとまあ、舌の回ること、回ること。
話の内容は、ここ数日のお天気や、最近ハマっている健康法、ちまたで流行しているファッションなど、よくよく考えればどうでもいいことばかりだったのに、なぜか耳を傾けてしまった。
ある時、ふいにアゲートが口をつぐんだ――と思ったら、人垣が割れ、広い通りの真ん中にぽつんと置かれた馬車が現れた。
で?
この後どうなるわけ?
馬車の姿を目にした中年男は、アゲートに向かって「家宝を渡せ」とあらためて要求した。
例の真珠のネックレスは、アゲートがずっと持ったままだったのだ。
アゲートはもったいつけるでもなく、「受け取りたまえ」と差し出すが、片手で私の腕をつかみ、もう片方の手に剣を持っている中年男に、受け取れるわけがない。
「家宝を馬車の中に置け」と男は命じた。
真珠のネックレスの入った箱を馬車の中に置き、アゲートにはその場から下がれというように剣を振って見せる。
アゲートは軽くうなずいて、その通りにした。
私の腕をひきずり、ふらふらと馬車に近づく中年男。
比喩ではない。実際に足元がふらついている。
ちらりと見えた横顔はやつれていた。心労のためかもしれないが、満足な食事がとれていないのかもしれない。
そんなことに気づいたのは、私もアゲートの長話を聞いている間に、少しは落ち着いていたからだと思う。
黙って男に引きずられていきながら、頭の中では考えていた。
男が家宝とやらに手をのばす時、剣か、私の腕か、どちらかは放す必要があるんじゃないのかな、と。
男が馬車にたどりつく。
一瞬後、放したのは――私の腕の方だった。白刃はいまだこっちを向いていたが、それでも切っ先が力なく下がった。
これって、チャンス、だよね?
私は音や気配を立てないよう細心の注意を払いながら、ほんのわずか後退し――。
男の膝裏に向かって、狙いすました蹴りを放った。
かくん、と男の膝が折れ、バランスを崩した体が、馬車の方に向かって倒れ込む。
「な」
男が発したセリフは、それだけ。
勢い余って顔をぶつけたとかじゃない。軽くたたらを踏んだ程度だ。
しかし、それで十分だった。
馬車の陰から、わっと往来に飛び出す、警官隊の制服を着た男たち。
悲鳴を上げる間もなく中年男は取り押さえられ、私はといえば――情けないことに、膝の力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。
はあ……、寿命が縮んだ。
誰かが、私の肩にふれた。「姐さん、だいじょうぶ?」と声がする。
「……カルサ?」
私はゆっくりと顔を上げた。
子供みたいな顔の見習い警官が、とても心配そうに私を見下ろしていた。