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2.あの日

 彼女に出会ったのは中三の夏だった。

 うだるような暑さの中、額に貼りつく前髪を鬱陶しく思いながら自転車で下校していたときのこと。

 とくに音楽を聴いたり、片手で運転をしていたわけではない。

 しかしながら、通いなれた道を進むという行為は酷く退屈で、注意が散漫になっていたのだろう。

 突然藪の中から飛び出した猫に気がつくのが遅れた。

 咄嗟にハンドルをきったお陰で猫を轢くという道徳的にも精神的にも最悪の事態を防ぐことはできた。

 ただ無理矢理きったハンドルは創の制御を離れ、自転車は縁石に衝突。

 そのまま投げ出される形で創の身体は地面に叩きつけられた。

 衝撃で一瞬意識が飛びかける。

 ゆっくりと白い意識の中から浮上すると、眼前には澄み渡る青が広がっていた。

 どうやら綺麗に背中から落下したようで、背負っていた鞄がクッションの代わりとなり大事には至らなかったらしい。

 だが残念ながら無傷とはいかなかった。


「ったあ」


 指先に鋭い痛みを感じた。

 恐る恐る痛みの発生源を見ると、左手の人差し指が腫れていた。

 どうやら倒れた際に突き指をしてしまったらしい。

 脂汗が滲むが、ここで寝転がっていても痛みが和らぐとは思えない。

 早く家に帰って冷やそう。

 そう思った時だった。


「君、大丈夫かい?」


 無様に踞る創をみかねて声をかけてきたのだろう。

 指の痛みで正直人の相手をしたくはなかったが、心配してくれているようだから邪険にはできない。

 痛みをこらえながら顔を上げると、そこには「彼女」がいた。


「どこか怪我はないかい?」


「えっと、指が……」


 しゃがみこんで聞いてくる彼女に対して、思わず本音がこぼれる。

 普段の創なら「大丈夫です」と一言告げてそそくさと立ち去っていただろう。

 どうしてこの時に限ってこんなことを言ってしまったのか。

 それは指の痛みで冷静でなかったからかもしれない。

 あるいは既に彼女に惹かれていたのかも。

 彼女の涼しげな瞳に見つめられると、どうも落ち着かない。

 創はそっと目を逸らした。


「腫れているじゃないか。

 突き指か、少し待ってくれ」


 そう言った彼女は自身のスクールバッグから包帯を取り出した。


「痛むかもしれないが我慢してくれ」


 スルスルと左手の人差し指に包帯が巻かれていく。

 その手際はあまりにも慣れていて、一瞬医師か看護師かと錯覚したほどだ。

 それが錯覚だと断言できたのは、彼女の服装のお陰だろう。

 紺色のブレザーに赤色のリボン。

 確かこれは白里高校の制服だったはず。


「取りあえずはこれでよし。

 後は」


 彼女は地面に置かれたビニール袋をガサガサ漁ると、中から棒アイスを1本取り出した。

 そしてそれを患部に添えると、包帯で固定した。


「あくまで応急処置だ。

 念のため早めに病院へ行った方がいい。

 突き指とはいえ、骨折していることだってあるからね」


 その言葉を聞き背中が冷たくなる。

 骨折なんて生まれてこの方一度もしたことがない。

 まさかこんなことで骨折してしまったのか。

 そう考えたとたん指の痛みが増した気がする。


「1人で大丈夫かい?」


「はい。

 家、この近くなので」


 これが創と彼女の出会いだった。


 ◇


 その後病院へ行き、念のためレントゲンも撮ってもらったが、幸い骨折はしていなかった。

 突き指自体も2週間ほどで完治した。

 だがあの日以来、ふとした瞬間に彼女の顔が思い浮かぶようになった。

 初めはお礼を言いそびれたことに対する罪悪感から来るものだと思っていた。

 実際、最初はそうだったのかもしれない。

 しかしながら、繰り返し脳裏に彼女のことを思い描いている内に、自身の中にどうしようもない感情の揺らぎがあることに気がついた。

 波紋程度だったそれは、一度意識してしまうとまるで津波のように大きくなっていった。

 これまでこれ程までに心を乱されたことなどなかった。

 自身の変化に戸惑いを隠せない。

 だが時間をかけその揺らぎを咀嚼し、受け入れ、昇華したところで漸く気がついた。

 自分は恋をしているのだと。

 そう自覚し、一晩枕に顔を埋めて悶えてしまえば後は簡単だった。

 志望校を白里高校に変更し、猛勉強の毎日。

 それまで成績は中程度で、進学校である白里高校へ入学できるレベルではなかった。

 しかしながら、不思議なことに目標が定まった途端、あれほど嫌だった勉強が苦にならなくなった。

 いや、苦にならないというより、苦に耐えられるようになったと言うべきか。

 全ては再び彼女に会うために。

 それだけのことでここまで勉学に精が出るだなんて感慨深いものだ。

 勿論だからといってすぐに成績が伸びるなんてことはない。

 それでもコツコツ続けた勉強は、白里高校への合格という形で報われた。

 両親や担任は白里高校への入学をもろ手を上げて喜んでくれた。

 ただ、恋慕というある種の麻薬のような快楽的感情を原動力としていた事実を秘めている身としては、気まずかったのだが。


 念願の白里高校への入学を果たし一歩彼女に近づくことができたわけだが、問題はここからだ。

 何せ創は彼女の名前を知らない。

 名前のわからない人を探すのだから、聞き込みは難しい。

 現状把握している彼女の情報は、白里高校に在籍していることと、2年生であるということだけだ。

 なぜ2年生だと断言できるのかというと、それはあの日彼女が身に付けていたリボンの色だ。

 この学校では学年ごとに色が決まっている。

 現在は創達1年生が緑、2年生が赤、3年生が青というように。

 その為男子はネクタイを、女子はリボンを学年の色に合わせて着用している。

 生徒は3年間通して同じ色であり、卒業した学年の色が翌年の新入生の色となるわけだ。

 つまり、去年の春に赤色のリボンをしていた彼女は現在2年生に籍を置いているはず。

 ただ学年が分かってもそれだけでは早々辿り着けまい。

 流石に先輩の教室を覗きに行くほどの度胸はない。

 手詰まりかと思われるが、そんなことはない。

 この日の為に彼女を探すための手がかりをしっかり考えてきてある。

 それはあの日、彼女が創にしてくれたこと。

 あの包帯を巻くときの手際は、一朝一夕で身に付くようなものではない。

 恐らく彼女は何かしらのスポーツをしているはず。

 それも突き指をしやすいもの。

 例えばバレーやバスケのような球技が可能性としては高いと思う。

 自身で突き指の手当てを何度もしたことがあるのなら、あの手際も合点がいく。

 この学校に女子バレー部や女子バスケットボール部が存在していることは、ホームルームで配布された部活案内のプリントで把握している。

 漸く会えるという心地の良い緊張感を胸に足早に体育館へと向かった。





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