【10万PV感謝記念】瑠璃が風邪引いてもブラッドガルドは特に何もしないという話
「……おい、なんだありゃ」
グレックでさえ、やや引きつったような顔をしていた。
いくらブラッドガルドに慣れたといっても限度がある。成れ果てとはいえ、ブラッドガルドの魔力と瘴気は、人間たちの本能的な部分へ食らいつき、蛇のように絡みついて、その恐怖心を煽る。それにあてられた人間たちは、それこそ蛇に睨まれた蛙のごとく、一歩も動くことができなかった。
「……おい、どうしたんだアレは」
距離を取りながら、隣で固まっているココへと声をかけたが、無言で引きつったまま首を振るだけだった。
ヴァルカニアに唐突に訪れたブラッドガルドは――不機嫌の極みだった。
纏った闇が炎のように立ち上がっては揺らめき、不用意に近づけばそこに呑み込まれてしまいそうだ。どろどろとしたスライム状のものが天井に付着しては落ちて、染みのように広がっては消えていく。
きっと迷宮も同じようなものだろうと直感できる。
事実、同じだった。
その不機嫌が原因と思われる瘴気にあてられた冒険者が次々に膝を落とし、剣すら持てぬまま、その瘴気にされるがままになっていた。
テーブルを挟んだ真向かいに座ったカインも、やや脂汗を流しながら、この状況をどうするかを考えあぐねていた。
普段との違いは何か。
「そういえば、ルリさんがいないようですが、どうかなされましたか」
カインはそう切り出した。
ぴくり、と眉が動いた気がした。
問いも答えも間違ってはいけない。
ここまで不機嫌なのだから――何かあったのは明白なのだ。
だが、それは何だというのか。
「……常に奴が近くにいると思ったら大間違いだ」
「ああ、それもそうですね。この時間にいない、というのが珍しいような気がしましたので」
瑠璃が一緒に来るときは、たいてい昼以降。
なんでも瑠璃はもとの島では『学校』というところで教育を受けていると語ったことがある。小さな島――という表現にしてはずいぶんと進んだ考えのところだとカインは思ったが、その場では聞き流した。そのときは瑠璃の実態がどうかというよりも、『学校』というシステムについてのほうが気になったからだ。
「でも、お元気ならば良かった」
天井に張り付いていたスライムの塊が、粘膜とともにいやな音を立てて落ちた。
カインは沈黙する。
「ふん。あれは不遜にも我との誓いを違えた」
「……それは……」
言いよどんだが、すぐに思い直した。
「なにゆえでしょうか。彼女が理由もなく約束を違えるようなことはしないと思うのですが」
ぎろりとその目線がカインを射抜く。
「どうでもいいような理由だ」
「そうなのですか?」
「熱病だと」
「はあ、なるほど」
カインは頷いた。
つまり瑠璃は風邪かなにかにでも掛かって、部屋から出られない状態なのだろう。そして、いつもの約束を放り出して寝ている、というわけだ。
最高に機嫌が悪いな、とその頭の片隅で思う。それくらいの軽口でも考えておかなければ、自分を保てなくなってきていた。
「それは、その――」
どう言葉を紡ぐべきか。
カインは敢えて直接的な尋ね方をすることにした。
「心配ですね」
そう口にした瞬間だった。
ブラッドガルドから放たれる瘴気が威圧的になり、その姿が闇の底に沈んだかのような感覚すら覚えた。見てはいけない深淵の向こう側からしっかりと見返されているような、そんな戦慄が一気に立ち上ってくる。
――……う。
びりびりとした空気に、城全体が震えた。周囲に気を配ることすらできなくなってしまったが、きっといま、国中の機能が停止してしまっているだろう。
カインはあまりの戦慄に負けそうになりながらも、なんとか気を保とうとした。あまりに近すぎる。一瞬でも気を抜いてしまえば、意識を刈り取られてしまうだろう。
「これは……すみません、少々人間的すぎる感覚でした」
頭を振り、カインはそう口にした。
「あなたの下僕が、あろうことか自らの健康などというものを優先し、本来するべき仕事を放り投げてしまった――そんな下僕の不遜で自分本位な行動に対して、貴方は不機嫌になっている。そういうことだったのですね」
カインは宥めるように言った。
「理解すれば良い」
「ええ……」
なんとか瘴気はおさまったようだ。
とはいえ、この機嫌の悪さでこのままこの国に留まられても埒が明かない。どうすることもできないからだ。邪神のごとき――というよりじっさい邪神である――気まぐれな狂乱が突然この国を襲ってもなすすべはない。
――だいたい、これは八つ当たりだ……。
瑠璃が来ないことの苛立ちを、自分たちに向けているに過ぎない。そして本人はその苛立ちに気付いていないのだから、余計にたちが悪いのである。頭が痛い事態だ。
カインはしばらく考えをまとめてから口を開いた。
「……そうですね。それなら、ここにいるよりルリさんの所へ行かれたほうが良いと思いますがね」
「あ? なんのためにだ」
「威圧です」
「威圧」
さすがのブラッドガルドですら、聞き返すように繰り返した。
「もし僕がここで倒れたとして、貴方に早く治せとばかりに隣に居られたら、ずいぶんと苦しめられることでしょう」
カインはそう言ってから続ける。
「……とはいえ、ご自分が苦しめたわけではないので、多少面白くはないかもしれませんが」
「本気で言っているのか?」
「本気ですよ」
「……」
じっとりとした粘液のような視線がカインを射抜く。
本気ではない、と思われているかもしれないが、ともあれ『自分はそう思っている』という体裁というか建前は必要なのだ。
ブラッドガルドはしばらくカインを眺めてから、ふん、と鼻を鳴らした。
立ち上がると、纏った闇が外套のように揺れた。
「興が削がれた」
あちこちにあったありとあらゆる闇と粘液と泥とが、ずるずると収束していく。ブラッドガルドの姿はその収束した暗い汚泥に包まれ、そのまま溶けるように床の中へと消えていった。
あとには泥のひとつも残さず、悪夢は去った。
ドサドサと城内で人々が倒れる音が響いていた。
「僕らはまだいいですけどね、城内の人々が心配です」
ヴァルカニアの国民がいくら慣れているとはいえ、これはさすがに効いた。カインですらいまにも膝をつきそうだったのだ。
視線の隅でグレックが壁に背中をつけてため息をついていた。その近くで、コチルが思わずといったようによろけた。カインは汗びっしょりになりながら、その体を支えた。
コチルがカインに感謝の意を示しながらも、悪態をつく。
「……クソ。気になるなら、様子を見に行けば……」
「シッ」
カインは口を滑らせたコチルの口を塞いだ。
「……すまない」
ハッとしたコチルは、息を吐いてからそう言った。
「……それにあれは、威圧ですから」
「威圧」
だが、さすがにブラッドガルドと同じ反応をするコチル。
「それ本当に通用したのか?」
グレックがあきれかえった顔で聞く。
「……思いをくみ取って寄り添うって、大事なことなんですよ」
「こっちを見て言えよ、カイン」
「……遠いところ見てんぞ、王様ぁ」
「目に光が無い」
あちこちから不遜な言葉が飛んでくるが、カインは寛大に許した。
*
「……」
ふと意識を取り戻した瑠璃は、隣に誰かいる、と思った。
母親か、それとも父親か。どちらにせよ帰ってきたのなら何か言ってくれるに違いない。
目を開けようとして、ぱら、と雑誌をめくる音が響いたのに気付いた。
熱にうかされながら、なにか変だ――という気持ちで目を開ける。
不遜にも組まれた足が目に入った。
座っているのがピンク色のパステルカラーのビーズクッションではなく、持っているのが現代の映画情報誌でなければ、多分もっと完璧だ。その不釣り合いな様子を上から下まで眺める。この釣り合わなさは多分本物だが、違う可能性もある。
影蛇たちが瑠璃を下から見上げ、ひんやりとした体をこすりつけていった。
「……ブラッド君……?」
返事は無かったし、瑠璃が僅かに閉め忘れた鏡の扉は、ここからでは見えなかった。ただ、そんなことはどうでもよかった。
瑠璃がもういちど目を閉じると、額にひやりとした感触がした。
「……ありがとね」
その額にあるのが蛇ではなく、人の手のような感触がしたのは、きっと夢うつつだったからだということにしておいた。
10万PVありがとうございます!!!
割となろうではあっという間だったように思います。
なお、カクヨムのほうでも4万PVから10万PVまで感謝記念限定小説がありますので、良かったらそちらもどうぞ。