125 貴人の訪問、その夜
その日の夜。
私は自分に与えられた部屋で、机に突っ伏してぐったりしていた。
――疲れた。
時計の針は10時を回っている。本当なら、明日に備えてさっさと寝るべきなのだが、何だかそんな気にもなれず。さっきからこうやってぐったりしている。
「本当にごめんなさいね。うちの母親が、迷惑かけちゃって」
思い出すのはエンジェラの言葉だ。
あの後、叔母上様が「クリアちゃんの次の夜会のために」、ドレスアップの仕方や流行の髪型を教えたいと言うので、クリア姫のお部屋にご案内して。
母娘水入らず――いや、叔母と姪水入らずの方がいいだろうと、私とエンジェラはまたリビングに戻った。
その際、彼女が口にしたのが最前のセリフである。
「いえ……」
私は首を振った。
別に迷惑ではない――こともなかったかもしれないが、こちらとしては、おかしな誤解が解ければそれでいい。
「でもねえ、カイヤがあなたのことほめてたのは、仕事のことばかりじゃなかったと思うのよ?」
と、叔母上様は言ってたけど。
「嫌でなかったら、少しだけ考えてみて?」
とも、言ってたけど。
……本当に、誤解は解けたんだろうか。
いやそれよりも、なんで私ごときにこだわるのだろう。カイヤ殿下なら、家柄も容姿も性格もいい女性が、いくらでも選び放題だろうに。
「本当の本当に、ごめんなさいね」
とエンジェラは繰り返した。
「普段はもう少しまともな母親なのよ。初対面であれじゃ、変人にしか見えないだろうけど……」
本日の彼女は「舞い上がっていた」のだとエンジェラは言った。
その理由は、カイヤ殿下の口から、珍しく女性の話が出たからだと。
「ちょっと前に、カイヤがうちに食事しに来たことがあったんだけどね」
その時、殿下が私の話をした。エンジェラによれば、単に「新しいメイドを雇った」的な話だったらしいのだが、叔母上様の解釈は違った。
もしかして好きな女の子ができたのかもしれないと、年甲斐もなくはしゃいでしまったのだそうだ。
「勘違いだって、私は言ったのよ。でも、まるで聞きやしない」
いったいなんでそこまで? と私は思った。
そもそも、殿下が女の話をするのは、そこまで珍しいのか。
「珍しいわね」
とうなずくエンジェラ。
「私も、身内以外の女の子の話なんて初めて聞いたかも――」
そう言いかけて黙り込み、
「あー、初めてではないか。昔、もう1人だけ居たわね。幼なじみの女の子で、カイヤと仲が良くて、ひょっとしたら好きなんじゃないか、って思ったりした子」
殿下の幼なじみ。それって、もしかしなくても警官隊のユナ・リウスのことだろうか。
「まあ、それは誤解だったんだけどね」と軽く流し、「だから、あなたは2人目」とエンジェラは続けた。
なんか、それこそ誤解を招きそうな言い方なんですが?
「殿下って、モテますよね?」
私は言った。質問ではなく、確認のつもりである。
「でしょうね。あの顔だし。中身も、まあ。完璧そうに見えて、全然違うしね。『ほっとけない』って思う人は多いかも」
ただ、とエンジェラは続けた。「まともな恋愛なんて、多分1度もしたことないでしょうけど」
私はまじまじと彼女の顔を見つめた。
エンジェラは感情を交えず淡々と、「恋愛どころか、今、普通に生きてるだけで奇跡、みたいなところあるから」
「……どういう意味ですか?」
さすがに戸惑いながら尋ねると、「知りたい?」と急ににっこりした。
そんな言い方をされたらそりゃ気になるが、それって殿下のプライベートでしょ? 部外者が聞いてもいい話とは思えないが……。
「ごめんごめん、そんな警戒しないで」
私が無言になると、エンジェラはぱたぱたと手を振って。
「ただね。うちの母親が舞い上がったりしたのも、無理ないところがあるの。あの人にとって、ううん、あの夫婦にとって、カイヤは特別だから」
特別って、要するに愛情をかけているって意味かと思ったら、エンジェラの言い方は違った。
「端的に言えば、負い目があるのよね」
「負い目、ですか」
「そ。あの子が小さい頃にね。死ぬほどひどい目にあわせた――っていう負い目」
エンジェラの口調は軽く、冗談を言っているようにも聞こえた。
しかし私は思い出したことがあった。
ルチル姫の行方不明事件があった時、宰相閣下が殿下に言っていたことだ。
――昔の自分に戻りたい?
確か、そんなようなセリフを口にしていた気がする。
「カイヤはむしろ、うちの親には感謝してるくらいだと思うんだけど」
ああ、うん。確かに言ってた。
叔父上には感謝している、って。
宰相閣下が否定したら、「見解の相違」だとか何とか。
「ただ、うちの親たちにとってはやっぱりね。そういう風には思えないところがあるみたいなの。ずっとあの兄弟の親代わりみたいな立場だったから。……それもこれも、実の両親が育児放棄なんかしたせいなんだけど」
エンジェラの言う通り、殿下の場合、本来、養育責任のある人間がかなりいいかげんだった。
宰相閣下や奥方様は、代わりにその責任を引き受けてくれたわけで、殿下にとっては「感謝すべき相手」となるだろう。
それでも「親代わり」の立場としては、子供を「ひどい目」にあわせてしまったことがつらいと。
何だか胸の痛くなる話だな、と私は思った。
……ん? ……ちょっと待ってよ。
実の「両親」が育児放棄って言った?
父親が、じゃなくて??
私の違和感には気づかず、エンジェラは話を続ける。
「だから、って言ったら単純だけど。あの子が人並みに幸せになるまでは、死んでも死にきれない、って思ってるみたい。うちの親父なんて、それが人生の目的みたいになっちゃってるし」
それが本当なら、何とも重たい話じゃないか。宰相閣下が殿下に過保護になるのもうなずける――。
かと思えば、エンジェラは急に砕けた調子で、
「ただねー、うちの母親の場合、価値観が古いっていうか。人並みの幸せ、イコール結婚、みたいなところがあって」
カイヤ殿下の成人後は、たびたびお見合い話を持ち込んでは、殿下を困らせていたのだという。そういうことは本人の気持ちだからと宰相閣下に説得されて、今はやめているそうだが。
代わりに、結婚がいかにすばらしいものか、理想の男性と結ばれた自分がどれほど幸福か、ことあるごとに力説しているらしい。
「理想の……」
私はつぶやいた。
叔母上様は絶世の美女である。一方の宰相閣下は、くまのぬいぐるみに似ている。
美女と野獣ならぬ、美女とくまさん。
「……考えてることはわかるわよ」
「あ、いえ。けっして、そんな失礼なことは」
失礼なことを思っていたのかと突っ込むことはせず、エンジェラは「まあ、そんなわけで」と話を戻した。
結婚イコール幸せ、という価値観のある叔母上様は、カイヤ殿下に良き伴侶が見つかることを切に願っているのだと。
「だけど、カイヤ殿下って王族ですよね?」
王族の結婚相手ともなれば、誰でもいいわけじゃない。
家柄とか、育ちとか、経歴とか――考えるべきことが山ほどあるはずだ。自分で言うのも何だか、平民生まれのメイドではお話になるまい。
「うちの親は多分、誰でもいいんだと思うわよ」
「はあ?」
「重要なのは、カイヤが自分で選んだ相手かどうか。身分とかどうでもいいの。どこの馬の骨でも、魔女でも悪女でも」
「…………」
「ああ、ごめんなさい。あなたが馬の骨だって言ってるわけじゃないのよ」
「お気遣いなく」
と私は言った。
王族の母君を持つエンジェラ嬢の目から見たら、私なぞ馬の骨でしょうとも。
暗いオーラをただよわせる私を、エンジェラはしげしげと見て。「あなたって、わりと可愛い方だと思うけど」
「本当に、お気遣いなく」
エンジェラは構わず続けた。「もしかして、自分の容姿にコンプレックスとかある方?」
遠慮のない問いかけに、私は言葉につまった。
エンジェラはまたしげしげと私の顔を見て、それからふっと視線をそらした。
「さっきも言ったけどね。私、自分の見た目には、昔からコンプレックスがあったのよ。今でも、全くないわけじゃないの」
彼女の視線の先には、壁にかけられた大きな鏡があった。エンジェラはそこにうつる自分の姿を見ているのだった。
彼女が沈んだ目をして黙っているので、「エンジェラ様は素敵だと思いますよ」と私は言った。もちろんお世辞ではなく、本心である。
彼女はけして不美人ではない。若干個性的ではあるが、華がある。地味で平凡な容姿の私から見れば、うらやむような華だ。
ありがと、とエンジェラは言った。
「そうやって、ほめてくれる人は確かに居るのよ。近頃は男の人でもね」
自慢か? と思ったら、そうではなかった。
個性的で、父親そっくりというのも相まって、1度見たら忘れられない容姿。
そんな彼女を気に入ってくれる男性は、どこかマニアックな趣味の持ち主が多いのだそうだ。
「うちの母親みたいに、ちょっと変わった人が多くて」
はっとため息を漏らすところを見ると、彼女自身は「ちょっと変わった人」はタイプじゃないのかもしれない。
「その点あなたは、普通でしょ。自分では地味とか平凡だとか思ってるのかもしれないけど、『普通の女の子』が好きな男性って多いわよ」
「……そういうものでしょうか」
私の気のない返事を受けて、エンジェラは。
「あなたって、野心がないのね」
唐突に、口の両端を持ち上げてにっこりする。その表情は、言っては悪いのかもしれないが、お父上の宰相閣下にそっくりだった。
「前のメイドさんとは随分違うんだ」
前のメイド――パイラは、カイヤ殿下のことが好きだった。彼女はそれを知っているんだろうか?
「身の丈に合った生き方を、と心得ておりますので」
地位や財産を持つ男性を射止めて玉の輿、というのは、一見美しい夢だ。
しかし所詮は相手の地位に乗っかるだけ。分不相応な生活は、遠慮もあれば不自由もあろう。
開き直って楽しめるだけの度胸と覚悟があるなら話は別だが、そうでないなら、見ない方が賢明な夢だ。
「そっか、残念」
エンジェラはどこか意味深な目をして、こう言った。
「少しは可能性あるかと思ったんだけど、あなたの方には脈なしなのね」
は? そりゃ、どういう意味だ――。
「ごめんごめん。何でもないから」
あらためて母親が迷惑をかけたと謝罪し、「今の話、あんまり気にしないでね」と言い残して、彼女は帰っていった。




