4話 マドレーヌを食べよう
学校からの帰り道、瑠璃はふと足をとめた。
普段は通り過ぎていた小さなケーキ屋さんに目を向ける。
何しろ通り道から少し中に入ったところにあるので、あるのは知っていてもまじまじと見てみたり、入ったりしたことはないのだ。そういう店だ。外はレンガ造りのこぢんまりとした作りで、木製のドアの脇には黒板があり、そこにメニューが書いてある。
ドアの窓から店内の様子を伺うと、何人かのお客さんがいるらしい。
誰もいないといないで入りにくいのは、はじめてのお店ではよくあることだ。少しだけほっとしてドアを押すと、カランコロンと涼しげな音が鳴った。
「いらっしゃいませー!」
きょときょととあたりを見回す。
白めの木製の家具はどこか優しく、ホッと一息つける空間になっていた。歩くと床からこつこつと音がする。最近流行りの、リノベーションされたお店なのかもしれない。
ガラスケースの前に立ってケーキを覗き込むと、ぱっと明るい空間が花開いた。
鮮やかな色合いが飛び込んでくる。
ショートケーキの白いクリームのキャンバス上にちょこんと乗るイチゴとミントの色合いは抜群だ。
チョコレートケーキはちょっと大人な雰囲気で、雪のような粉砂糖と、六花を思わせるホワイトチョコが花を添えている。
シュークリームからちょいと出ているイチゴも、ウサギの耳のようでかわいらしい。
まだまだ商品は並んでいる。
――おいしそう!
見た目にも惹きつけられるし、こういうお店だとシンプルなものしか出さないこともある。それはそれでいいけれど、彩り豊かなお店もいいものだ。
こんなお店を知らなかっただなんて!
これはなかなかの発見じゃあないですか?
瑠璃の心は躍った。
見ているだけでもずいぶんと楽しい。
――っていってもなあ。
急に現実を思い出す。
ちら、と売られているケーキをもう一度見る。
値段に関してはこの際置いておくとして、いかんせん――場所が問題だった。
何しろお茶会の場所にはテーブルが無い。
カップケーキとかならまだ希望があるんだけど、と顔をあげた時だった。
「あ」
これだ、とすぐに手を伸ばした。
*
「お茶会で食べるものっていうイメージのひとつにあるね」
瑠璃はそう言って、箱を開けた。
中に入っているのは、個包装されたマドレーヌだ。
「そういうものか?」
「ここは全然お茶会のイメージではないけどね」
それだけは言っておく。
牢屋の中で行われるお茶会とか、なんだか後ろ暗い雰囲気がぷんぷんする。
とはいえ、いくらそんな場所だといっても、看守はいないしすぐ隣は自分の部屋だ。どうしてこうなった感はいつもある。
ブラッドガルドは箱の中に無造作に手を突っ込み、マドレーヌを一つ取り出す。
「変わった形だな」
確かにはじめて見た時は瑠璃もそう思った。
今回買ってきたものは、ちょっと細長い形をしている。
オマール貝とかこんなんだった気がするなあ、とぼんやりと思った。
「これ、貝殻の形なんだよ」
「こういう貝があるのか」
「たぶんあるんじゃないかな。物によってはもう少しほんとに……普通のこういう扇型に近いマドレーヌもあると思う」
「ともかく貝の形というわけか」
透明なビニールを剥がす様子は、既に慣れたものだ。
瑠璃もそれに従って剥がした。ゴミはいつものように、箱の隅っこのほうに入れておく。
口の中に入れると、バターと砂糖たっぷりの香りが舌先をなでる。
ふわりとしたやわらかな貝殻にかじりつくと、しっとりした食感が広がった。
甘く優しい味が口の中で踊り、小さくなっていく塊を惜しむように喉の奥へ運ぶ。
ごくりと飲み下す。
二口目をかじると、変わらぬバターの味わいが迎えてくれる。
やはりしっとりした食感が、とろけるように名残惜しげに落ちていった。
小さな貝はあっと言う間に無くなってしまう。
少し甘すぎるほどの、けれどもちょうどいい砂糖の量が心地よい。
――これは……。
紅茶がほしい。
瑠璃がほうっと息を吐き出している間に、ブラッドガルドは二個目のマドレーヌに手を出していた。
「海に謂われでもあるのか」
ブラッドガルドに尋ねられ、瑠璃はハッと現実に戻ってくる。
「え? あ、どうだろ。そうなのかな?」
海とマドレーヌってどうしても結びつかないけど、とスマホを取り出して確認する。
検索をかけると、意外とすぐに見つかった。
「あれ、でも名前の由来は人の名前みたい。なんか五つか六つくらいあるけど」
「貴様らは少し伝説に踊らされすぎではないのか」
「否定はしない……」
迷宮の主とかいう伝説みたいな存在の人にいま一番言われたくない台詞だ。
「んーとねえ、とりあえず……」
画面を送りながら、由来を見ていく。
「フランスのロレーヌ地方の料理人マドレーヌ・ポールミエが考案した。ジャン・アヴィスという料理人が作って、形が小さく可愛いから、もしくは愛人の名前からそう名付けた。マドレーヌという少女が巡礼者に提供していた。マドレーヌは「サンクタ・マリア・マグダレーナ」、マグダラのマリア信仰って意味なんだけど、そこから名付けられた」
ブラッドガルドが無言で見てくる。
言いたいことはだいたいわかる。
「あと有名どころが二つあってね」
気が付かないふりをしておいた。
「フランスのロレーヌ地方の領主、スタニスラス・レクザンスキーがコメルシーのお城で晩餐会を開こうとしたが、菓子職人が仲間を喧嘩をして出て行ってしまった。そこで急遽、料理上手の女中がお菓子を作った。これをたいそう気に入り、女中の名前であるマドレーヌと名付けた。……あ、この人、当時の王様であるルイ十五世のところに嫁いだマリー・レクザンスカさんのお父さんで、娘に送ったらパリで人気になった……だって」
ほへー、と驚く。
確かルイ十六世に嫁いだのが有名なマリー・アントワネットだから、その一代上かあ、という感想しか出てこなかったが。
「それから同じくロレーヌ地方のコメルシーで、ポール・ド・グロンディって枢機卿の話ね。お抱え料理人のマドレーヌ・シナモンに、いつもの揚げ菓子で違うお菓子を作るように言ってできた。こっちは一応信憑性があるみたいだけど……」
「いずれにしろコメルシーという場所で広まったようだな。貝殻の意味はまったくわからんが。単に小さくて愛らしい、というだけか?」
「えーと、ちょっとまって」
画面を送ると、由来もようやく出てきた。
「日持ちするから巡礼のお供になってたみたい。こっちにある宗教の巡礼ルートのなかに、フランスの各地から隣国スペインのサンチャゴ・デ・コンポステラって都市を目指す巡礼ルートがあるんだけど、そこを通る人たちの通行証というか、身分を示すものとしてホタテ貝を身につけてたんだって。あとの説としては、その巡礼者に提供してた女の子が同じ貝殻で作ってた、ってことみたい」
言い切ってから、瑠璃は思う。
――ホタテ貝って通行証なんだ……。
まったくそういうイメージがなかった。そもそもキリスト教圏の話だから、あんまりぴんと来ていないのも事実だけど。
ヤコブはイエス・キリストの使徒のひとり。
九世紀――イスラム教徒によるイベリア半島統治からの、キリスト教徒によるレコンキスタ(再征服)まっただ中。そんな時に駆け巡った、「聖ヤコブの遺骸がサンチャゴ・デ・コンポステラで発見されたというニュース」は、キリスト教徒を鼓舞するのに充分だった。
その後も情勢は大きく動いたとはいえ、ヤコブはレコンキスタの象徴となり、サンチャゴ・デ・コンポステラの巡礼ルートは三大巡礼地のひとつとなったという。
――なんか……この状況はある意味できすぎてる気もするけど……。
だが、その真偽を瑠璃が考えても仕方ない。そういう話があったというのは事実なのだろう。
いつだって現実が創作を上回ることは有る。
今の状況のように。
「貴様らの感覚はわからん」
マドレーヌにかじりついたブラッドガルドからは、どこか投げやりな感想をもらった。
「一応シンボルになった理由もあるみたいよ」
タップしながら別ページを開く。
「巡礼者が食器代わりに使ったから、っていうのもあるけど――この聖ヤコブっていう聖人漁師の生まれで、ホタテ貝が家紋だったとか、杖にホタテ貝がついてた、とも言われてるね」
この辺になってくると、マドレーヌというよりはマドレーヌの型になった貝がどこから出てきたものなのか、という話になってくる。
「あとは――、海中に落ちた騎士が聖ヤコブに祈ったら助かったんだけど、陸に上がったらホタテ貝にびっしりはりつかれてたとかもあるね」
「理解はしたが、最後のはどうなんだ」
「う、うーん……」
見方によってはホラーかもしれない。
いくらフランスでは聖ヤコブの貝とまで言われているといっても、だ。
そもそも日本人である瑠璃にとっては鍋に入れる定番の具、くらいの認識でしかないから、おかしなことになるのだ。なかなか面白い話ではあったけども。
ブラッドガルドは手についた小さなかけらをなめとってから、射貫くような瞳で瑠璃を見た。
「そして、貴様の唯一の落ち度は――」
その腕が持ち上がり、指先が差し出される。
「神に関係の深いものを我に持って来たことだ」
「目の前で三つ目に手を出してる人に言われても説得力が全然無いけど」
そこは言っておく。
言っておかねばならない。
瑠璃ははっきり見ているのだ。差し出された指先がそのまま箱の中に入って、普通にマドレーヌを持っていったのを。
そりゃ説明してる間に二つ目食べてるの見たけど。見たけど!
「……えーと……おいしい?」
「まあまあだ」
「そう……」
残りのマドレーヌを手に取って、食べようとしてから瑠璃は気付く。
――あれ?
今の一連の流れで、マドレーヌが貝の形をしたお菓子であるのはわかった。
だが日本で売られている「マドレーヌ」の名のついた商品には、貝の形をしていないものがあるじゃないか。
もっと平べったくて、溝のあるアルミカップに入ったやつだ。
あれもマドレーヌだし、そもそもアルミカップがマドレーヌカップとして手作り用に売ってもいる。
「何をぼうっとしている?」
「うん? 日本で売ってるマドレーヌって、貝の形じゃないのもあるなって思って」
「今までの前提がすべて崩れたが」
「う……」
それはごもっともだ。
マドレーヌはそもそも貝の形だっていう話でここまできたのに一瞬で崩れた。
ブラッドガルドの表情は変わっていないけれど、これは説明をつけないといけない。片手でちらっと手元を見ながらスマホを操作する。
「日本にマドレーヌがはいってきたときに、パン・ド・ジェーヌっていうほかのお菓子と混同されたって書いてある……」
確かにそのお菓子を見てみると、側面にマドレーヌのような溝がある。
「意味はジェノバのパン。敵軍に包囲されながらもジェノバを死守したマキナ元帥のために作られたお菓子みたい。米とアーモンドで生き延びたっていうエピソードから、アーモンド主体になった、って書いてあるね」
スマホに表示されたものを見せる。
アーモンドが上に散らされた焼き菓子だ。
確かに見た目は平たいマドレーヌと似ている。
「一応こっちももともとはガトー・アンジロワジーって名前があって。意味は……アンブロシアっていうのは、ギリシャ神話に登場する神々の食べ物の名前だって」
「……神々?」
「すごくざっくり言うと、唯一神を掲げるキリスト教が広がる以前に存在した多神教っていえばいいかなあ」
ざっくりすぎたかな、とも思うけども、あまり話題からそれるのもどうかと思う。
「こっちもそういうのはないの?」
「さあな、各地で様々だ。迷宮の主へ生贄を捧げる奴らもいれば、当地に棲む精霊を崇める種族もいる。まちまちだ。だが唯一神という意味でいうなら……」
ブラッドガルドの目にわずかに炎が灯った。
思わず瑠璃の姿勢がしゃんとなる。
「――女神だ」
抑えられた声には苦々しい色が含まれていた。
「存在を囁かれ崇拝されながら、これまでまったく世界のことに関与しなかった癖に――唐突に女神の加護とやらを持った者が現れたらどう思う」
しばらくは人々の間でも、事実かどうかを疑問視する声が大きかった。
だがその者は、間違いなく。
人々の期待と、寸分の狂いも生じさせることなく。
――勇者と呼ばれた。
「多くの話は所詮誇張された噂。実際は目に見えぬ魔法的な加護だ。人間風情がいかにしてそんなものを手に入れたかは知らんが……」
深い闇から覗く目はぞっとするほど憎悪に満ちている。
スマホの光すら今は頼りなく、どういうわけかちかちかと点滅して、今にも消えてしまいそうになっている。
人ではない、異質なものだという現実をまざまざと突きつけられる。
どこかで電気のはじけるような音がする。
冷たい汗が背中を流れた。
やがてブラッドガルドは瑠璃を見下ろすと、その瞳をのぞき込んだ。
「だがそれより……」
抑え込んだ声が言う。
「貴様の国はマカロンの時といいマドレーヌといい、どうしてこう……」
「知らないよ!! それは昔の人に言って!?」
瑠璃はマドレーヌの包装を乱雑に破り捨てながら言った。
直前まで緊張と脅威に満ちていたはずが、急に雑になるのがずるい。しかもまんまとそれを見透かされたようなのが悔しいやら恥ずかしいやらで、瑠璃はマドレーヌを口に含んだ。