挿話6 進まぬ先はお茶会の始まり
――あれは夢だったのか。
牢獄の中で、ブラッドガルドは考えていた。
――……夢にしては。
意識がはっきりとしすぎている。
憎悪と狂気で壊れかけた理性を取り戻しつつある。状況としては歓迎すべき事実だ。いまだ混乱をきたしている部分もないではないが、強烈な甘い味は今でも思い出せる。
その甘美さは生命力でもあり、鳥の羽ほどのほんの僅かであっても、正常な思考能力と、憔悴しきった自分の体を取り戻す糧となった。相変わらず動くのは億劫で、ひどく消耗しきっているが、せめて見えるところだけでも本来の形を取り戻したことは僥倖だろう。
だが、このまま緩やかに死へと向かうのはもはや止めようもない。
――……ちょこれえと、とか言ったか……。
ひどく甘く、柔らかな口溶け。
これまで口にしたことのないもの。人間が菓子と呼ぶそれも手に入れたことはあったが、これほどのものはなかった。知らぬ間に人間どもの技術はこれほど進んでいたのかと驚かされる。
まだ自分が生きていることから考えても、まさか封じられてから十年だの百年だの経ったわけではあるまい。
とはいえ、情報の入手源はほとんどが冒険者。自分の知らぬ技術があったとて不思議なことではない。
――……。
が、問題は。
それを持ってきた人物だ。
何を考えているのかまったく読めない。
どんな偶然が働いたのかさっぱりわからない。
叫んで落として渡して鏡の正常化を要求して帰った。
……信じがたい。
まずもって迷宮の主を知らぬなど世間知らずもいいところ。
百歩譲って鏡が入り口になっているなどという妄言を信じたとして、そもそもこの封印は、あの忌々しい勇者が手を貸してなしえたもの。その中に、あれほど気軽に飛び込んでこれる人間など存在しえるのだろうか。
それもあのような――欠陥品に。
魔力回路どころか魔力の器すら存在していない。
巧妙に秘匿されているのかと戸惑うほどに何も無い。
魔力の探査も感知もまったく意味をなさない人間。
おそらく二度とは来ないだろうが、もし来たとするなら、本当に一体何を企んでいるのか突き止めねばならない。
いっそ面倒であり来ないことを祈るが、さてどうだろう。
再び暗くなった部屋は静かでいいが、ひどく沈んで見える。
また頭のほうが狂気に満ちなければいいが、正気のままでもいられないだろう。
何しろ……と思考がループしはじめたところで、急に忌々しいほどの光が牢獄の中を照らした。
「アアァアやっぱつながってるぁあー!」
その向こうから見覚えのある小娘が顔を出し、ほとんどヤケクソ気味に叫んだ。
「まだつながったままじゃん!?」
……気味ではなく、本当にヤケクソで叫んでいる気がする。
来て帰っただけで扉が消えていると思った理由は不明だ。どういう思考回路をしているのかわからない。
思わず言葉を失うほどだったが、ひとまず言うべきことは言っておくべきだ。
「……うるさい、黙れ」
「ごめん!?」
向こうは向こうでびくりとする。
ぎろりと睨み付けると、扉の向こうへとすすっと消えていく。
「いや……でも……いたことにびっくりして……夢じゃなかった的な……」
確かにそれは同感だ。こんな夢が二度もあってたまるものか。
ということは、現実、ということになる。
そこで、はたと思い直す。下手に刺激するのも考え物だ。
何しろ、こいつは――。
「……鏡とやらは……直っていないようだな?」
慎重に言葉を選ぶ。
「直ってなかったよ……」
「……まあ、良い……。我が前に出ることを許そう、来い」
そうは言ったものの、警戒されているのか渋っているようだ。
「……いいから来い、捕って食いはしない」
この娘の扱いには慎重になったほうがいいだろう。
そろそろと封印の間へと足を踏み入れる様は、冒険者とも思いがたい。それどころかとんだ箱入りの可能性がある。衣服も上等なもののようだし、ちょっとやそっとでは破れなさそうだ。
自分用の鏡を買えたり、砂糖を使った菓子をあれほど出せるあたり、人間の中でも相当な金持ちか、上位の部類であることは確かだ。
何を企んでいるのかは不明だが、うまく使えば失われた生命力と魔力を回復できるかもしれない。
「……しかし、何故来た……?」
「きみがそれ言うの!?」
今来いって言ったばかりなのに、という顔をしている。
「逃げ出したかと思ったのでな」
「普通に気になるけど!? 大体、逃げ出すも何もこの隣、私の部屋だからね? 夢ならともかく、いくらなんでも隣で人……人? がほんとに死ぬのはちょっと……」
真顔で言う。
まさかそれで戻ってきたとでもいうのか。
お抱え魔術師の一人もいないとは考えにくいが。
「それに、鏡開けるとここなんだよ。せっかくあの、鏡買ったのに、鏡として使えるのは一瞬だけで、すぐにこっちに通じるんだよ!? 私の部屋なのに!」
だんだんと興奮してくるのがわかる。
誰に向かってモノを言っているのか問い詰めたいところだが、そんな気力は無い。
「隣で死なれても、まだ鏡直してもらってないんだけど!」
「…………それはまだ出来ぬと……」
こいつは馬鹿なだけではないだろうか、という思いが一瞬去来する。
困っている、とは言いたいのだろう。自分の部屋の鏡がどういうわけか此処に通じている。なんらかの魔術を施したわけでもなくそうなっているなら尚更か。
そのまま己を殺せば勇者を押しのけて自分の手柄になるだろうに、そこまでしないのは……何か企みがあるのだろう。まさか本当に「隣で死んだら困る」で押し通せると思っているのならおめでたい頭をしている。腹芸には向いていない。
「……ふむ。では……、我と……ひとつ、取引をしようではないか……?」
「えっ何」
急にざっと身構える。
「……なに、そう難しいことではない……、貴様の気が向いた時でいい……、あの、ちょこれえと、というのを持って来い」
「チョコ? って、昨日の?」
ぱちくり、と目が瞬く。
「そうだ……、何しろ……此処は退屈で……死んでしまいそうだからな……。良い気晴らしになる……、無論、その間は……大人しくしておくと、約束しよう。我が名に賭けて、貴様にも手は出さん……ある程度力が戻れば、鏡とやらもどうにかできよう。貴様が変な欲を出さねば、の話だが……」
「……」
小娘は考えるように腕を組む。
さて、どうなるか。
少なくともこれで了承が得られれば、生命力の供給は確保できる。
別にそのチョコレートを特段気に入ったというわけでもない、と自分に言い聞かせる。意外にエネルギー供給として最適だという理解に至っただけだ。暇も潰せて良いというもの。
それに、一度は失われかけた命。
この夢の如き邂逅が、死の間際の僅かな夢だというならそれもいいだろう。毒を盛られたならそれも面白い。
だが本当に、何らかの偶然か必然によって今の状況があるとしたなら……。
「いいけど、それって毎日チョコだけってこと? 飽きない?」
妙な沈黙が降りた。しばし二人で見つめ合う。
「ほら、ケーキとかクッキーとか……お菓子っていっぱいあるじゃん?」
「……。……そこは……任せるが……」
そう言っておく。
「わかった。じゃあそっちこそ絶対約束な!?」
「当然だ。この迷宮の主……ブラッドガルドの名に賭けてな」
「…………そういえば名乗ってないね。私は瑠璃。萩野瑠璃。……瑠璃が名前ね?」
変、というより妙な名前だと思った。
しかしそんなことは問題ではない。名を交わしたのなら、言ったことぐらいは守るだろう、お互いに。そういう原初の魔術なのだから。
「それにしてもお菓子持ってくるって、お茶会か何かみたいだな?」
「お茶会?」
「えーと……アフタヌーンティーとかおやつとか?」
「呼び方など知ったことではない。……が」
「が?」
「チョコレートとやらには興味がある……、一体何だ?」
そして、ほんの気まぐれに問うた質問がこの後の方向性を左右するなど、思いもしなかった。