プロローグ
西暦219X年、22世紀末である。世界の人口は、およそ1億人程度らしい。
草木や生命が活動を維持できている場所は、かつて日本と呼ばれた土地のみである。
海の向こう側、この日本と呼ばれていた土地を除く世界の約99.7%は、乾いた砂と塩水の他に何もない。
文明と呼んで差し支えないほどの科学は発達しているものの、歴史は全くと言っていいほど残っていない。わかっていることは、今が西暦219X年であることと、過去100年程度まで遡ると、それ以前を辿ることができなるなるということだ。
◇
――回想。
僕の前に異世界の魔女”マリアベール・ティアラ・エンゲージ”が現れたのは、今から半年ほど前の出来事だ。
それは、真冬の満月の夜だった。
月明りとか街灯とか、そういう次元の話ではなく、言葉通りの意味で光を放つ夜だった。夜空が割れ、その中から純白の光に包まれた女の人が現れたのだ。
魔女は、少女とも成人とも取れる雰囲気で、聖女とも悪魔とも取れる表情だった。
ゆっくりと僕の前に降り立った魔女は、少し強く握れば折れそうなほどに細い人差し指を僕の唇に軽く押し当てた。
今に思うとあれは、何も喋るなという意味だったのか、はたまた今ここで見たことを他言するなという意味だったのか。どちらにしても、その時の僕はただ立ち尽くすことしかできなかった。
当然だろう。なにせ空からヒロインが落ちてくるのは流石にちょっと古すぎて――いや、違うか。古いとか新しいとか、演出の問題ではない。そもそもヒロインじゃない。
なんにしても、空が割れて色白金髪碧眼の絵に描いたよな美女が目の前に現れたのだ。
二十数年の人生で見た、最も美しい光景が目の前にあるのだから、きっと言葉に詰まったのだろう。
この瞬間、僕は魔女に魅入ってしまったのだ。吐く息も白い凍てつく真冬だというのに、社畜御用達のスーツに汗が滲んだことを覚えている。
社畜に与えられるスーツは一片の機能性もなく、夏は暑苦しく冬は寒さを凌いではくれない。
いつの日か、ジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを取り、ワイシャツのボタンを外して堂々と街を闊歩したいものだが、社畜はスーツ着用でないと外出できない。おかしいと思う。社畜に自由はないのか。
数秒後、無言で立ち去る魔女の背に向かって、何を思ったのか僕は声をかけていた。
「月が、綺麗ですね」
魔女は振り返って言葉を発する。
「……は?」
ですよね。
一歩間違えば牢屋行きの発言だったかもしれない。これでは出会って5秒で即ヤバいやつ認定だ。まあ、空割って後光差しながら登場する方がよっぽどヤバいやつなのかもしれないけれど。
なぜ声をかけてしまったのか、今の僕自身わからない。
ただ僕は、何かが変わる気がしていたのだ。
例えるなら、この世界から身分の差や序列がなくなり、社畜も魔女も、神でさえも、等しく自由に生きられる世界がやってくる、とか。