39話 荒れ地に行こう(1)
「……ぐっ……」
カインの苦しげな声は、嵐の中に消えていった。
周囲は嵐が際限なく吹き荒れていて、視界はひどく悪い。数メートル先は真っ暗で、何も見えなかった。
だがその嵐は単なる風ではない。もちろん嵐というだけあって風のようだが、渦巻いているのは強大な魔力だ。地上の魔力と迷宮からの魔力がお互いに押し合い、干渉しあった結果、渦を巻いているのだ。
「だ、大丈夫? カイン君」
瑠璃の声にも、返事をするのにしばらくかかった。
「……え、ええ……まだ……なんとか」
魔力の内部を直接弄られているような気持ち悪さだった。いや、実際に魔力の器そのものが干渉されているのだ。
常にぶん回されているような目眩と吐き気、そして今まで感じたことのないような頭痛。あらゆる苦痛が襲ってくるようだった。
干渉し合った魔力嵐の中とは、これほどまでに危険なのか。
「……る、瑠璃、さんは……平気なのですか」
「多少ブワッてなってるけどたぶん平気」
瑠璃も瑠璃で、この状況に戸惑っているように見えた。
それもそうだろう。
あたりが見えなくなるほどの嵐のただ中にありながら、彼女いわく「多少ブワッてなってる」くらいで済んでいるのだから。
違和感が無いほうがおかしいのだ。
そして何故、二人がこんなことになっているか。
それは、少し前に遡る――。
*
「待ち合わせ、何時だったっけ?」
「えーっと、十時半だよ」
廊下をばたばたと歩く音が三つ。
そのうちの二つは玄関へと赴き、慌てたように靴を履く。
「それじゃあ瑠璃、気をつけて行ってきてね! 鍵はかけて、火のもとは消しておいて、あああ、それから……」
「わかってるって! それよりお母さん時間」
「まあ楽しんで来い」
父親の反応はあっさりしたものだった。
玄関先から声をかける両親に手を振る瑠璃。
「うん、行ってらっしゃーい」
怒濤の勢いで仕事に行く二人を見送り、扉が閉まったのを見る。扉の向こうで足音が遠ざかっていくのを耳にしながら、瑠璃はその扉に手を合わせた。
「嘘はついてない。嘘は」
扉に向かって拝みつつそう言い聞かせる。
友達と旅行に行く――それじたいは嘘ではない。
それが異世界であることを除けば。
瑠璃はそのまま部屋に突っ返すと、お出かけ仕様のスカートとシャツを脱ぎ捨てた。その数分後。そこには厚手のトレーナーパンツに通気性抜群のシャツ、そして風防効果もついたレインジャケットと、それこそ山にでも登るかのような格好の瑠璃がいた。
そして、これまた山用の手袋をキュッと嵌める。
ザックに手をかけて背負うと、部屋にあった扉――本来、鏡があるはずの扉を――開けた。
「おまたせ!」
その声に最初に反応したのは、ブラッドガルドだった。
続けてカインが瑠璃を見たが、その後の反応は面白いことに二人とも同じだった。
瑠璃はそれに気が付かぬまま、お茶会部屋の隅にあるピッケルを手にする。面白いほどに二人の視線が瑠璃を同時に追っていた。
ピッケルを剣のように素振ったあと、ようやく振り返った瑠璃。
「……なんだそれは」
そして最初に声をあげたのも、ブラッドガルドだった。
「我が迷宮をなんだと思っているのだ」
「えっ、ダメ!? だって私、迷宮に出たこと無いし」
「……」
二人の反応は当然のことである。
なにしろ、基本的に冒険者というひとびとは、鎧をはじめとした防具を身につける。革にしろ金属にしろそれは当然のことであり、まさか布――少なくともただの布に見える――を着てくるとは思わなかったのだ。
「大丈夫。なんとか隠れてるから!」
瑠璃は親指を立てる。
カインが困惑した表情で見守る中、瑠璃は瑠璃でブラッドガルドを振り返り、ビニール袋を差し出す。
「あとブラッド君はしばらくこれでなんとか……」
中身は全てクッキーやチョコレート菓子だ。
ブラッドガルドはまだ呆れたような微妙な目で見ていたが、ビニール袋だけは無言で受け取った。
「大丈夫だよ、これ一応はあの、破れにくい素材?」
「そうなんですか? これでいて魔力糸を編み込んであるとか……?」
「さすがにそんな不思議力的なものは無い……」
「ふ、不思議ではないんですが」
微妙にちぐはぐな会話を繰り広げつつ、それでもカインは無碍にはできないでいた。カインはカインで、瑠璃に恩を感じていたのは事実だ。それに、荒れ地へ行くことになったのはやはり何かしら考えているからなのだろう――そう自分を納得させていた。
「本当に迷宮探査は始めてなんですね……」
「そりゃそうだよ! でも、目的地は荒れ地であって迷宮じゃないからね!」
それは通常の冒険と真逆と言っていい。
本来は迷宮の奥地であるこの場所を目指すのだから。
「まあいいや。ここでグダグダしてても始まらないし。行こう! よろしく、カイン君!」
期待に胸躍らせながら、瑠璃は片手を差し出した。
カインは自分を落ち着かせるように一息ついてから、吹っ切れたように頷いた。
「はい。よろしくお願いします」
二人は改めて握手をすると、笑い合う。
「んじゃあ、行ってきます!!」
瑠璃はあっさりとカインを連れだって、迷宮へ続く扉を開けた。
そのとき、カインはしっかりと見ていた。
先を行く瑠璃の足から続く影の中に、見覚えのある影が入り込んでいくのを。
それはカインの後ろ側から、素早く蛇のようにうねって――というより、蛇の形をした影が、うねりながら瑠璃の影の中へと入り込んだのだ。それどころか、闇の中からテチテチと出てきた一匹のカメラアイが巻き込まれて一緒に影の中に入り込んだ。
瑠璃の影は一度うねってから元に戻った。
カインは目を見開いて振り返ったが、そのときにはもうブラッドガルドは目線を逸らしていたし、早く行けとばかりに手を払った。それ以上何も言わないことに決めた。
「……」
小さく名を呼び、カインは頭を下げた。
そして、もう一度振り返って瑠璃を追いかけた。それでもブラッドガルドは視線を逸らしたままだった。
カンテラを手に、追いついたカインが先導する形で迷宮を進む。
瑠璃もこの近辺は移動したことがあるのか、落ち着いたものだった。だが、カインがいた部屋をすぎたあたりになると、きょろきょろとあたりを見回していた。
石造りの壁に木枠がときおりあるだけの迷宮は、どちらかといえば質素な作りだ。足元は土か石畳だが、どこまでも同じ景色が続いているだけだ。通りの向こうは暗闇に包まれて何も見えず、どこからか不気味な風の音が低く響いている。
シバルバーの荒涼とした景色すら見えない迷宮の中は、人の不安を増大させるようだった。
「……本当に迷宮に出たことが無かったんですね……」
カインのつぶやきに、瑠璃は後ろでうなずく。
「出たことが無いっていうか、遠くへは行ったことが無いっていうか」
「このへんはまだブラッドガルドの城ですからね」
「城とは……」
瑠璃は復唱したまま微妙な顔をした。
戻ったらもっと「城」っぽくさせたほうがいいかもしれない――そんな表情だ。そんな瑠璃の考えを知ってか知らずか、カインは尋ねる。
「しかしどうして……荒れ地に行こうと?」
「んえ? そりゃまあ、一度見ておいたほうがいいかと思って。というか、カイン君の目で見たほうがいいよ」
瑠璃は瑠璃で、以前と同じことしか言わなかった。
――というか、あそこに人がいるっていっても信じなさそうだしなあ。
そもそも荒れ地に人がいる、というのは、ブラッドガルドですら予想外だったらしい。
「ぶっちゃけ、ブラッド君が出てくべきだと思うんだけど」
「それは……さすがに難しいのでは……?」
まっとうなツッコミしか返ってこなかった。
ブラッドガルドが戻ってきたからなのか、それとも何か他の要因でもあるのか、魔物らしき影は見つからなかった。できるだけ魔物の巣は避けているものの、それでも一応ここは最下層に近いところだ。二人は注意深く進んでいく。階段をのぼってしばらくした頃、瑠璃が不意にきらりと光るものを映し出した。
「お? なんかあそこ、違うとこあるね?」
「え?」
二人が近づいていくと、道が妙に狭まっている箇所があった。
狭まっているどころではない。
その向こうは鏡張りになっていて、長方形の鏡が所狭しと並んでいる。それなのに、足下を見ると三角形が見えてきたり、鏡がお互いを映して二人の姿が
「あー。ここかあ。なんか迷宮を変化したとかなんとか言ってたの」
「か、鏡……ですか、これは?」
瑠璃と違って、カインは戸惑っていた。
「ミラーハウスじゃん。ほんとに遊んだだけなんだな……」
「これだけ鏡があると不安になってきますね……」
「えっ、そう? 鏡くらいあるでしょ!?」
無理も無い。
ミラーハウスという概念がわかるのは瑠璃だけだ。
そもそも異世界の住人たちにとって鏡は高価な物品だ。小さなものならばともかく、この大きさのものを何枚も使って合わせ鏡にするなどということができるのは、貴族か上位の魔術師くらいのものなのだ。
「というか、あんだけ私の話をメンドくさそうに聞きながらしっかり使ってるとか」
「えっ?」
「あ、えーと……」
さすがに日本が誇る一大テーマパークことキングダムランドのミラーハウスを説明するすべは持っていない。
「待って。……ということは?」
瑠璃は足を踏み入れる。先に進むと、やはりカインは気味が悪いのか微妙な表情をしていた。
自分の姿があちらこちらに映るのは気味が悪いことこのうえないのだろう。
「……うっ!?」
「あ、やっぱり」
進んで行く過程で突如見えた道化の化け物に、二人は別の意味で引いた。
「知ってるんですか!?」
「うん。あれ、ホラー映画の……いやあの……、ああいうピエロの化け物というか……化け物を模したものっていうか……」
まさか本物ではあるまい。本物のキングダムランドでは、コミカルな鏡の精霊が現代技術の力で鏡に現れるというファンタジックな仕様だ。
だがここではあろうことかピエロの化け物がにたにたと笑いながら延々こっちを見てくるという地獄である。
「多分攻撃はしてこない」
「なんでわかるんですか!」
「……そういう仕様だから……」
瑠璃にもそういう仕様だからとしか答えられなかった。
ひとまずカインが落ち着くのを待って、二人は先へと進んだ。ようやく出口にたどり着いたころには、一帯を抜けていた。
「しかし、誰もいませんでしたね。おそらく、調査団の方々は一応はちゃんと抜けられたのかと」
「そっか……」
瑠璃は少しだけ安堵したように言った。
「あれを見てパニックになっている可能性もありますが……案外、すらっと抜けたのかもしれませんね」
「すらっと抜けられてこれ以上恐ろしいものを作られても困るんだけど」
「……作る……つもりなのでしょうか」
「ほら、ブラッド君てとりあえず敵は倒せばいいみたいなトコあるでしょ。だからそういう心理的な恐怖とか、自分に無い発想はすごい面白いみたい?」
「なんて迷惑な……」
怪獣映画とかも見るけど。という一言は口の中で呑み込んでおく。
「最近はゲームのほうに傾いてるから大丈夫だよ。早くチェスのルール覚えろとか言ってくるし」
「……それは……それで、意外ですね」
本当に意外そうな顔をしたカインを目の前に、「チェス」は言葉として通じるんだなあ、とぼんやりと思った。
「……さて、瑠璃さん」
「なに?」
「迷宮はここからが本番です」
ある意味、ここからはじまる。
「風景が全然変わらないからわかんないんだけど……迷宮ってどこもこんな感じ?」
「……ここが特殊なんですよ。ブラッドガルドの迷宮は、基本的に同じ景色が延々と続きます。でも、ここにも自生している植物はありますから。魔獣の爪とか鬼瓜とか聞いたことないですか?」
「魔獣の爪は聞いたことある」
瑠璃は思い返す。
「魔獣の爪」は確か現実世界で言うところの鷹の爪。もちろんトウガラシだ。味はわからないが、ところ変われば呼ばれ方も違うのだろう。
「この先にそういう場所ってあるの?」
「ええ、ありますよ。もう少し先になりますけど」
「おお……」
瑠璃は感動に打ち震えた。
異世界の植物!
そもそも異世界に来ながら、狭い封印部屋だの迷宮の一室だのしか知らない瑠璃にとっては、それだけでも感動ものである。魔物の食べ物だとか、見下されているとかそんなことはまったく関係ない。
「よし行こう、すぐ行こう!」
「あっ……待ってください瑠璃さん! その先は……!」
制止は間に合わなかった。
ちらりと広間に足を踏み入れる。
そのあまりの瑠璃の無防備な気配に、魔獣がぎらりと目を向けた。




