迷宮探査団の顛末(3)
ざんばらの赤みがかった長い黒髪が揺れ、その合間から赤黒い瞳が前を見据えている。整った顔立ちは僅かに頬がこけ、山羊のごとくねじ曲がった角は片方が途中から折れているが、まだそこに存在している。翼は見当たらないが、ゆったりと地上へと降りてくる。布の隙間から見える足は、かつて異形と化したものではなかった。
その足が地上へと降り立った時、ぱさりと布の音だけがした。
怪物の皮はいまや脱ぎ捨てられ、再び元の姿へ生まれ変わったのだ。
全体的に痩せて貧相になってはいるが、その目だけは変わらない。諦観しきった何かを射抜くような目。それでいてすべての絶望を呑み込んだような虚ろな表情。
「……はあ?」
鈴の女は反対に、顔を顰めた。
「本当なの? 力を取り戻しつつあるっていうのは。……でもね」
しゃあん――と鈴の音が響き渡り、それを合図に「弟」たちが飛び出した。
「それならそれで、あたしの可愛い弟たちが食い尽くしてあげ――」
空中から飛び降りたブラッドガルドの素足が床を踏みしめ罅を入れると、小さな瓦礫が浮き上がった。その音が耳に届いた次の瞬間には、ブラッドガルドの背後から四つの黒い手が勢いよく伸びていた。その腕が近くにいた「弟」たちの首を掴み、壁に叩きつける。
本当に一瞬の出来事で、誰もそれに対して何もできなかった。
ゆらゆらと動く影は、巨大な蜘蛛が現れたかのようだ。
「あ……あ? え?」
黄金の鈴の瞳が、四つの影を行き来する。
四人目の「弟」が弾けたあと、その体がきらきらと輝いて魔力と化す。その下にころんと結晶化した魔力が落ちた。
素足が魔石を踏み潰す。魔力が砕け、弾け、ブラッドガルドの中へと吸い込まれていった。
「あ、ああ……あああああ!」
黄金の鈴の悲痛とも言える叫び声が響き渡った。
魔力を含んだ絶叫に、騎士団の面々が思わず耳を押さえる。聞く者の耳を貫き、脳髄にまで届くような鋭い叫びだった。
「おのれっ、なんてことを! あたしの可愛い弟たちをっ!」
髪を振り乱し、唇を引き裂き、立てられた爪が玉のような肌をひっかいていく。
その様子にも興味が無いようで、ブラッドガルドはあたりを見回した。僅かに眉を顰めたように見えたのはきっと気のせいだろう。
その一瞬の隙をつき、オルギスは横から飛び出した。聖槍がその身に叩き込まれる直前、ブラッドガルドの左手が翳された。槍先が見えない壁に当たったかのように阻害され、光が直線を描いてはじけ飛ぶ。
ブラッドガルドの目がちらりとオルギスを見下ろし、手を軽く払った。その途端、見えない壁が不意に消えた。均衡を失いかけた槍をブラッドガルドが無造作に掴み、勢いのまま放り投げる。
壁に激突する直前に受け身を取って姿勢を正すと、上空へと大きく跳び上がり、槍を構えて上から叩き込もうとした。
「ああああっ!」
重力と重みを槍にかけ、風を切り裂いた聖槍が光の帯となって突き抜けていく。
だがブラッドガルドは自ら一歩踏み込むと、ゆらりとあまりに自然に槍を避けた。その合間を縫ってオルギスの眼前へと迫る。ぎょっとしたオルギスが目を見開いたが、もう遅かった。その額へ伸ばされた指先。親指を除く四つの指が、トンとその額を押した。
オルギスの心臓にスッと氷が落ちる。
「うあっ!」
勢いのままぐいと額を押されたオルギスは、背中から地面へ叩きつけられた。地面を摺りながら、壁に激突する。あまりに情けない姿だが、誰も笑う者は誰もいなかった。
しんと静まりかえると、ブラッドガルドはおもむろに手を払い、口を開いた。
「……一体なんの騒ぎだ、これは」
稲妻が走ったかのように、びりりと緊張が走った。
いや、実際に魔力が一瞬だけ走ったのだ。たったそれだけで、全員が口を噤んだ。
「……なんの騒ぎだ、と聞いている」
誰も答える者はいない。
「オルギス様、大丈夫ですか」
「あ、ああ」
オルギスは答えたが、それどころではなかった。
――……なんてことだ。なんてことだ……我々は……、いや、私は……。
ブラッドガルドの復活を許してしまったのだ。
さすがの騎士団も僅かに震えているのを感じた。ブラッドガルドを前にした時に感じる、強烈な恐怖――それはいまだ健在だった。リクといた時には僅かに緩和されていたはずのそれは、再びオルギスの心を落とそうと這い上がってくる。
「く、う、……うおおおおっ!」
「うあああーーっ!」
騎士団の二人が、自らを鼓舞するような雄叫びをあげ、槍を構えて突撃していった。
その槍が射程圏内に入る前に、黒い影が二つ、床から伸びた。あまりに簡単に、平手打ちでもするかのように体を弾いたかと思うと、突撃した姿は視界から消えた。両方の壁から鎧の重苦しい衝突音が響き渡る。
「ぐああっ!?」
「ううっ!」
思わずその様子を見た騎士の一人に、剣を持った男が斬りかかった。慌てて槍で迎え撃つ。ここにいる敵はブラッドガルドだけではないというのを思い出したのだ。
はっとしたように、カインが槍を握り直した。がちがちと歯がかみ合っている。
「……あ……あ……」
本物のブラッドガルドが目の前にいる。
セスが隣からカインを見たが、同じように目を見開いて、言葉を失っていた。
カインはしばらく槍を手にしたまま固まっていたが、やがて一歩だけ前に出た。
「う……うわあああっ!」
そのままブラッドガルドへと向かっていく。
「待てカイン!」
だがブラッドガルドはカインから目をそらし、天井へと視線を向けていた。足がもつれ、泣きながらも突き出した槍は、あまりに自然に片手に阻止された。槍を掴まれたのだ。
ひ、と喉の奥から小さな声がした。
その途端に、カインの視線がぐるりと回った。槍を掴んだ手が軽く動き、槍の先にいるカインごと放り投げる。
槍にしがみついていたために受け身を取ることすらできず、カインは床にたたきつけられた。
「カイン!」
「大丈夫か!」
呆然と転がった彼に、他の騎士たちが走り寄ってくる。
「お……オルギス……様」
「無茶をするな! 奴はもはや、敵う相手じゃない――」
その言葉の合間を縫い、今度は男たちが剣を構えて駆け抜けた。地獄の底から響くような吠え声とともに殺到する。その剣が一斉にブラッドガルドへ振り下ろされると、刃のぶつかりあう音が響き渡った。
自らをかばうような腕。その前に現れた光の円陣が、すべての刃を受け止める。その隙に、死角から男が剣を大きく上から振り下ろした。
だが、ブラッドガルドの視線がゆらりと死角の男を見たかと思うと、もう片方の手がおもむろに頭へと伸びた。剣と交差し、腕が頭を掴む。
「あ……がっ!?」
掴んだ指先が、ぎりぎりと男の頭を締めていく。
指先がめり込んでいくにつれ、その頭から煙のように魔力が噴出した。
「あが、が、げげっ……」
剣を振り回し、舌を出しながらじたばたと暴れていた下半身がぐったりと止まった。ぶらりと垂れ下がった体が砕けるようにぱきんと光の粒子に変わる。魔力だった。その魔力はブラッドガルドの中へと吸い込まれていく。
まるで今までを取り返すかのように、貪欲に魔力だけを食らっていった。
円陣に刃を阻まれていた男たちが、恐る恐るというように下がっていく。
今やブラッドガルドは全員を見下ろしながら、その場で立っていた。彼の後ろからは腕のような影が四方向へと伸び、まるで蜘蛛の足のようだった。
「――それで」
通りの良い声だった。
「我が問いに答える者はいないのか」
かつて、勇者に追いやられた声ではない。
今やここは巨大な蜘蛛の巣なのだ。
自分たちが、ブラッドガルドという蜘蛛の巣にかかった獲物であると誰もが理解していた。
「……だ、駄目です団長……これ以上は……」
団員の一人ががたがたと震えながら言った。
ブラッドガルドが放つ強烈な殺気と、こみ上げてくる恐怖に耐えきれなくなってきたのだ。じりり、と一歩、また一歩下がっていく。
「……た、助けてくれ……死にたくない、死にたくないいっ!」
オルギスの背後から聞こえたのは、そんな声だ。
冒険者がブラッドガルドに出会った時の反応は二つ。震えながら立ち向かうか、逃げ出すかのどちらか――かつてのオルギスも含めて、聖騎士はみなその反応をなりあがり冒険者特有の弱腰だと思っていた。
だがもはや違う。
今や自分たちが、軽蔑した人種と同じものに成り果ててしまった。いや、それこそが錯覚で、これが本来の自分たちだったのだ。精神力でなんとかできるものなどではなかったのだ。
「しっかりしろ! ここから生き延び、この状況をしっかりと上まで伝えねばならんのだ!」
オルギスですら、そうだった。
リクがいた時はすっかり押しやっていたものは、再び首をもたげつつあった。
――こんな時に、リク殿がいれば……!
オルギスは槍を握りしめながら歯を食いしばった。光の聖槍でなければ、カタカタと音を出していたことだろう。
きいいいぃ――と女の口から甲高い声があがった。
「こんな馬鹿なことがっ、認められるわけないでしょお!?」
女が叫ぶと、その足元から魔力が舞い踊った。
「静謐を切り裂き、鳴り響き、舞い踊り――来れ、月輪!」
シャァン――と鈴が鳴ると、魔力がぎらりと黄金色の球体を形作った。騎士団も思わず防御態勢を取ると、球体は次々と無尽蔵のごとき魔力から生まれ落ちた。それはやがて刃となり、月型のようなチャクラムがあちこちに浮かんだ。
女の髪がばさばさと揺れる。
「八つ裂きにしてやるっ!」
合図のように鈴が再び鳴った。すべてのチャクラムが異様な軌道でブラッドガルドへと四方八方から向かっていく。
ブラッドガルドは何も言わず、寸前ですらりと手を横に振っただけだった。足元から黒い蛇が八つ、一斉に伸びた。
それは軌道上にあるチャクラムを順に首にかけ、かじりつき、呑み込んでいった。その間にもブラッドガルドは一歩も動くことなく状況を見続けていた。すべてのチャクラムが闇色の蛇によって防御されると、風が止んだようにブラッドガルドの纏う布がふわりと落ち着いた。
「……もう終わりか?」
「なっ……」
びりびりとした異様な緊張感が広間に満ちる。
「あ、姉上、これ以上は……」
「姉君……」
「はあ!? この愚図どもが! こんなところで諦めろっていうの!? こんな……こんな……!」
女が「弟」たちを睨み付けると、女からびりびりと魔力が放出した。女の体がざわざわと蠢く。その正体を、実体を晒す寸前まできているようだった。正体が晒される前に、「弟」の一人が姉を宥める。
お互いに疲弊しあっているとはいえ、騎士団も、魔人の女も、今解き放たれたばかりの迷宮の主に歯が立たない。その事実は、歴然たる現実としてのしかかってくる。
オルギスはそこでようやく気付いた。
ブラッドガルドはここに至るまで、一言も詠唱らしきものを発していない。
――もし、もしこれがギリギリだったとしても……!
そんな僅かな可能性に賭けるかどうかを、今ここで判断せねばならないのは酷だった。誰か一人でも生きて帰らなければ、この状況を持ち帰ることはできない。
「オルギス様」
「……準備をしろ、お前たち」
隙を突かねばならない。
ここからどうしても逃げるための。
ブラッドガルドはそんな一同を一緒くたに見回すと、おもむろに口を開いた。
「……なるほど、そうか」
発せられた言葉に、オルギスは思わず目を見開く。
「貴様達はまた、自ら命を賭けておきながら――途中で放り出すのか」
その表情は怒りでも激情でもなく、ゆっくりと何か確かめるようなものだったからだ。その口元が徐々に上がっていった。
――なんだ?
強烈な違和感がオルギスを襲う。
「まあ良い……今の我は多少、気分が良い。さっさと立ち去れ……だが――」
――なんだ。いったいなんだ、これは?
「……『故意の切断とバグ利用は許すな』、というからな」
「は?」
「え?」
オルギスと女の声が重なった。
故事かことわざのようだが、その意味はよくわからなかったからだ。
だがその手に収束していく光の帯には敏感に反応した。あれは魔力だ。稲妻のごとく手の内に収束し、暴れ回る魔力が強烈な光と衝撃を放つ。
そしてブラッドガルドは――今まで見せたこともないほどの笑みを見せた。
「『鏡の中の悪魔』――捕まらぬよう、見事逃げおおせてみせよ! 後は我の関知するところではない!」
「……撤退だ!」
オルギスの言葉と重なるように、ブラッドガルドは片手を振り下ろした。




