16話 きみと外出をしよう(前)
とある土曜日の出来事。
――なんでこんなことになってるんだろう?
彼女の名前は萩野瑠璃。
ごく普通の女子高生であり、ごく普通の人間である。
そして彼女の目の前で巨大な水槽を興味深げに眺めているのがブラッドガルド。
およそ普通の範疇からかけ離れた規模の迷宮の主であり、普通に人間ではない。
瑠璃はその姿を改めて見つめる。
ややうねりのある、金糸が混ざったような光沢のある茶色い髪。
黒曜石のような黒い瞳。どこか外国人のような日本人離れした整った風貌と百九十近い身長。面影はあるものの、色も高さも衣服も違う。その目つきの悪さで若干台無しになっている感は否めないが、人間そのままである。
その視線が、飽きもせずイルカの泳ぐ水槽に向けられている。
――いや、ほんとになんでこんなことになったんだろう?
時折、周囲の人間のほうが物珍しげに彼を見つめるのに対して、瑠璃は真顔のまま思った。
*
数時間前。
「んあああ……」
瑠璃は朝から余所行きの服を着込んで、唸っていた。
不安が渦巻いている――とだけ言えばデート前の緊張かと思うだろうが、その実、胃の方はきりきりと痛んでいた。
何しろ一緒に行くのが、他ならぬブラッドガルドだからだ。
どういうわけかブラッドガルドが水族館に興味を示したのは、まあいつもの事なので考えるのはやめておいた。
だが、問題はその姿のほうだ。
ただでさえ二メートルを越すような身長だし、服はズタボロで、赤みがかった黒髪は手入れもしていない。片方の頬から首にかけては傷が入ってるし、赤黒い目の瞳孔は爬虫類特有の、縦に長い猫目だ。山羊のようにねじれた角は、片側は途中で折れたように長さが違う。
最初に比べればまだマシになった気はするが、さすがに普通の人間と比べるとコスプレもいいところだ。
思わず「ハロウィンの時にしない?」と真顔で進言したくらいには。
最終的にブラッドガルドが「そう気にするな」と言ってニタリと笑ったので、ある程度対策はあるんだろうと信じたい。ただし実際の瑠璃の口から出たのは「じゃあ信じるよ」ではなく、「うわー超悪い顔してる」だったが。
それでも一抹の不安を抱えながら扉を開けた瑠璃の目に飛び込んできたのが、現状、もとい現状一歩手前のブラッドガルドだった。
「こんなものだろう」
「誰!?」
瑠璃はフレーメン現象を起こした猫のような顔で、まじまじと見てしまった。
衣服のほうも現状の日本で変に思われるようなものではない。むしろ似合っている。
「知らない人からブラッド君の気配がする……」
「ほう。我の気配がわかるとは、魔力無しの癖に言うようになったではないか」
「そういうとこだよ!!!」
瑠璃は全力で主張した。
「いやだって、人間に変身できるっていっても……もっとこう……角が無くなるとかだけかと思って……!」
「馬鹿者。我は人型ではあるが人間ではない。見た目は似ていても同じ構造ではないからな」
「そういうもの? あ、人型に近い敵の幹部にも人間体があるみたいな?」
それでも面影がないわけではない。
といっても、ブラッドガルド曰く。勇者との戦いでかなり力を消耗した上、封印からの衰弱もあり、全盛期の本来の姿に比べればまだずいぶんと貧弱でやつれているらしい。だから瑠璃が普段見ている姿は、口惜しくも弱っている姿なのだと。確かに瑠璃が見ていても痛々しいくらいの時がある。気が向いた時にお菓子をあげるという約束しかしていないので、それ以上どうしようかと悩むところではあるが。
ただ、目つきの悪さだけはどうにもならないようだ。
「エルフと人間だって似たようなものだが、構造は異なるだろう」
「そ……それはわかるけど」
ブラッドガルドの世界のエルフがどういうものかわからないが、怒られないのかとも思う。
「それとももう少し年がいっていたほうがいいわけか」
「皺を増やさないでくれる!?」
唐突にその指先から皮膚がうなり、頭のほうまで皺が寄っていくさまは恐怖でしかなかった。突然ホラー映像を眼前で見させられた身にもなってほしい。
「せめて私と同年代くらい……」
「なるほど」
一度作った皺が無くなっていくのもそれはそれでホラーだった。
二度も無意味なホラー映像を見せるのはやめてほしい。
「……しかし、そもそも人間の街に行くにしても、普段の姿のほうが面白いことになるんだがな」
「そう……。絶対やめてね」
瑠璃は真顔で言い切った。
そこから数時間が経った現在。
――いやだいぶ目立ってる……!
水族館に着くまでに薄々どころか物凄く感じていた。ただでさえ高身長に加え、外国人、よくてミックスめいた風貌がそれに拍車をかけた。行く先々で視線を受け、そのたびに瑠璃はハラハラした。
来るまでに何度頭痛と胃痛に苦しめられたかわからない。
ただしブラッドガルド当人は、さすがにはしゃいだり大声をあげたりといった反応はなく、あくまで普段通りだった。水族館という場所が何かを理解したあとは、何かを尋ねる時は真っ先に瑠璃へと小さな声で尋ねる。人の多さと館内に流れる効果音の水の音で、二人の口調が目立つことはなかった。
それでも軽率に姿を見失えばどうなるかまったくわからないので、瑠璃はできるだけ近くにいることにした。
そのほうが、唐突な疑問にも対応できたからだ。
「この硝子は」
「えー……なんだっけ。アクリルガラス? ガラス同士で接着もできるやつ。どっかに書いてなかったっけ」
「あのイルカというのは魚なのか」
「イルカは哺乳類だよ、魚じゃなくて人間と同じやつだよ……南極エリアの前にクジラの骨格展示されてた気がするけど、それも見る?」
「そもそも生体の展示をする理由は」
「研究目的と教育と……あと……楽しい?」
「最後のは貴様の感想ではなかろうな」
その疑問に、瑠璃の感想を添えて答えるだけでも疲労が蓄積していく。
それでも疑問が尽きない。
――いやほんと、何が面白いんだろう?
何が琴線に触れているのかよくわからない。
瑠璃の認識としては、ブラッドガルドの世界にこそ物珍しい生き物がたくさんいるのではないかと思う。魔鳥やらゴブリンやら、漏れ聞いただけでも現代とはずいぶん違う。伝説とされている生物から、聞いたことがないものまで様々だ。
しかしブラッドガルドから見ても此方がそうなのだという事に気付くまで、瑠璃は少しかかった。
「この先、日本の海とか深海ゾーンとかを通って、途中で上にあがるとイルカのショー会場だよ」
「ショー?」
「んっと、最初に見たイルカに芸を仕込んで見せる……みたいな」
「見世物かサーカスのようなものか」
「そんな感じかな。ちょうど今からだと、十一時半のショーには間に合うんじゃないかな」
「そうか。ならば行くか」
あっさりと決めたブラッドガルドに、瑠璃は「マジか」と思った。
だが、展示室のほうへと向かったブラッドガルドは予想外に視線を動かしていた。
瑠璃ももちろん見ていて楽しいが、途中で飽きてくることもあった。
「熱心だよね……」
思わず言うと、ブラッドガルドは暫く黙っていたが、やがてこう言った。
「……海が無いからな」
「え?」
「此方の大地には」
アーチ型の水槽の中をくぐり、自分の上を通っていく魚たちを眺める。
海は人間の住む地上には存在しているが、ブラッドガルドの住む地下には無い。
「興味を持ってもらう以前の問題?」
「そうだ。それでなくとも、そもそも海を切り取って持って来ようなどという発想もない。海は海で、現状は貴様らの言う魔物に溢れているし、あちらのほうが別の意味で問題は抱えていると思うのだがな」
「ふうん?」
いまいちピンとこない。
まあでも、海に出るというのはそれだけでも大変なことだろうと瑠璃は思った。
大航海時代が訪れても、海を渡るのは危険と隣り合わせだったわけだ。今だって座礁したり揺れたりすれば、小さな船どころか大きな船もひとたまりもない。
二人は次のエリアに移動し、大水槽の前に立った。
土曜日だからか、他にも多くの家族連れや友達間、カップルがいる。一人で来ているような人もちらほらいる。
そのとき。
後ろから中年の男が――これみよがしに瑠璃にぶつかった。
「ひえ」
隣にいたブラッドガルドにぶつかり、瑠璃の口からは反射的に小さな悲鳴が出た。
「どけよ」
邪魔だと言いたかったのか、ぶつぶつと文句を言う。瑠璃はすいませんという前に、その横暴さに閉口した。
「何をしてる」
「あ、ああごめん」
小さな会話が聞こえたのだろう。男は隣にいるブラッドガルドを見ると、突然舌打ちをした。
瑠璃は自分のほうがぶつかられたのも忘れて、血の気が引いた。それどころか何が気に入らなかったのか、男はブラッドガルドを睨み付けながら何度も舌打ちを繰り返す。
「チッ、チッ、チェッ」
あまりにも露骨なので、瑠璃も驚いたくらいだ。
男連れなのと、それが外国人であるということに対しての理解しがたい理不尽な怒りだった。
ともすれば下唇を突き出してブーイングでも始めそうな勢いに、周囲にもやや嫌悪感が広がる。近寄りたくない、というのと、ほんの少しの気の毒さと。
瑠璃は思わず間に割って入ろうかと思った。
先に次のエリアに行ってしまったほうがいいと、ブラッドガルドの腕を掴んだ。
ところが。
ブラッドガルドは不意に男を見返すと、その口の端をあげて軽く微笑んだ。あまりにも雰囲気が柔らかい笑みだった。別の意味でぞっとしたが、周囲で事の成り行きを見守っていた人たちは、ほうっとその笑みに見惚れすらした。
瑠璃が何か言うまえに、男は一瞬狼狽えた。急に居心地が悪くなったように、慌てて次のエリアへ移っていった。そそくさと早足になっている。
そのあまりのあっけなさに、皆が一様にその背を視線で追ったほどだ。だが視線はすぐに大水槽に戻る。どうでもいい事として処理されてしまったらしい。
瑠璃も瑠璃で、ぽかんとしながら口を開けていた。
「日本には愉快な奴がいるな」
「へあっ!? え、うん……まあ……そう、だね?」
相変わらず変なところで常識的だった。
それはそれでいいのだが、心臓に悪い。正直もう御免だった。たとえ相手が非常識であったとしても。
しかし実際のところ、男が逃げ出したのはその笑みに鼻白んだからではない。ブラッドガルドにまっすぐ見つめられた男は、その透き通るような瞳の奥にある邪眼を真正面から受け止めた形だ。
男に今後一生涯降りかかるであろう不運を知らず、瑠璃には余計に疲労感が溜まっただけだった。
瑠璃は腕を引っ張り、さっさと次のエリアへと促した。
とはいえそれから先はこれといった出来事もなく、ブラッドガルドは深海エリアを面白そうに見回していた。照明を落とした作りの深海エリアは他のエリアと比べても動きが遅かったり、白くて目の退化しかかった個体が多い。まだすべて解明されていないことを説明すると、より口の端をあげていた。
おそらく何もかもが新鮮なんだろうと瑠璃は思った。
それでいて自然に――まあその見た目が自然かどうかはさておき――紛れているのだから、その擬態能力は見た目だけではないらしい。
深海エリアを抜けて再び明るい館内に戻ってくると、道順に従って二人は屋外エリアまでやってきた。
時間はちょうど十一時二十七分。
急いでイルカショーのところまで来ると、後ろのほうの立ち見席しかなかった。
「座れないけど、いい?」
「良い。ここで充分だ」
短い会話を交わして、瑠璃は手すりに手をかけた。
隣にはいるのだが、視線はイルカに向けられている。それを横目で確認すると、ブラッドガルドは観客席のほうへと目線を向けた。
*
イルカショーの観客席は、人で埋まっていた。
休みだからか、かなりの人がいる。それらの頭数だけでも立ちくらみがしそうだったが、屋外であるぶん館内よりはマシだ。
イルカの調教師の声が響き、開始を告げる。
隣の瑠璃はその声に惹きつけられたのか、目はまっすぐに巨大プールに向かっていた。
――さて……。それでは、見せてもらおうか。
無論、イルカのショーを、ではない。
見慣れない生体としての興味はあるが、これだけの人間が集っている場所であれば、一気にあるものを視ることができる。
それも不特定多数の老若男女に対して。この後ろ側にいられたのは幸運だろう。
ブラッドガルドの片目に赤い色が浮き上がり、本来の色を取り戻す。その瞳孔が縦に細く割れ、彼のいる場所、そして彼だけが世界から遮断される。そうしてイルカショーに夢中になっている老若男女に対して――むろんイルカや調教師も含めて――魔力の感知を行った。
大気に漂う魔力はほとんど存在しないのはわかりきっていたが、人間はそうはいかない。
テレビや本などの媒体があればその姿は見られるものの、それらを通じると今度は魔力を視ることそのものができない。ブラッドガルドには瑠璃以外の人間が必要だった。それも一人二人という少数ではなく、不特定多数が必要だった。
それもこれも、この世界の――特に人間の魔力の有無を調べるためだ。
外に出るには溶け込むための準備も必要だ。加えて、一度に人が多く集まる場所も。且つ自身の好奇心を満たすのに、ここは充分すぎた。
その場にいる生体のほとんどが、魔力の器は退化傾向にあった。どれもこれも小さい。魔力の器とは魔力を生み出したり貯蔵するための器官であり、例えるなら内臓の一つのようなものだ。内臓と違って実体として存在するわけではないので、見えたり感知できるかどうかは魔力を扱えるかどうかによる。もっと違う言い方をするなら、生まれた時に与えられたグラスや壺のようなもので、どの程度の大きさか、大きく鍛えられるかどうかは更に魔力回路の有無にかかっている。
魔力回路は魔術を使うために必須だが、此方も無いか、あっても細かった。
そもそもこの現代に魔術が存在しないのならば、魔術よりももっと違う――元々の才能や資質の補強に使われているのではないかと推測する。魔術が使えない人間であっても、魔力が筋力を補強していたり、何らかの洞察力に影響を与えたりすることは少なくない。勿論元々の資質によっては、補強する必要のないほど素晴しい資質があったり、逆に補強されてようやく人並みを保つこともある。反対に、魔力があることで抑制されてしまっていることもありえる。
魔術が絶えて等しい代わりに、集中力だとか行動力だとか、もしくは感受性の強弱などを補っていると考えるほうが納得できた。
――だが、此処の人間全員に魔力が無いわけではない……。
近くにいた子供の魔力を目線だけでつまみあげ、つまみ食いする。
久々の魔力喰いに期待したものの、口にした途端に眉間に皺が寄った。
――……不味い……。
練られていない魔力は酷い味がした。一気に気分が落ちていく。これなら、魔力に変換するという作業をしたとしても、菓子のほうがずっと良い。
後で瑠璃に菓子を要求しようと心に決めながら、無理矢理思考を元に戻した。
――お互いに言葉だけが通じているという点だけを鑑みても、こいつが通っている穴は、いわば不完全な召喚術式……。何らかの歪みが結界の影響を受けたとしても、あれほど強固な結界に、何故歪みが生じる?
ブラッドガルドは目を閉じる。
次に開けた時には、その片目は人間に変身した時のそれにまた変化していた。
――そのうえ、こいつには召喚ができるような魔力も、その器も無い。となれば、偶然置かれた鏡が歪みに形を与えた形になるが……。そもそも、何故歪みがこいつの所へ繋がった? それすらもただの偶然なのか?
そのとき、大きなジャンプをしたイルカに盛大な歓声がかけられた。隣でも、わー、と瑠璃の声があがる。
横目で見ると、瑠璃からは何も感じなかった。
それこそいっそ哀れなほどに、魔力の器そのものが存在しなかった。




