15 主人公は不運の星
混乱が、真昼の往来を駆け抜けた。
スーツの男性が、杖をついた老人が、小さな子供をつれた母親が、いっせいに走り出す。目の前の危険から、少しでも遠ざかるために。
大勢の人間があらぬ方に駆け出せば、当然あちこちでぶつかったり、転んだり、運の悪い人間が突き飛ばされたりする。たとえば、私のように。
「ひゃああっ!?」
誰かに思いっきり背中を押され、バランスを崩してつんのめり、倒れてしまう。
パニックを起こした群衆の只中で。
このままでは誰かに踏まれる――そう思い、とっさに亀の子のように縮こまる。
幸い、混乱はそう長くは続かなかった。
バタバタと足音が遠ざかり、やがて静かになる。
もうだいじょうぶだろうかと顔を上げかけた時、誰かが後ろから私の腕をつかんで助け起こしてくれた。
「ああ、すみません――」
振り向こうとした私を、その「誰か」の手がぐいと引き寄せる。
そして目の前に突き出される白刃。
とっさに、状況が理解できなかった。
「動くな! 近づくな!」
耳元で発せられる叫び声。私に剣を突きつけているのは、あのくたびれた中年男だった。
「ち、近づくと、この娘を殺すぞ!」
…………。
いや、あの。
何を言ってるんですかね、あなた?
唖然とする――というのがふさわしかったと思う。私も、コワモテの男たちも、往来の無関係な人々も。
だって、ねえ。
この状況で通りすがりの若い娘をつかまえて、近づくと殺すぞ、とか。意味わからないでしょ。
あきれるより失笑ものだ。私だって笑う。……これが他人事ならば。
ぴたりと頬に押し当てられる、冷たい刃の感触。
比喩ではなく、気が遠くなりかけた。
必死で唇を噛みしめ、ともすれば崩れ落ちそうな両膝を叱咤する。
落ち着け。耐えろ。こんな所で死んでたまるか。
「おい――」
怒りを押し殺したような声。私に白刃を突きつけている中年男の声ではない。
「随分とふざけた真似してくれるじゃねえか。覚悟はできてるんだろうな?」
あのガラの悪い大男だった。ゆっくりとこちらに近付いてくる。両腕の筋肉を盛り上がらせ、両目に危険な光を宿しながら。
「く、来るな! 殺すぞ!」
中年男が叫ぶ。大男は、その震え声をハッと鼻先で笑い飛ばした。
「勝手に殺せばいいだろうが。そんな貧相な小娘が何だってんだ」
まあ、普通はそう言うだろう――ただ、「貧相」の一言は余計だ。
「……見捨てるのか」
中年男がつぶやく。「君の主人は、それでもいいのか。『ヴィル・アゲートは哀れな少女を見捨てた』と噂になってもいいのか?」
「君の主人は」のくだりで、大男の様子が微妙に変化した。
声に怒りをにじませつつも、「要求は何だ」と相手の話を聞く姿勢に変わる。
中年男は、「我が家の家宝を返せ」と言った。「あれは我が家の誇りだ。祖先から預かった大切な品だ。それを、ヴィル・アゲートに奪われたのだ」
「奪われた? 質草に差し出した、の間違いだろうが」
大男はまた鼻先で笑うと、
「そんなに宝が惜しいなら、代わりに女房子供を売ればよかったじゃねえか。今からでもそうしてやろうか?」
「……っ!」
大男の挑発めいたセリフに、中年男は声も出ないほど怒り狂った、ようだった。
当然、人質の私は生きた心地がしない。冗談ではなく、目の前に天国の景色がちらついた。
お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん。先立つ不孝を許して。
ヤン、ユナ。ちゃんと勉強して、立派な大人になってね。
ああ、お父さん。エルはもう1度、生きてあなたに会いたかったです――。