29話 ココアを飲もう
目を開けると、すぐさま左側へと視線を流した。
その表情は硬いというより、無い。
だがそこには見慣れた石造りの迷宮でも、それよりもなお暗い牢獄の中でもなく、何か悪戯を見つかった時の顔をした瑠璃がいた。
両手から湯気の立つカップを持って固まっている。
「……何をしている」
「いや、割とそれはこっちの台詞なんだけど」
瑠璃はすぐに気を取り直すと、目の前のテーブルにカップを置いた。
中には茶色の液体が入っている。そこから香り立つ匂いに、ブラッドガルドは目を向ける。
「何の話だ。何を企んでいた?」
「えー? 別に何も。それより、そこに座るたびに寝るのは何でなの?」
「寝てないが」
「……あっ、そう……」
もはや諦めの境地で瑠璃は言った。
瑠璃は隣に座ると、カップを手にした。
ブラッドガルドもその様子を見ていたが、同じようにカップを手に取る。顔に近づけると、飲む前にその香りを確かめているようだった。
「チョコレートはやらん、のではなかったのか」
「別にチョコじゃないし」
瑠璃は拗ねるように吐き捨てると、ココアで自分の口を塞いだ。
甘くてほっとする香りだ。昔はこれがチョコレートと同じものから出来ているとは思えなかった。
クーラーの効いた部屋じゃないと暑くて飲めたものじゃない飲み物でもあるが、これは同時に嫌がらせでもある。
「……じゃあなんだ」
が、その嫌がらせはほとんど効いていなかった。
「我が気が付かないと思ったら大間違いだ」
ブラッドガルドはそこでようやくカップを口につけた。
少しだけ液体の熱さに目を細めて――それだけだった。そのまま液体を喉へと流す。
テレビも映画もついていない部屋に、カチコチという時計の音だけがこだまする。
「……それで?」
何度目かの続きを促す声だった。
瑠璃はじとりと隣を見上げたが、ブラッドガルドはしれっとした表情で見下ろすだけだった。
やがて根負けした瑠璃がテーブルの上に放り出したスマホに手を伸ばすと、その口の端が上がった。
「そもそもココアっていうのは――、カカオ、がうまく発音できなくてそう表現したものなのね」
「神の実か」
ブラッドガルドはカカオ豆のことをその学名――「テオブロマ・カカオ」にちなんで「神の実」と呼ぶのを好んだ。もともとテオブロマという言葉も、ギリシャ語で『神の食べ物』を意味する言葉なので、何も間違ってはいない。
「うん。だけど今は日本だと、カカオは原料のカカオ豆。ココアは飲み物のココアを指すから、それでいくね」
スマホの画面を操作しながら、瑠璃の目が上下する。
「チョコレートはもともと固形じゃなくて、飲み物だったって話はしたっけ」
「以前に聞いた気がするな。あまり覚えてはいないが」
その時はまだ死にかけていただろうから、それほど覚えていなくても別に気にならなかった。
「基本的にココアとホット・チョコレートは似てるようで似てないってか、国によって『ホット・チョコレート』と『ホット・ココア』が違ったり同じだったりするね。日本だと、ココアはココアパウダーを使った飲料のこと。ホット・チョコレートはチョコレート成分多め……って感じかな。ホット・チョコレートのほうがよりチョコレートっぽい風味のイメージはあるかも」
「また国によって違うタイプか」
「うん。アメリカとかだとココアとホット・チョコレートは同じ意味みたいだし」
「そうか。なら別物だな」
「えっ」
まったく流れを無視した別物宣言を聞き返す。
瑠璃が日本人だからなのか、それともそうすることでホット・チョコレートを持ってくる機会をわざわざ作ってくれやがったのかは謎だ。
だがその真意については、きっと突っ込んでも無駄だったのだ。
「ココアは最初副産物的に生まれたんだよ。今の固形チョコレートが産まれた過程で産まれた感じかな」
「副産物? これがか」
「うん」
再びスマホをスクロールさせる。
「カカオが今みたいな固形チョコレートになったのは、十九世紀に入ってからの四大発明って言われる発明がキッカケになるんだよ。ココアはその第一段階でできたんだ」
それからスマホをいくらかスクロールさせたあと、言葉を続けた。
「オランダのヴァン・ホーテンの創業者が、一八二八年に世界で初めてココアパウダーを作ったんだよ。今はココアの代名詞にもなってるね」
現在、チョコレートを作る最初の工程として、天日乾燥したカカオ豆をローストし、砕いて皮を取り除いたものをカカオニブという。
それを更にすり潰すと、どろどろの液体であるカカオマスになる。
そこに五十%以上も含まれているのがココアバターと呼ばれる脂肪分だ。
そのココアバターの分離に成功したのがヴァン・ホーテンということになる。
分離したココアバターはチョコレートに。残ったココアの塊を粉砕してパウダー状にしたものがココアパウダーで、ここから味や風味などを調整したものが、現在、調整ココアとして知られているものである。
「ちなみに二代目の人がココアにアルカリを加えることを思いついたんだ。そうすることで水溶性を高めて飲みやすくしたのが、今のココアの基礎、かな」
「ほう。……しかし、今はココアとチョコレートしか出てきていないが。四大発明とはどういうことだ?」
「んっと……。一八四七年に、イギリスでようやく板チョコが発明されたんだよ。これが今の固形チョコレートの元祖かもね。これが二つ目」
「……ふむ?」
「三つ目は、一八七六年のミルク入り固形チョコレートの発明だね。それまでホット・チョコレートにはミルクが入れられることもあったんだけど、固形だと水分が多くなるから。今はほとんどミルクチョコレートが主流だし」
それから一度ココアを飲んでから先を続けた。
「一八八○年に、最後の発明――ロドルフ・リンツによって、チョコレートの中の砂糖を細かい粒子になるまで砕く機械が発明されて、滑らかな味わいのチョコレートが開発されたんだ」
「……そして、今に至るのか」
ブラッドガルドはココアに口をつけた。
「日本だと有名なのは森永って会社のミルクココアかな。一九一九年にはじめて国産のミルクココアを製造して、当時は朝の一杯が愉快に、夕方の一杯が疲労回復、って具合に健康アピールを主にした広告を出してたみたいだね。
そのあとも改良やアピールを続けて、……ココアはやっぱりモリナガ!」
急に歌い出した瑠璃を、ブラッドガルドは異様なものを見る目で見た。
「なんだそれは」
「いや……そういうCMっていうかフレーズがあって……。良くない?」
「……」
特にこれといった感想の無い、微妙な空気が満ちる。
せめて下手でもいいから感想が欲しいと願った瑠璃だった。だがブラッドガルドはあえて無視したのか気が付かなかったのか、ココアを飲み干したあとに唇を拭った。
「……結局、チョコレートの話をしたな」
「ぐぬぬぬ……」
ぎりぎりと悔しげな声をあげる瑠璃。
やがてその空気に耐えきれなくなると、話を変えるように言った。
「そ、そういえば、あの扉は何だったの?」
「扉……? なんのことだ」
「だってなんか『石の中にいる』状態だったじゃん」
「『石の中にいる』状態と言われても意味がわからんのだが」
とはいえ、ブラッドガルドの目は興味深げに細くなった。
あきらかに「説明しろ」の顔だ。
「あー。昔のダンジョン探索のゲームでね、有名なトラップだよ。転移系の魔法で座標を間違えたり、トラップに引っかかったときにたまに起こる事故って言えばいいかな。稀にダンジョンの壁の中に転移しちゃって、最悪死ぬっていう」
「……」
しばしの沈黙。
「…………なるほど」
「絶対やめてね」
真顔で釘は刺しておく。
「で、なんで石の中にいたの」
「それはまあ――封印が解除された時の些細な事故、だろうな」
あれは些細なのかと思ったが、ひとまず黙った。
「そもそも封印の中は、向こうとも此方とも違う。少しずれた場所だ。それこそ壁の中――隣の部屋との仕切の中に空間があるようなものと言えばいいか。その空間が急に弾けて無くなった。中に保管されていたものは一時的に居場所をなくし、座標の近いところに出現した」
「それがあの……違う部屋?」
「そうだ。だが、迷宮は自己修復機能があるからな。競合してしまったのだろう」
何度壊そうとしても、ある程度壊したところで元に戻ってしまう。
もしかすると一度は扉として出現したものの、そのせいではじき出された石壁が元に戻ったのかもしれない。
「でも、中にあったものはともかく、よく扉は残ったよね」
瑠璃はココアを一口飲んだ。
テーブルにそっと置いてから続ける。
「封印の壁についてるものだから――、消えちゃうかと、思った」
「……あれは基本的に貴様でなければ開けられないだろう。だからかもな」
「えっ、そうな……いや、そうかも。お母さんが一度扉を開けたんだけど、普通の鏡になってたんだよね。元の」
あれはどういう現象なのだろうか。
「……あの扉は、貴様との専属契約になっている可能性がある」
「えっ。……なんか急にそんな専門的な事言われても」
しかも多少ファンタジックな内容の意味での『契約』だ。
「一番可能性の高いのは血だ。指先や、何らかの理由で血が飛び散ったか」
「血?」
「名前や血といったものは、原始的な約束に使われるものだからな」
「……うーん……、契約書に名前を書いたり、血で拇印を押すような?」
「話が早いな」
ブラッドガルドは満足そうに頷く。
「この歪みの原因はまだハッキリとはしない。だが、封印に何らかの理由で歪みが開いたのは事実だろう。その不安定な歪みに、貴様が鏡を――それも扉の形の鏡を置いたことで形を補助した」
瑠璃は無言で自分自身を指さす。
「補助されたことで、不完全ながらも魔法陣としての形が成立したのだろう。そしておそらくはその血でもって契約を結んだ――推測としてはこんなところだと思うが、どうだ」
「ええ……? 血で……?」
さすがに傷がついていたとしても、鏡に飛び散るほどの出血はしていない。
むしろ思い当たるふしがあるとするなら――。
「それから、確か涙も血でできている、と言っていたな? ……貴様まさか、泣いていたとか言うのではなかろうな」
「……えっ」
瑠璃は暑いふりをしながら、かあっと熱くなる顔を隠した。
確かに泣いていた。
――さ、さすがに幼馴染みにフラレて泣いてました、は恥ずかしすぎて言えるわけがないっ……!
不審な目を向けてくるブラッドガルドから意図的に目をそらしながら、瑠璃は頭をフル回転させる。
「え、ええー、ああー、ど、どうだったかなぁあ!? もしかすると紙とかで切っちゃうことがあって気付かなかったとか……そういう血だったのかも……!?」
あきらかに声がうわずった。
傍から見れば確実に嘘だとわかるような態度だった。
反対に、ブラッドガルドの目が少しだけ見開いたのが見えた。まるで瑠璃の瞳の奥深くを覗き込むように、じっとその瞳が合い続ける。
「……そうか。なら、そういうこともあるだろう。小さな傷には気付かぬこともあるからな」
――納得した!?
さすがにそれは口にするわけにはいかず、心の中だけでのツッコミに終始した。
これが素なのか何なのかわからず、瑠璃は頭を悩ませる。
横から伸びた手が、ぐ、と胸ぐらを掴んだ。
何、と尋ねる暇もなかった。気が付いた時にはむりやり顔を向けさせられていた。
「――だが、図に乗るなよ小娘」
「え、ちょっ……」
何か言う前に、その顔が近くなる。
表情の無いその瞳の奥には、何かが渦巻いているようだった。
「あの扉が貴様の手でしか開かぬとはいえ、もはや我は貴様に生殺与奪を握られてはいない。自分が何に関わってしまったのか――よくよくその頭で理解することだ」
瑠璃の瞳がひとつ瞬きをする。
赤黒い瞳に映る自分の姿がよく見えた。
「せいぜい悔いるがいい。貴様の役目がこれで終わったなどと思うな」
そう言ってブラッドガルドは立ち上がると、そのまま手を離した。瑠璃はぼすんとソファに尻餅をつく。
その姿を見ることもなく、ブラッドガルドは瑠璃の部屋へと向かった。そしてそのまま影に溶けるように姿を崩すと、小さく開いた鏡の向こうへと消えていった。
「…………それって」
瑠璃は、ソファの後ろ、扉の向こうを見ながら襟を直した。
どうもこの奇妙なお茶会は、まだ続くようだった。




