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迷宮主さん、おやつ食べましょう!(仮)【完結】  作者: 冬野ゆな


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45話 アップルパイを食べよう

 朝。


 いつもどおりに身支度をととのえ、鏡の前で歯を磨く瑠璃の後ろで、バタバタと音が響いていた。


「瑠璃っ! 瑠璃ー! あたしのコート知らない!!?」

「ごへんひらはい」


 寝坊したのは瑠璃ではなく母だ。着替えながら走り回るのをゆったりと眺める。窓を開け、洗濯機を動かし、朝食を作ったあたりから、そういえばまだ起きてこないなと父と一緒に考えていたのだが、普通に寝坊である。

 この家の誰かが寝坊すると同じようなテンションで走り回ることになるので、これはおそらく萩野家の血である。


「あっ、そうだねえ瑠璃!」


 キッチンのほうから聞こえる母親の声に一旦振り返る。

 口をゆすいでから顔を出すと、声をあげた。


「今度はなにー?」

「今日さ、帰りに買い物寄ってくれない? ちょっと足りないものがあって!」

「ん、いいよ」


 早口に差し出されたメモを手にして、ひととおり確かめる。

 母親は既にスーツ姿でばたばたと走り回っていた。


「忘れてた、もう一個!」

「おっす」

「果物が無いんだよね。そろそろリンゴ出てるでしょ? 買ってきてよ! 秋といえばリンゴ!」

「リンゴといえば秋!」


 まるで口裏を合わせたような会話に、二人はお互いの片手を合わせて叩いた。


「りょーかい! そういえばアップルパイとかも出てくる季節だよねー」

「えっ、じゃあアップルパイでもいいや」

「なんで!?」


 突然注文を変えてきたことにツッコミつつ、再び動き出す母親の背を追う。廊下を駆け抜けて、玄関に一直線に向かっている。


「じゃあ行ってきます!! 瑠璃も気をつけてね!」

「あーい。行ってらっしゃーい」


 バタンと扉が閉まるのを見つつ、瑠璃はメモをもう一度見て思った。


「……アップルパイかあ」







「と、いうわけで今日のおやつはアップルパイ!」


 瑠璃はにこやかに箱を掲げた。

 ブラッドガルドからしてみれば、毎度毎度なにが「と、いうわけで」なのかよくわからない。くわえて、これまたよくわからない名前の菓子である。その結果、あいかわらず微妙な沈黙のまま出迎えた。

 とはいえそれもいつものことである。


「……なんだそれは」

「リンゴのパイ」

「ああ、リンゴか」

「秋だからね!! 秋といえばリンゴ、リンゴといえば秋!!」


 さすがにもうブラッドガルドからのツッコミは出なかった。

 瑠璃はテーブルに箱を置くと、もう一度扉の向こうへと手を伸ばして、カップの乗ったトレイを引っ張ってくる。


「そういえばブラッド君ならできるんじゃない? リンゴの丸かじり」


 果実や野菜の丸かじりは、ある種のロマンである。

 歯が丈夫じゃないとできないし、顎の力や口の大きさなどが関係してくる。そしてそれ以前に、そもそも収穫した果実をそのままかじるなんて普通にはできない。


「できないこともないが」

「おお。じゃあ今度持ってこようか!」

「貴様のところではリンゴを生でも食うのか?」

「えっ。なんかおかしい?」

「……嗚呼。小僧に聞けばわかると思うが、リンゴをそのまま食う発想はないからな」

「そうなの? ……前にりんごクッキー食べてた時、そんなに驚いた感じもなかったような……」


 瑠璃が言っているのは迷宮会議を行った時の話だ。

 実際、そのときのカインはお菓子どころではなかったのだが、瑠璃にはピンと来ていなかった。


「ジャムにして挟んであったからではないのか。煮詰めたりするのはままあるからな」

「んあっ、そうなんだ。もしかして生で食べるのと味が違う?」


 今は甘い果実でも、改良の賜物でそうなったものはたくさんある。

 こちらではまだそれほど甘くないとか、酸味のほうが強いとかそういうことはあるかもしれない。


「まあでも今日はアップルパイだからね! パイの話ってしたっけ?」

「さて、どうだったか」


 これはおそらく、どちらにしろ話せということだ。

 しかしその前に瑠璃は箱を開けた。


 扇型のパイがいくつも姿を現わす。もともとは円形だったものを四つに切ったものだ。

 つやつやと光るパイ生地の真ん中からは砂糖で煮詰められたリンゴが、とろりと蕩けそうになりながら覗いている。


「あ~~、めっちゃおいしそう~~!」


 ひとつ、ふたつと順に出しながら、顔を綻ばせる。

 無表情に眺めるブラッドガルドの前に、皿に載せたそれを滑らせる。その横へ紅茶のカップを同じように滑らせると、瑠璃は早々にフォークを手にした。


 クロスされた生地にゆっくりとフォークを突き刺すと、生地に押されたリンゴが少しずつあふれ出てくる。パリリという小さな音が生地の崩壊を告げると、一気に決壊してフォークですくいとれてしまう。そうなればもう、こっちのものだ。

 リンゴの濃厚な味を想像しながら、削り取った一角を舌へと運ぶ。金属のやや冷たい感触が運んでくるのは、とろりと煮詰められた柔らかで甘い味わいだ。

 中に敷かれたクリームが、滑らかに口の中に広がると、バターの風味を隅々まで届ける。


「ん~、美味しい!!」


 もきゅもきゅと口を動かしながら、瑠璃はその味を噛みしめる。

 ブラッドガルドはとっくに指先でパイを持ち、そのままかぶりついていた。無言のままもう一口をかじりとり、そうして無表情のまま口を動かす。


「ね~、そろそろ美味しいって言ってよ~」


 瑠璃が言うと、ブラッドガルドは喉へと押し込んだ後に言った。


「…………まあまあだな」

「うん」


 初対面ぐらい弱ってないと無理なのか……と思ったが、初対面ぐらい弱らせることももう無理そうだ。

 あとは勇者くらいだが、来るなら来るで、できればもっと後がいい。

 せめてあと、もう少し。


「それで?」


 ブラッドガルドが視線を向ける。

 瑠璃はスマホで検索しながら、とろりとしたリンゴを口に入れた。


「パイ生地っていうのは小麦粉と水の生地にバターなんかを挟んで折りたたんで作るものだね。前に食べたクロワッサンとかもパイ生地を使ったものだよ」

「……嗚呼。何か覚えがあるとは思ったが」

「ただ実際は、『パイ』っていうのはあくまでお皿の上に果物とかクリームを載せた形状のお菓子のことであって――パイ生地、っていうのは正しくないみたいだけどね」

「直前に言ったことを覆すのはやめろと何度も言ったが?」

「まあいいじゃん、なんかもうパイ生地で浸透してるし。私も今更パイ生地じゃないとか言われても……」

「貴様が今困った顔をするな」


 普通にいまスマホで調べて知ったことであり、完全に瑠璃は困惑していた。


「でもわりとこういう間違った言葉が浸透しちゃった例って結構あるんだよ~~。ブラッド君とこではないの? ゴビ砂漠みたいなさ~~」

「貴様の例のほうが意味がわからん」


 真顔で言うブラッドガルド。

 ちなみにゴビ砂漠は、『ゴビ』自体が砂漠をも指す意味があるため、すべて訳すと砂漠砂漠になる。だが語感が違うので日本ではゴビ砂漠で通用してしまっているものだ。


「ひとまず続けろ」

「わかったよ」


 しぶしぶと続ける瑠璃。


「原型としては、古代エジプトのお墓の壁画に描かれたっていう『ウテン・ト』。ギリシャや中近東で作られたのは、パート・フィロって呼ばれる生地に油脂を塗って重ねて焼く『バクラバ』あたりがそうだって言われてるみたいだね」


 なお、墓の壁画に描かれている理由は、古代エジプトでは死後の世界で不自由しないように装飾品などとともに埋葬されたり、神への供物にされたりといった理由だ。


「ではそこが由来か?」

「んー。現代の……つまり折り込んで作るパイ生地としては、二つ説があってね」


 ひとつめは、クロード・ロラン、本名をクロード・ジュレという画家が作ったという説だ。

 ロランは風景画家として有名なのだが、その説によると、貧しかったロランは画家になる以前、菓子職人の見習いとして働いていたというのだ。

 ところがあるときバター生地にバターを入れ忘れ、慌ててバターを挟んだ。よく混ぜるために何度も折りたたみ、焼いてみると……あら不思議。生地は層をなして膨らみ、これがパイの始まりとなった。そしてロランは金を手に入れ、フィレンツェに渡ってみごと画家となった、という話なのである。


「……菓子職人以外が出てきたと思ったら……なんだそれは」

「えっ、割と面白い話だと思うけど」

「……」


 ブラッドガルドにとっては、作ったのが有名菓子職人や王族、というエピソードが、単に貧しい画家の若い時代に変えられただけに等しい。

 とはいえ地味な真実よりも物語性のある虚構は広まりやすいというのはここまでに幾度となく聞いてきたことだ。もはや考えないことにした。


「ふたつめのほうが由来としては地味かなぁ」


 瑠璃はスルーして話を進める。


 ふたつめは、コンデ侯爵家の製菓長をつとめたというフィユという人物の名前からという説だ。そもそもフランス語でパイ生地のことをさすフィユタージュが、フィユ氏からとられたということになっている。

 といっても、フィユタージュはもともと葉という意味のフィユという言葉から派生しており、辞書には本をめくることという意味がある。 


 ただしパイが記録上に出てくるのはイギリスにある修道院の出納帳で、当時は食べるためではなく、かまどであぶり焼きにするための容器としての機能しかなかった。

 オーブンの改良などによってようやく食用として使われはじめたのは、十六世紀になってからのことである。


「で、まあ材料によってリンゴを入れればアップルパイってわけ。桃を入れればピーチパイで、レモンを入れればレモンパイとか。他にも肉とか魚を入れる惣菜系があって、そっちはミートパイとかがポピュラーかなあ。あとはニシンのパイとか」


 瑠璃もアニメ映画の影響でニシンのパイに興味を持ったくちだ。パイは西洋の食べ物の代表格のようなところがあり、一種のあこがれとともにある。だが、パイからニシンの頭が何本もつきだした本物のニシンのパイの画像を見て、声を失ったことがある。

 画像を見せると、ブラッドガルドも微妙な表情をした。


「センスを疑う……」


 ブラッドガルドはそう言いながらアップルパイをかじりとった。


「ブラッド君でも無理か……」


 絶妙な画像の並ぶ画面から少し元に戻って、気も取り直す。


「あとはミルフィーユとかがちょっと特殊だけど……これはどうする?」

「言わせるつもりか?」

「……だろうね……」


 そのうちミルフィーユがこのテーブルに並ぶ日が来るようだ。


「ミルフィーユのほうが、本をめくるって感じがするかも。じゃあまあ、これからアップルパイの話に入るわけだけど」

「……む」


 目線だけが瑠璃を見る。


「まず、アップルパイはアメリカのお菓子として有名だね。特に家庭料理として有名で、アメリカといえばアップルパイ、アップルパイといえばアメリカ。『アップルパイと同じくらいアメリカ的』みたいな言葉もあるみたいだし、国民の祝日として平気で『アップルパイの日』なんてのが存在するんだ」

「……ここまで聞いておいて何だが、妙な言い回しをするな?」

「お、気付いた?」


 スマホをスクロールさせる。


「まあ、実際はアメリカ発祥ではないよね……」

「だろうな」

「そもそもアメリカは移民の国なんだし。本来はイギリスで作られた家庭料理だね。中世の時代から存在してて、ヨーロッパでは結構色んな地域で作られたみたいだね。国によっても特色があるみたいだよ」

「……特色?」

「んーと……」


 食べかけのアップルパイをつまむと、ブラッドガルドに見せる。


「こうやってリンゴがパイ生地に包まれているかたちがアメリカ産。オランダ系やドイツ系の移民がアップルバターを作ってパイに包んだものがアメリカ版アップルパイのはじまりとも言われてるよ」


 シナモンなどのスパイスを振りかけるのもアメリカ流といえよう。

 日本ではそういったスパイスが振りかけてあるだけで、ひとつの特徴になるのだが。


「で、フランスでは『タルト・オ・ポム』っていうのが親戚とも言われてるね。これはタルトの型に生地を敷いたものに、クリームをひいて薄くスライスしたリンゴを同心円状に並べてあるやつ」


 検索するとすぐに画像は見つかった。

 そのうちのひとつを表示してみせたものを、ブラッドガルドへと見せる。


「ただ、他にも『ジャルジー』っていう、帯状に切ったパイ生地の上に材料を載せて、更に上から蛇腹状にパイ生地を並べて焼いたやつもあるね。 

 ウィーン菓子で『アプフェルシュトーデル』っていうのもあるけど、これはアップルパイよりもパリパリで薄い生地で、実際仲間というよりは遠い親戚みたいなものかも。

 あとはちょっと変わった所だと、リンゴをまるごとパイ生地で包んで作る『アップルダンプリング』っていうやつかな。これはむしろリンゴの包み焼きってカンジだから、パイかって言われると違う気もするけど」


 瑠璃が言い終えると、ブラッドガルドは静かに言った。


「……で、それらは並ぶのか?」

「テーブルに?」


 頷くブラッドガルド。


「……まあ……どう……かな……」


 言わなきゃよかったと若干思った。


「でもさ、そっちの世界でもアップルパイみたいなものはあるんじゃないの?」

「知らん。だがまあ、リンゴの木くらいはどこにでもあるのではないか」

「あっ、でも味が違うかもなんだっけ。酸味が強いとか?」

「食えばわかるだろう、食えば」

「……カイン君とこにあればね……」


 いまだにカインの国以外に行けないのは解せないところだ。

 迷宮から外に続く道へと行けば外には行けるのだろうが、その機会はまだない。迷宮の縮小で多少マシにはなっているらしいが、それでも魔力嵐に乗り込むと一気に魔力から体に影響が出る。

 今のところヴァルカニアに入ってしまえば二度と出られないという都市伝説のような国になりつつある。しかもそこにブラッドガルドがほぼ思いつきで何かを作り上げるので、若干カオスが加速している。


「でもリンゴがあるならアップルパイ、作れそうかな。小麦粉が問題だけど」

「ああ、小麦がどうしたという話をしていたな、以前に」

「うーん。リンゴだけってなると、なかなかなあ。焼きリンゴとかコンポートとか……あっ、酸味があるならシードルとかでも良さそう」

「シードル?」

「リンゴのお酒だよ。確かリンゴと酵母だけで作れるんじゃなかったっけ」


 言ってから、瑠璃とブラッドガルドの時間が止まった。


 ――あっダメだこれ、完全に話題を誤ったやつだ。


「……なるほど、秋はリンゴの季節……そうだったな?」

「……そ、そうだね?」

「……では貴様の世界のリンゴと食べ比べでもするか。小僧の領内でな……」 


 ちなみに後日――唐突にヴァルカニア領内に酒造所ができ、普通のリンゴよりはるかに甘いというリンゴの種が植えられ始めたが、その真相にまつわる少女の苦悩については、さておく。

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