107 事件
何だかんだで、小1時間もクリア姫のおそばを離れてしまった。
早く戻ろう。きっと心配している。
お城の回廊を、私は小走りに進んだ。
……と、急いでいたせいで、周りをよく見ていなかったのだろう。別の方向から走ってきた誰かとぶつかりそうになった。
一瞬、不可思議な香りがする。
果物のような、ミントのような、清涼感のある香り。
「失礼」
よろけた私を、相手の手が支えてくれる。
私より少し年上の女性だった。身にまとっているのは、両サイドにシルバーのラインが入った白い服。既に見慣れた、近衛騎士の制服だ。
女性にしては背が高く、短く切りそろえた黒髪と、凜々しい顔立ち、何よりその端正なたたずまいに、私は見惚れてしまった。
クロムなんかとは全然違う。これぞ本物って感じの騎士だ。
「……何か?」
「あ、すみません」
私は慌ててクリア姫のメイドだと名乗り、「もしかして、今日、来られるはずだった……?」
護衛として来るはずだった、女性の近衛騎士なのでは。
その推測は当たりだったようだ。彼女は軽くうなずくと、姿勢を正して一礼した。
「はい。ヒルデ・ギベオンと申します。以後、お見知りおきを」
魅惑的な微笑に、頭がくらくらする。こんなかっこいい女性って居るんだ……。
「遅れて申し訳ございません。姫君はどちらに?」
ヒルデと名乗った騎士は急いでいるらしく、早口で聞いてきた。
「あ、ホールの方に……」
「そうですか、わかりました」
すばやく身を翻し、回廊を去っていく。カイヤ殿下はご一緒じゃないんですか? と尋ねる暇もなかった。
置いていかれてしまった私は、とにかく自分もクリア姫のもとへと急ぐことにしたのだが――。
その後の展開は予想外だった。
私が、夜会の会場に戻った時。
そこはあいかわらずにぎやかで、きらびやかで、美しく着飾った貴婦人たちの笑い声と、オーケストラの音色が優雅に響いていた。
クリア姫もすぐに見つかった。先程と同じ料理のテーブルのそばで、ユナと一緒に居る。
あのマーガレットというご令嬢の姿は見当たらない。それに、先程ぶつかりそうになった女性騎士の姿もない。
「姫様――」
招待客の間を縫うようにして近づいていくと、クリア姫もすぐに私に気づいて、安心したように笑いかけてくれた。
「遅くなって、すみませ――」
突然の悲鳴と、けたたましい物音が響いたのは、その時。
オーケストラの音色がやむ。
静寂が、辺りを包む。
楽しげに歓談していた貴婦人たちも、音楽に合わせてダンスをしていた令嬢たちも、誰もが凍りついたように動きを止めている。
何が起きたのか。
物音の方を振り向いた私は、信じられない光景を目にしていた。
あの、ヒルデ・ギベオンと名乗った騎士が、ついさっき言葉を交わしたばかりの彼女が――剣を抜いている。
近くに居た宴の客たちが数人、腰を抜かして逃げ出そうとしている。彼女たちが落としたものか、砕けたグラスが床に散乱している。
ヒルデの視線の先には、ダークブラウンのドレスをまとった美女が居た。
アクア・リマだ。その背中側にはフローラ姫と、さっきの侍女さんも居る。
「王家に仇なす悪女アクア・リマ! 白い魔女の名のもとに天誅を下す!」
声高に叫び、手にした剣を振るうヒルデ・ギベオン。
複数の悲鳴と、物音が交錯する。
何が起きたのか、よくわからなかった。
色とりどりの人影がヒルデに殺到して――気づいた時には、女性騎士は床に組み伏せられていた。
派手なメイド服の女性たちによって。
あれは確か、レイリア・レイテッドが連れていた……。
そのレイリアは、少し離れた場所から様子を眺めていた。
孔雀の羽根飾りがついた、派手な扇を揺らめかせて。
さっき騎士団長のことを話題にしていた時と同じ、恐ろしく冷たい目をして。
アクア・リマは元の場所から動いていなかった。
騒ぐでも脅えるでもなく、ただ静かに、取り押さえられたヒルデを見下ろしている。
対照的に、今にも倒れそうなほど青ざめたフローラ姫を、あの優しそうな侍女さんが自分の体でかばっている。
「曲者を連行なさい」
レイリア・レイテッドが命じる。
その言葉で、ようやく周囲の客たちも状況が飲み込めたのだろう。
会場内は騒然となった。




