美食倶楽部へようこそ(プロトタイプ)
ロビーの古い置き時計が、かーん。と一回、高い音を立てる。
時刻は18時25分ちょうどゼロ秒。
大きな古時計が音を立てると空気は一変した。
まず、豪奢な飾りの一枚扉が重々しく開かれる。
扉の上に取り付けられた真鍮の鈴が、涼やかな音を立てる。
ワインレッド色の絨毯に人の影が伸び、シャンデリアの白い光が外の光と共鳴する。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
そして、支配人が音もなく扉の横に立った。
長身の体には、皺一つない細身の黒スーツ。赤色の磨き粉で嫌味なほど磨かれた革の靴。手には真っ白なナプキンを持ったまま、彼は完璧な角度でお辞儀をする。
開いた扉からは、一人、二人……お客様の来店だ。
出迎える彼の前に、客の影が重なった。
「……はじめてのご来店ですね」
彼は一人の客を見つめて微笑む。声は心地よいテノールだ。
彼の髪には白いものが混じり、髭も真っ白だが顔は整っていた。若い頃はそれこそ作り物のように綺麗だったに違いない。
年を感じさせない体のラインも、そんな体の線に合わせて作られたオーダーメイドのスーツも、日本人離れした足の長さも完璧だ。
「ようこそ、マダム」
その声を受けたご婦人が、うっとりと口元をシルクのハンカチーフで隠す。
「足下にお気をつけて」
彼は細長い体を綺麗に曲げて、玄関を抜けてくる客に深々とお辞儀をしてみせた。それは、席に着く前のちょっとしたパフォーマンス。
「みなさま。ようこそ、美食倶楽部へ」
彼はそう言って、ホールにつながる扉を開く。
よく磨かれたテーブルの上には、銀のフォークに銀のナイフ、真っ白な皿の前には完璧な折り目のナプキン。
そんなテーブルの前には、柔らかいビロードの椅子。
天井からはシャンデリア、光の広がる天井にはアンティークな模様が刻まれている。
そんな調度品が輝くホールに、静かなクラシックが流れ始めた。
これが始まりの音だった。
明るいホールに入ってきたのはペアが二組に、シングルが四名。ドレスアップした彼らの顔には仮面舞踏会めいた、わざとらしい仮面付き。
(……さーて、忙しくなるぞ)
キッチンの小さな窓から様子をぼんやり眺めていた膳子は、あわてて脚立から飛び降りて、湯気を上げるコンロへと急ぐ。
ぴかぴかに磨かれた鍋には膳子の横顔がうつり込んでいた。
男子みたいに短く切り込んだ黒い髪、化粧っ気のない顔にはそばかすと団子鼻。彼女は真っ白なコック帽を被り直し、コック服の腕をまくる。
膳子の前にあるのは剥き身のエビに皮を剥かれたじゃがいも、そしてボウルの上に山積みの白い卵の面々だ。
優雅なホールとは打って変わって、キッチンは戦場である。膳子は左手でボウルをつかみ、右手で卵を軽快に割っていく。
卵を混ぜるなり、続いて鶏肉に小麦粉をまぶし、踊るようにキッチンを右へ左へ。
ちょうど膳子の目につく場所に、白い紙がべろんと垂れている。
(えっと今日は確か……)
そこには膳子が書き殴ったメニューの一覧。お子さまランチ風と書かれた文字の下には……。
「オムライス! 唐揚げ! コロッケにエビフライ!」
膳子の背が何かにぶつかる。同時に雷鳴のような声を聞いて、膳子の背が伸びる。
「はいっ」
「食後はミックスジュース、ソフトクリーム! それくらい覚えなさい!」
「了解です!」
背後に立っていたのは支配人。先ほど客に見せていたような、色気ある笑顔は微塵もない。
眉をつり上げ怒鳴られて、膳子は飛び上がる。
「膳、返事は!?」
「はいっはいっ」
「……返事は?」
「一回です!」
壁にかけられた時計はちょうど6時半を指している。
今日は忙しくなりそうだった。
夜の22時丁度。ロビーに置かれた置き時計が、再び綺麗な音をたてる。
その音と同時に、店は閉店となるのだった。
相変わらず支配人は姿勢も崩さず廊下の隅で頭を下げ、満足そうな顔の客達が仮面を付けたまま去って行く。扉の向こうの道には、黒塗りの車が何台も止まっているのが見えた。
音もなく、客も車もどこかへと消えた。そうしてようやく、店は静まりかえる。
アンティークを固まりにしたようなこの建物に、ようやく静寂が訪れる。
表のライトも、ホールの電気も落とされる。ワインレッドの絨毯は、夜の闇が溶け込んで濃い赤となる。音楽も人のさざめく声も、食器の触れる音もなにもない、全部全部静かだ。
……膳子はこの瞬間が好きである。
「膳」
木の扉を閉めたあと、支配人が振り返り膳子の顔を見る。膳子は食器を腕いっぱいに抱えたままキッチンへと急いでいた。
今宵の食事を飾り立てた、チャイナボーンの皿はシンクの上に山積みだ。
「今日も料理がギリギリでしたねえ。間に合ったからよかったものの……」
壁にもたれながら、支配人が膳子を睨む。膳子は背が低く支配人は高い。だからそんな風に睨まれるとひどく圧迫感があった。
まるで上から影が降ってくるようだ。膳子は愛想笑いを浮かべて、その影から逃げる。
「でもほら、間に合いましたよ。お客様、待たせてませんし」
「最初のオムライスがでるタイミング、予定より30秒遅かった」
「30秒なんて町の定食屋でも気にしないレベルです……まあ支配人は町の定食屋なんてご存じないでしょうけど、一度視察をかねて行ってみてはいかがです?」
「おしゃべりは結構。僕がどれくらい冷や冷やしながら待っていたか、図太い膳には分からないようだ」
支配人の薄茶色の目が、膳子を見つめる。
感情の読めない目の色だ。こんな目をするとき、彼は大体怒っている。
「それに、エビフライの予定がエビグラタンになってたのは、なぜでしょうねえ」
シンクの上に貼ってある今日のメニューを指で弾いて彼はいう。逃げようと腰を曲げた膳子の襟を掴んで、
「逃げない」
と、いう。
この男、もう60歳は超えているはずなのに、動きは俊敏である。
今年ようやく20歳を迎えたばかりの膳子はその腕にたやすく捕まり、子猫のように首を捕まれた。
「……だってあのご婦人たち、揚げ物を出すと決まって衣を外して食べるから嫌なんですよね。だからグラタンにしました。揚げ衣とカロリーかわんないのに、マダムたち喜んでぱくぱく食べてたでしょ。ああほんとう、衣がなきゃカロリー低いとでも思ってるんでしょ。グラタンなんてカロリーの爆弾ですよ」
くくくと意地悪く笑ってみせれば、支配人は呆れたように手を離す。
「まあ味はそれほど悪くなかったようですが……でも、あなたは仕事を始めるのが遅すぎる」
「私、慣れてますしお客様見てから動く方がやる気になりますし」
「心構えを言っているのです。お客様を迎えるのが僕の仕事なら、あなたは料理を作るのが仕事のはず」
膳子は皺の走った支配人の鼻の頭をぼうっと見上げる。続いて狭いキッチンを、くるりと見渡す。
磨かれたシンクに綺麗な料理道具。大きな冷蔵庫。
……ここが膳子の職場である。
膳子だけの、戦場である。
フレンチなどの凝った店なら料理人はもう少し欲しい所だが、この美食倶楽部で提供されるものは名前に反して庶民的だ。
ハンバーグにオムライス、焼きそばにお好み焼き。時に筑前煮におにぎり、なんてこともある。提供する料理は、よく言えば家庭料理、俗に言うお袋の味。
お金持ちや成金様の面々が、食べたくても食べられない、「食べたい」なんて口にも出せない庶民の味わいを食べられる。それがこの店のコンセプトだった。
仮面舞踏会よろしく仮面で顔を隠しているのは何とも滑稽で悪趣味だが、提供する料理はどれも健全なものばかり。
公然とは口にできない、密かに隠れて楽しみたい。そんな紳士淑女の会員制レストランのため、一日の人数も絞られている。だからこそ、膳子一人でキッチンは充分にまかなえる。
「仕事はしてますよ。ちゃんとね。味は悪くなかった。おいしかったでしょ? 私の作る料理はおいしいんですから、ちゃんと褒めてください」
膳子は胸を張って支配人を見上げる。彼は困ったように肩をすくめ、そして膳子の肩を軽く叩いた。
「そうですね。味はおいしい。手際もいい。僕はずいぶん有能な子を拾ったようだ」
「心がこもっていませんけど、支配人」
洗い物の山を手早く片づけながら膳子はへらへらと笑う。が、何かを思い出したように、はたと動きを止めた。
「……でも今日のお客さんの中に珍しく若い人がいましたね」
「若い女性?」
「ほら、綺麗な女の人ですよ」
キッチンの小窓から覗き見したホールで、膳子はちょっと珍しい人間を見かけたのである。
きらきら輝くホールのちょうど中央。高級そうなスーツを着こなした男の隣に、ほっそりとした女性が座っていた。
顔は仮面のせいで見えないが、肩の出たドレスといい細い皮膚の張りといい、どう見ても20代前半だ。
隣に座る男は恰幅がいい。しかし髪は真っ白で皮膚も弛んでいた。けして若い男ではない。
父と娘……いっそ孫と祖父でも通る年の差である。しかし、男の腕に寄せられる手の細やかな動きなどは明らかに夫婦としてのそれだった。
「珍しい……とは、お言葉ですね、膳」
「いえ、あの。この店ってじじばば専門……いや、貫禄のある人が昔懐かしいご飯を食べに来るお店かと思ってました」
「あのマダムは新妻さんですよ。銀行頭取の」
白いナプキンを神経質そうに畳みながら支配人が言う。長いその指を眺めながら、膳子は冷たい台に顎を乗せた。
皮膚に刺さるような冷たさが、冬という季節を思い出させた。
こんなに冷える空気の中、老いた夫とともに庶民飯を食べる新妻の心中を膳子は思う。
彼女は震える指でオムライスを食べていた。唐揚げも、おそるおそる食べていた。のぞき穴から見える程度なので細かい動きまではつかめないが、どこかぎこちなく不自然な空気だった。
「政略結婚かなあ……」
膳子はぼんやりと、つぶやく。若い娘が年寄りと結婚するなど、それくらいしか浮かばない。
年寄りと結婚した見返りといえば、おいしい食事と豪奢な生活だろう。少なくとも、オムライスを食べるために結婚したわけではないはずだ。
「お客様を探るような真似はやめなさい、はしたない」
お客様には絶対に見せないあきれ顔を顔に浮かべて、支配人はコートを羽織る。
「この店は勘ぐりは御法度です」
高そうなコートだ。コートだけじゃない、腕時計だって靴だって完璧だ。
それにこの建物の管理費も安くは無いはずである。膳子へ支払われる給与だって、仕事内容に比べてみれば破格だった。
膳子は支配人の背をまぶしく眺めながら、棚に積まれている野菜をなでる。
(綺麗で新鮮な、たまねぎにじゃがいもに、にんじん……)
メニューの割に食材も良い物がそろえられている。使う食材は膳子が市場に買い出しへいく。その際の金額を、支配人はけしてけちらない。
そのくせ、店の料金は格安だ。
初めて料金表を見たとき、膳子はひっくり返るかと思った。それを支配人に伝えても「フレンチや高級中華料理じゃないんですから」と、しれっと返したものである。
どのような収入源がこの美食倶楽部を支えているのか、支配人が裏で悪い稼業でもしているのか、膳子には分からないことばかりだ。秘密主義者の支配人は、膳子にプライベートの追求を許してくれない。
そもそも膳子は半年前、このレストランに雇われたばかり。入った時、この美食倶楽部は前任者が辞めて一週間目だった。事情を聞く間もなく慌ただしく仕事がはじまった。
豪奢な内装をみて肝を潰した膳子だったが、提供する料理が全て家庭料理であると聞いて胸をなで下ろしたものだった。
大量の唐揚げにハンバーグ。キャベツのサラダにお味噌汁。全部膳子の得意とするものだ。
膳子は弟妹が多かった。彼ら彼女らの腹を満たしてきたのはいつも膳子の作るそんな食事だった。
「膳。今日はもう休んでいいですよ。明日のメニューはちゃんと頭にたたき込んでおくこと」
「ふぁ……はいっ」
欠伸を噛み殺し、慌てて膳子は背を正す。
ずれかけたコック帽を直す間に、支配人はすでに鞄とステッキを握り締めていた。
「支配人、もうお帰りですか?」
「ええ」
「ついでに送りましょうか?」
「結構」
洒落た帽子を小粋に被って、支配人は口髭を撫でる。
「そうやって、僕の家を探るつもりでしょう」
「ばれましたか。でも、ほら、ついでなので」
「ついでもなにも。あなたの家はここでしょう」
細い肩をすくめて、彼はステッキを振りながら背を向けた。
ステッキがキッチンの壁を叩く。そのむこうに10畳ほどの洋室があり、そこが今のところ膳子の家なのだ。
仕事とともに、膳子はこの男から家も与えられた。
「戸締まりはお願いします。では、おやすみなさい」
「はあい。おやすみなさい」
去り際まで完璧な角度で、彼は建物の闇に隠れていく。
「あーもう、さむいなあ」
生ゴミをまとめた袋を手に、膳子は駆け足で勝手口を駆け抜けた。
そしてゴミ箱に袋を投げ入れると、冷えた手をすりあわせて欠伸を噛み殺す。
口を開くと白い息がふわりと浮かんだ。
「ああ、外は冷えるな……」
古い建物だというのに、お屋敷の中はすきま風一つ入らず暖かい。暖炉の火があるためかもしれない。屋敷の中が暖かい分、外にでれば冬の冷たさが突き刺さる。
「さぶさぶ」
腕をこすりつつ顔を上げれば、赤く曇った空の下、佇む洋館が見えた。
大通りから外れた街の隅。長い坂道のちょうど上にこの洋館はある。
坂道をずっと降った先には、黒い固まりが見える。昼間にここへ立てば、綺麗な青が見えただろう。坂道の下は、海だ。
この屋敷は海の見える高台に立っている。
建物のそばに立って見上げると赤煉瓦づくりの壁ばかりがみえる。遠くから見れば、尖った屋根や装飾の施された小窓なども見えるはずだ。
地上に置かれたレトロなおもちゃ箱。それがこの洋館のイメージだった。
(たしか大正だったか、それくらいに作られたって聞いたけど)
膳子は冷たい壁をなでて、ぼんやりと考える。それならばこの建物は軽く100歳を越えている。
膳子が生まれる前から、ずっとここにあったのだ。こうやって壁に触れた人間は数え切れないほどいたに違いない。
見れば見るほど立派な建物だった。大昔は誰かお金持ちだか財閥の別荘だった。と噂に聞いた。
この屋敷に連れて来られた日のことは、今でも淡い記憶の中にある。
(あれは、確か……雨が降ってたし、梅雨だったから……やっぱりもう半年以上か……)
膳子はポケットに入っていたスマートフォンの画面をトン、と叩く。画面に写るのは、少年二人と少女二人、その真ん中で笑う膳子の顔だ。その顔のちょうど目の位置に、今日の日付が浮かんでいる。1月。その日付の横に、雪の予報マークが浮かんでいる。
(そうそう、あのときはずっと雨のマークだったし、6月頃だったかな)
6月。ちょうど前の仕事を失いそうな……ちょうどそんな頃だった。
そうだ。雨が降っていた。
じめじめとした、蒸し暑い雨だった。
膳子はそのとき、家もなく、仕事も失いかけ、それでも必死に生きていた。
雨が一張羅の服を濡らして、道を走るトラックが泥水を跳ね上げ、膳子の体を汚した。
それでも死ぬことも諦めることも、泣きわめくことも考えなかった。
膳子の心に締めていたのは、さあ、どう生きていくか……ということである。
決意を込めて天を見上げたその時に、一人の男が膳子の顔を見下ろしていた。
「……それから半年。クリスマスもおわったし、お正月も終わったもんなあ」
「膳ちゃん、膳ちゃん」
ぼんやりと建物を見上げる膳子に、不意に声がかかる。
振り返ると、冷え込む空気の中に一人の老人が立っていた。
「あ。おじいちゃん」
それは腰などすっかり曲がった老人である。コートやマフラーで全身雪だるま状態のまま、彼は無邪気に手を振っている。
それをみて膳子は飛び上がる。
「だめだよ。またこんな所で私を待ってたりしちゃ……夜はもう寒いんだから。運転手さんは? またかくれんぼしてるの?」
「大通りのところにいるよ。膳ちゃん、今日もね、おいしかったよ。ありがとうね。御礼をいいたくってね」
彼の名は小西という。それが本名かどうかは分からない。
このレストランを訪れる人間は皆、偽名を使うことを許されているからである。
ただ分かることといえば、彼はどこかのお金持ち。週に2度はレストランに通ってくる……膳子が知っているのはそれだけだ。
昔は仮面をつけていたが、蒸れるから。という理由で外すようになった。仮面の下は人のよさそうな顔である。
年齢はもう80近いはずだ。
すでに仕事は引退しているようで、あとは死ぬまでの暇つぶし。と、いつか彼は膳子に語った。
その金持ちのお爺さんは、ひどく膳子のことを気に入っているようで、こうして裏道に潜んで会いに来る。
その都度、彼の運転手は必死に老人の影を探す羽目になる。
小西は七福神の布袋様に似た穏やかな顔のくせに、隠れん坊はひどくお上手なのだ。
「あ。そうだ、おじいちゃん、ちょっと待ってて」
膳子は思い出し、慌てて裏口から台所へ駆け戻る。机の上にあるものを手に握って取って返すと、小西はまだそこにいた。
白くて柔らかいその手の上に、アルミホイルの固まりをそっと乗せる。
「これね、内緒だよ。エビフライをパンに挟んだの」
「エビフライのサンドイッチ!」
「私の夜食とはんぶんこ」
アルミホイルに巻いてあるのは、真っ白いパンのサンドイッチだ。細かく切ったキャベツをマヨネーズで和えて、エビフライと一緒にふわふわの食パンに挟み込む。
そのパンごとバターを溶かしたフライパンで焦げ目が付くまでじゅっと焼いて、ホイルに包んで保温した。
「おじいちゃん、エビフライ、好きだったでしょ。今日エビフライだったのに出せなくてごめんね。ちょっと冷めたけど、お夜食で食べてね」
小西はエビフライが好きだった。エビフライだけじゃ無くエビが大好物だ。大事そうに腕の中に抱え込み、彼は幸せそうに微笑む。
「……膳ちゃんのご飯美味しいものね。きっと、いいお姉ちゃんだったんだろうねえ」
お姉ちゃん。その響きに膳子の胸の奥が痛む。
小さな切り通しで突かれているような、そんな痛みだ。お姉ちゃん。いいお姉ちゃん。口の中で繰り返す。
その響きは昔に聞いた家族たちの声となる。泣きそうな弟の声がそれに重なる。切なさに、足がしゅっと冷えた。
「いい、お姉ちゃんじゃないよ……」
「五三郎ちゃんもね、あんな顔してるけどね、きっと膳ちゃんには感謝してると思うのよ」
膳子の呟きは小西には聞こえなかったようだ。彼は白い息を吐き出して、屋敷を見上げる。
古くて大きいばかりのその建物は、冷気に負けずそこに立っていた。
膳子はふと、支配人の顔を思い浮かべる。
感情という物を持ち合わせていなさそうな、あの男の顔。
あの態度や顔に似合わず、彼の名を五三郎という。名を呼ぶと噴き出しそうになるので、膳子は彼を支配人。と、そう呼ぶことにしている。
「膳ちゃんが来るまで、何人もお料理の人が入ったんだけど、五三郎ちゃんはあんな性格でしょ。喧嘩したり追い出したりさんざんで、誰も一ヶ月だって持ちやしなかったのよ。膳ちゃんが一番続いてるし、五三郎ちゃんも気に入ってると思うのね」
道の向こうで遠慮がちなクラクションがなる。小西ははっと顔を上げ、サンドイッチを胸にしっかり抱き直した。
「呼び出されちゃったねえ。膳ちゃん、ありがとうねえ」
小さく丸い手を振り振り、小西は裏道をひょっこりひょっこり、歩いていく。その曲がった背と子供みたいな無邪気な顔をみて、膳子は溜息を吐いた。
半年前には、想像もできない自分がここにいた。
「ようこそ、美食倶楽部へ」
毎日毎日繰り返される、支配人の穏やかな声。洗練された動きに、革靴のたてる音。
膳子は耳だけで表の様子を探り探り、必死に手を動かしていた。
二日連続でのんびりしていたら、支配人にどやされてしまう。
「今宵はハンバーグに、おにぎりにウインナー炒め。ほうれん草のゴマ和えです」
「まあ、懐かしいわ。運動会みたいねえ」
このキッチンは、どんなシステムになっているのか玄関やホールの音がよく聞こえる。
平たくのばしたハンバーグを手際よく焼き付けながら、膳子は白い皿をみた。
ここにハンバーグ、赤いウインナー、ほうれん草の緑が載る。四角いノリが巻かれたおにぎりを添えれば、客のいうとおり運動会のお弁当のようだった。
(運動会か……)
切れ目をいれたウインナーを熱した油で転がし、茶色の焦げがついたころに引き上げる。
緑の映えるゴマ和えを添え、炊飯器のふたをあける。白い湯気の向こうに、運動会の風景がかいまみえた。
兄弟たちが膳子の弁当を開いたときの、歓声などが今も耳によみがえる。
「あなたはご存じないでしょうけど、私たちは昔は貧しくってね、おいしいご飯を母が、姉が作ってくれて……」
「今じゃフレンチに寿司にステーキ。そりゃ最初はうれしかったものだけど……」
客の声が遠くから波のように聞こえてくる。声の感じからすると60代くらいか。穏やかなさざ波のようだ。
「だから私うれしいのよ、こんなお店をしてくださって」
「……ありがとうございます」
支配人の柔らかい声が聞こえ、やがてホールにクラシックが流れはじめる。
膳子はおにぎりを握って赤くなった手のひらを眺めて小さくため息をついた。
食事会が終わりに近づくと、クラシックの音調が変わる。それがデザートへ移行するタイミングだった。
あとはデザートを盛りつけるだけ、というところまで準備を整えてある。仕事の終わりが見えた膳子は伸びをしながら立ち上がり、小窓からそっとホールをのぞき込む。
綺麗な木のテーブルには、相変わらず紳士淑女たちが仮面を付けたまま食事を楽しんでいた。シャンデリアの輝きと緋色の絨毯に、高い天井。
しかし彼らが舌鼓を打つのは、まるで不似合いなハンバーグにおにぎりだ。皆、そろそろ食べ終わる頃。あとはデザートとコーヒーで終了だ。
(はい、今日も無事に終了……っと?)
あくびをかみ殺し窓を覗く膳子だが、その目にふと視界の隅に一人の女性がうつりこんだ。
「支配人、これ、あの女の人の席にお願いします。あったかい、レモネード」
支配人がホールの横を通りがかる瞬間、膳子は小窓からそっと手を出し彼のスーツを軽くつまむ。
「……膳、なにかあの女性に?」
突然声をかけても、自然に立ち止まり動揺も見せないのは流石だった。
膳子が小窓から差し出したのは、小さなカップに入ったレモネード。レモンを蜂蜜に漬けたものを、湯で割っただけの簡単なものだ。
「あのお嬢さ……奥様、すごく顔色悪いから。具合悪くなったのかも」
膳子が指し示したのは、中央テーブル。そこには先日も見かけた、若い女性が座っていた。隣には夫と思われる年輩の男。
相変わらず仮面のせいで顔はみえないが、薄いピンクのワンピースから見える白い腕が、今日はますます青みがかってみえた。
彼女の前に置かれた皿は綺麗に空っぽだ。前の時もそうだった。
彼女はぎこちなく食べるくせに、気持ちがいいくらい皿を綺麗にしてくれる。それなのに、小さな手のひらは膝の上に置かれたまま、まるでふるえているようだ。
「確かに、あまり具合がよくなさそうだ」
支配人は自然な動作でカップをとると、まるで滑るようにホールの真ん中へ向かう。その背を見送ったあと、膳子はあわててデザートの支度へと駆け出した。
「お嬢さんが料理を?」
「わ」
シャーベットを数回混ぜて冷たい皿に盛り上げた時、突如、背から声がかかる。その声に驚いて思わずスプーンが宙を舞った。あわてて受け止めると、キッチン入り口に見知らぬ影がある。
「あのっ、あの……お客様……何か……?」
ずり落ちかけたコック帽を直し、膳子は姿勢を正す。恰幅のいい男がそこにいた。
キッチンはホールの裏にあたるため、トイレを探して迷いこんでくる客も多いが、扉を開けて声をかけてくる客は滅多にいない。しかも男は明らかにキッチンが目的のようだ。彼はわざわざ木の扉を薄く開けて、膳子をみつめている。
こんな時の対処法を、膳子は習っていない。
もじもじと、コック帽をかかえて膳子は顔を俯ける。
「あの、すみません。あの、ここキッチンで……」
……男は、一歩キッチンに入り込んだ。その体が白い光にさらされる。そして彼は仮面をずらした。
「驚かしてすまない」
それは、例の女性の隣に座っていた、初老の男なのである。
どこかの銀行の頭取だとか、そう聞いた。たしかに、そんな貫禄がある。
恰幅のいい体に高級そうなスーツ。腕には高そうな時計も見える。髪は白く、顔にはしわも深い。しかし、優しそうな男である。
彼はキッチンを軽く見回したあと、膳子を小さく手招いた。
「お嬢さんが一人で?」
膳子の背に冷たい汗がながれた。不具合でもあったのだろうか。もし何かあれば、この店を追い出される。そんな恐怖が膳子の足を震わせる。
「は……はい、なにか、問題でも……?」
おそるおそる近づく膳子に、彼はそっと耳打ちする。
「妻にレモネードをありがとう。お礼を言いたくってね」
「あ。いえ、その」
「……実は妻は……気分が悪いのではない。食べ足りないんだ」
慎重に囁かれたその一言に、膳子の足の力が抜ける。
「た……足りませんでしたか」
「細く見えるが食べ盛りでね……まだまだ若いせいかもしれないが。しかしそれを恥ずかしがって、隠している」
男はまるで重大な秘密を漏らすように、膳子にそういった。
「君の食事がおいしすぎるから、一気に食べてしまって、まだ足りない」
男は優しい目でほほえんだ。
その真剣な声も、目線も、動作も。どれにも嫌味がない。真剣だ。どこまでも優しく、真剣に妻のことを案じる声だ。
「まだ結婚半年なんだ」
「私もここ半年目なんです」
思わず膳子がそう返せば、男は楽しそうにわらう。
「若い妻だろう。好みが分からずに最初は手当たり次第、色んな店に連れて行ったんだ。でもどうも食が進まなくって」
男は心配そうに、ホールをみる。残してきた妻が心配なのだろう。妙齢の淑女たちがあふれるホールの中、あの若い女性が一人で空腹に耐えているのは可哀想だった。
「ある時に人からこんな店があると聞いて、試しに連れてきてみた。あれはああみえて、普通の家の出でね。一緒になってから、思えば彼女の食べ慣れた家庭料理、というものを食べてなかった」
「美味しかったですか?」
「ああ。とても。それに妻は綺麗に食べてくれたよ。それが嬉しくってね」
妻、という彼の声は優しい。そして彼は照れるようにわらった。
「……まるで過保護だろう」
「分かります。食べ盛りの人には、沢山食べさせてあげたい」
膳子は机に並ぶ皿をみて、急いで冷凍庫をあけた。
今日のデザートは、ラムネ味のシャーベットだ。しかしその冷凍庫の奥には、濃厚ミルクのソフトクリームのストックもある。
毎晩ひっそり、膳子だけが楽しみで食べる秘密のおやつである。
「じゃあ食後のデザート。奥様だけソフトクリームにしますね。下に、スポンジもいれます。奥様、チョコレートもお好きですか?」
「ああ、大好物だ」
まるで子供のように、男の目が輝いた。
遠くで古時計が、カーンと音をたてる。22時、店が閉店する音だ。
しかし今日は客たちの談笑が長く続いて終わる気配がない。顔見知りが多いのか、ロビーやホールで輪になって、動かない。
キッチンの隅に腰かけて客がはけるのを待つ膳子の体に、細い影がうつった。
「あっ」
ふと、顔をあげればキッチンの扉の向こうに、一人の女性が立っている。
きれいなワンピースに細い体が、キッチンの白い光の中に浮き上がって見えた。
膳子は思わず椅子から飛び降りて、姿勢を正す。
「……」
彼女は細い指で、仮面をのけた。その下には、はっと目を引くほど美しい顔がある。
とがった顎、少しつり目の瞳に、丸い唇。
「あ……の。お口に合わないものがありましたか?」
……それは、例の腹ぺこの若奥様なのである。
この夫婦は支配人の目をくぐり抜け、キッチンに足を運ぶ癖でもあるのだろうか。
膳子はコック帽をかぶりなおし、ゆるめていた襟をただす。
「私、シェフです」
目の前に現れた彼女は、淡い色あいのドレスを身にまとい、黄金色のヒールを履いている。柔らかい香りに包まれて、そしてこれ以上ないほど不機嫌な顔をしている。
「あなたがシェフ……?」
彼女が口を開いた。そうっと、キッチンを見渡して、膳子を見る。その目が驚くように見開かれる。
「あの、なにか」
「素朴だから、びっくりして……」
膳子の食事を完食し、ミニパフェさえも綺麗にたべたその口が震えるようにつぶやく。
膳子はうれしくなって、思わず一歩近づいた。
「お食事はいかがでしたか?」
「ええ……あの」
彼女はキッチンをじいっと見つめ、そして壁に貼られた一週間の献立表を凝視する。
明日はナポリタンに目玉焼き、かぼちゃのお味噌汁、デザートは色とりどりのゼリー。乱雑に殴り書いた文字が恥ずかしく、膳子はそっとそれを背で隠す。
「食べたいものがあれば、いってください。高級フレンチとかイタリアンとかそういうのは作れないけど、家庭料理ならだいたいつくれるから」
「このお店は、いつもこうなんですか?」
「こう、とは?」
「こんな……家庭料理ばかりで、こんな立派なお店なのに」
「ギャップに驚かれる人も多いみたいですね。でもまあ支配人の趣味といいますか……」
へら、と膳子は笑う。少なくとも、この瞬間まで膳子は彼女に優しい気持ちを抱いていた。
しかし次の瞬間、それは彼女によって打ち崩される。
「……ば……っかみたい」
彼女は膳子に向かって小さく吐き捨てると、ヒールの音も高らかに去っていく。
その向こうに、客たちの柔らかい談笑の声だけが響いている。
「……バカみたいっていわれました。食事完食していった綺麗な人に」
「味を馬鹿にされたわけではないのでしょう。なら喜びなさい。料理人として最上のことじゃないですか」
客たちが去った23時。少し遅めの片づけを終えて、支配人は相変わらずの姿勢のよさで、帽子をかぶる。
思わずグチをはいた膳子に、支配人はひょうひょうと笑うばかりだ。
……実のところ、膳子はさほど傷ついてはいなかった。バカみたい、膳子自身が分かっている。こんな立派なレストランでやる、金持ちの余興だ。分かっているからこそ、考え込んだ。
「……どうして支配人は私をこの店に入れたんです?」
膳子はコック帽をいじりながら、つぶやく。
「……私、身寄りが無いし、過去だってあやしいし」
「だからですよ」
支配人は髭をなで、笑う。
「身寄りが無い方が使いやすいので」
「それ、犯罪者の物言いですよ」
「犯罪に片足を突っ込んでいた人に言われたくはないですねえ」
では。と、彼は手を振って去っていく。鍵を閉めること、火の始末をきちんとすること。それだけをいつもの通りに言って去っていく。
その背を眺めて膳子はため息をつく。悲しみはない。ただ、先ほどの彼女が吐き捨てた一言が、波紋のように体の中に響いているだけだ。
「ま、いいや……片づけしよ……」
「ぜ~んちゃん」
つぶやいて扉をあけた。その瞬間。丸い顔が闇の中にぽん、と浮かぶ。
「……っおじいちゃん!」
「いつまでも来ないから、きちゃった」
勝手口につながる扉の前に立っていたのは小西である。
今日、彼は店には来ていなかった。そんな日でも彼は時折、閉店後の店にやってくる。表ではなく勝手口からだ。
真っ白な息を吐き出して真っ赤な手をすりあわせる小西を見て、膳子は彼をキッチンに引きずり込む。
「おじいちゃん駄目だよ、寒いのにずっと待ってたら。ココアでも入れようか?」
鼻の頭まで赤くなっている小西を座らせ、膳子は急いで湯を沸かす。ココアと砂糖を練り、ミルクを足す。自分用のチョコレートをひとかけら、沈めた。ゆっくり混ぜて、シナモンをふる。大きなマグカップにいれて渡すと、小西がにこりとほほえんだ。
「……さっきのお話少しだけ聞いちゃった。膳ちゃんは色々あったのね」
背の高い椅子にちょこんと腰掛ける小西は、まるでサンタクロースの人形のようだ。無邪気ににこにことココアを飲みながら、膳子を見上げる。
「膳ちゃんがハンザイシャでも気にしたら駄目よ。おじいちゃん匿ってあげるからねえ。おじいちゃんね、警察とか弁護士に知り合いがいるからね。ここだけの秘密だけど、ちょっと悪い人の知り合いもいるのよ」
「そこまで大げさな話じゃないよ、おじいちゃん」
小西がどんな仕事をしているのか、膳子は知らない。運転手だけでなく時にボディーガードが付くこともあるので、堅気の仕事ではないのかもしれない。
そんなこと膳子にとって、どうでもいいことだ。
膳子にだって、過去はある。
「大したことじゃないの。私、ここに来る前ね、風営法違反してるお店のレストランで食事作ってたの。私って高校中退だし、何か資格持ってるわけでもないし、ツテもないからなかなか職が決まらなくって……」
膳子は小西の隣に並んでココアを飲みつつ、つぶやく。
それは2年前の話である。まだ寒い、年明けすぐのことだった。
膳子の得意なことといえば、料理を作ることだけ。しかし資格はない。資格を取るには時間もお金もなさすぎる。そしてただのレストランでは給与が安すぎる。
そこで選んだのはちょっと怪しい風俗店。マンションの一角に何人もの女の子がつめている、彼女たちは電話で呼ばれるとどこかに消えて、少しすると石鹸の香りを漂わせて帰ってくる。どこでなにをしているのか……は、敢えて聞かないようにしていた。
膳子はそんなマンションで、食事を作る仕事にありついた。
女の子は10名ほど在籍していただろうか。なかには日本語の分からない子も、未成年もいた。かと思えば、年寄りもいた。みな、明るかった。時に泣く子もいたが、膳子の食事を食べるとみんな笑った。
それも一年半しか、続かなかった。
「店が摘発されたときに私も一緒に警察に連れて行かれてね。まあすぐ解放されたけど、それで難癖がついてなかなか次の仕事が決まらなくて」
店は違法であった。なにが違法だったのかは詳しく聞いていない。
警察署に連れて行かれたが、膳子はしばらくして解放された。なにも知らなかったのが逆に良かったようだ。前科はつかなかったが険しい顔の婦警にはこってり絞られた。
「……だからワゴン車借りて、ワゴンカレー屋さん、してたんだよね。ビジネス街で。ワゴンにカレーのっけて、売りに行くの」
「違法?」
「違法も違法」
膳子はココアを嘗めながら、肩をすくめる。
「すっごく違法」
ふたたび足を染めたのは違法の道だ。しかし膳子には稼ぐ必要があった。石にかじり付いてでも、稼がなければならなかった。
「んで。危ないときに助けてくれたのが支配人」
警察に追われること数回。あわや、という時に拾ってくれたのが支配人だった。
支配人は膳子についた水しぶきを高そうなハンカチで拭うと、膳子の作ったワゴンカレーをのぞき込んだ。
そして、行く場所がないのなら、うちの店にきませんか。と、手をさしのべたのである。
「五三郎ちゃんが拾ったのねえ……」
「仕事は面白いし、まあ裏じゃ色々あるんだろうけど私、あんまりいろんなこと考えないから毎日楽しいし、でも今日さ、バカみたいって言われちゃった、お客さんに」
ココアはからっぽ。暖かい湯気の残り香が冷えたキッチンに広がる。
それを見上げながら、小西はにこにこと笑う。
「バカじゃないよ。膳ちゃんは立派だよ。だってこんなに美味しいものを作るんだもの。昔は兄弟にご飯を作ってあげてたんでしょ。偉いねえ」
弟、妹。その言葉を聞くと膳子の胸がぎゅっと締め付けられる。その背を、小西がそうっとなでた。
「弟さん元気?」
「……元気。元気に見えるだけかもだけど」
弟のことをおもうときは膳子の口数が少なくなる。これは支配人にも言っていないことである。
膳子には、二人の弟、二人の妹があった。みな、父はちがう。母は奔放な人だった。
膳子の父も誰であるか、母は語らなかった。これはただ単に覚えていなかったから、というだけのことかもしれない。
父が異なる4人の弟妹と、実母の胃を育てたのは膳子の食事だ。しかし膳子が高校生の時、母は消えた。いつもどおりだ。どこかで男を見つけたのだろう。
二人の妹と一人の弟は本当の父に引き取られたが、一人の弟は父に嫌われ引き取られなかった。
膳子が育てると豪語したが、まだ高校生だった膳子には何もできない。膳子も弟も別々の施設に送られた。高校を中途半端に逃げ出して膳子は自由の身となったが、小学生の弟はまだ施設の中。
引き取るには、生活の基盤を立て直す必要がある。早く、あの冷たいパイプ椅子とプラスチックのテーブルから弟を救い出さなければならない。そのためには、金が必要だ。
「早く、引き取ってあげられるといいねえ……」
小西の暖かい手が、膳子の背をなでる。
「この話、おしまい!」
締めっぽくなった空気を入れ換えるように、膳子は顔を上げた。
「おじいちゃんは、もうこのお店長いの?」
「そうよ。五三郎ちゃんがね、まだこのお屋敷で執事してたころからの知り合いよ」
「執事!?」
「あ。これは秘密秘密」
支配人が膳子のことを知らないのと同時に、膳子もまた彼のことを知らない。うっかり小西の口から漏れた言葉に、膳子は目を丸めた。
しかし小西はわざとらしく空っぽのコップに口を付けて、目をそらす。
そして取り繕うように、わざとらしい甘え声をあげるのだ。
「おじいちゃんね、今度はたこ焼き食べたいなあ。中をね、エビにするの。きっと美味しいとおもうのね」
たこ焼きを食べたがる職業不詳のおじいちゃんは、その日を境に姿を見せなくなった。
これまでは毎日とはいわないが、一週間に3度は店にあらわれた。勝手口にあらわれるのは多いときには週に4日だ。それなのに、もう一週間姿を見せない。
心配するには時間が足りなかった。毎日毎日、美食倶楽部は動き続ける。18時半から22時まで。
今日もまた、膳子は小西のことを考えながら食後のデザートを出し終えたところである。
「あら。ここがキッチンなのね」
きゃらきゃらと軽い声が耳につき刺さり、膳子は動きを止める。
きつい香水の香りが鼻をつく。色鮮やかなドレスの色もだ。
(……今度支配人にいって、キッチンの扉に鍵、つけてもらお)
膳子は手にしていたボウルを片付けながらため息をつく。磨いたボウルには、キッチンの扉からこちらを覗き込む女性の姿がうつり込んでいた。
木の扉は全開だ。遠慮ない視線がキッチンの中に飛び込んでくる。
「案外素朴ねえ」
「狭いわね」
「あら、コックさんはひとりだけ?」
それも三名だ。派手なドレスと派手な仮面をくっつけた、マダムたちが甲高い声でこちらをちらちらと覗き込んでいる。
それは常連の奥様方である。
いつもいつも揚げ物の皮を、ナイフとフォークを使って剥がしていく、上品な方々だ。膳子は険しくなる眉の間をとんとんと叩いた。
「お客様。失礼ですが、ここはキッチンで……」
仕方なく膳子は振り返り、精一杯の笑顔を向ける。支配人が見せる完璧な笑顔の作り方を彼から教えて貰おう、と心に誓った。
「ああ。あなた。あなたに聞きたいことがあって、あの若い奥様をご存じ?」
「支配人に聞いてもはぐらかされるし」
「あなたなら知ってるんじゃないかって、ね」
膳子が近づくと、むしろ女性たちは一気に扉を開け放ちこちらへと近づいてくる。ぎょっと体を仰け反らせれば、彼女たちのおしゃべりと臭い香水のかおりが、一斉に膳子を襲った。
「頭取の奥様になんてなってるけど」
「どうだか。あんな若いのに、あんなお年寄りに……」
彼女らの囁きは聞くに耐えないものだった。膳子は腹の底が、ぐっと熱くなる。
ホールではまだクラシックが流れ、別の客たちの談笑が繰り広げられていた。その中には、例の若い女性もいたはずだ。
あの夫婦はこの店が気に入ったのか、一週間に一度は足を運ぶようになっていた。今日は夫が急な仕事で途中で抜けたものの、彼女は席を立たず残ったまま。
おそらく席でも好奇心の目に晒されていたのだろう。
夫婦揃っているときはともかく、一人になれば遠慮のない視線が飛んできたはずだ。それでも彼女は最後まできちんと食べきった。
彼女は相変わらず不機嫌そうだが、誰よりもきれいに食事を平らげる、けして、揚げ物の皮を剥がして残すようなことはしない。
「ねえ、ねえ。あなたもこのお店の人なら何か彼女の噂なんて……」
「お客様」
膳子は台に転がっている人参をアイマスクのように当てて、へらへら笑って見せた。
「あのね、お客様。この店はこういう性質のものですので、さぐり合いは御法度です」
ぽかんと膳子を見つめるマダムたちは、何を言われているのかわからない顔で互いを目配せしあう。
そんな彼女らにも理解できるよう、膳子は言葉をかえた。
「分かりませんかね。ゲスの勘ぐりは止めろってことですよ、みっともない」
ま。と一人が口を抑える。マスク越しでもわかるほど、三名の顔色がさっと青くなる。その仮面の下の彼女たちが何者なのか、膳子は知らない。金持ちの奥様なのか、平民なのか、それとも実はどこかのお姫様なのか、そんなことは誰にもわからない。
仮面を付けるということは、そういうことだ。この店は案外平等なのである。
膳子はパン、と机を一度叩く。キッチンの台はきれいな音をたてて、上に乗せたボウルにも音が反響する。
「正直、料理人として言わせていただくと、揚げ物の衣をちまちま剥いていかれるようなお客様より、綺麗に完食してくれる人の肩を持ちたいものです」
膳子は胸を張って答える。
馬鹿みたいと面と向かって言い放った彼女だが、その食べ方をみていると心地が良いほどなのだ。
一生懸命に食べてくれる。それをみていると、弟妹を思い出すのだ。膳子が料理を作るとき、いつも思い浮かべるのは弟妹のことだけだ。すべての食事は彼ら彼女らを思い浮かべて作られる。
こんな下品なマダムに食べてもらうくらいなら、弟妹たちに食べさせたかった。もう一度、一緒に食べたかった。
「……膳」
膳子の肩を、細い指がつかむ。振り仰げば、そこには支配人が立っていた。
「支配人。首なら首にしてください。私だって腹の立つことくらい」
「お客様。うちのオーナーシェフのいうとおりです」
その手を振り払おうとした膳子だが、支配人の静かな声に動きを止める。マダムたちはまだ頭の整理が追いつかないのか、固まったまま動くこともない。
「お客様がたは、私達の美食倶楽部の趣旨を勘違いされているようですね」
支配人は膳子の肩を軽くなで、一歩前に出る。
長身の彼が前に立つと、何か甘い香りがする。
この香りを膳子は覚えていた。
半年前、車に跳ねあげられた水しぶき。それを拭ってくれるとき、あの出会いの瞬間も同じ香りだった。
「この店はお客様にとっての最高の美食を提供する場所です。お口にあわないようならば、そのままご退出ください」
支配人は言い切ると、最高に爽やかな笑顔を浮かべて、慇懃無礼に三名をキッチンから追い出す。
「お連れ様は入り口でお待ちですよ。さ、お見送りいたします」
「え。まって、だってまだ、最後のデザートが」
「お見送りいたします」
断固とした物言いで、支配人は犬を追い払うようにキッチンを出て行く。ただし振り返りながら、
「膳。食べ物で遊ばない」
と、膳子が手にする人参を指し示すことも忘れなかった。
「支配人、私……」
「膳ちゃん……」
扉の向こうから、支配人と入れ違いで入ってきた人影をみて膳子は息をつまらせる。
「おじいちゃん!」
「ちょっと寄ってみたのだけど……」
それは小西なのである。一週間ぶりにみたその顔は、相変わらずふくよかで顔色もいい。
「さっきのお話が聞こえちゃったんだけど……おじいちゃんの知り合いの悪い人、つれてくる?」
「だから、そんな大げさな話じゃないって……おじいちゃん元気だったの、っていうか、あの、その」
いつもは勝手口から入ってくる癖に、今日は珍しく中から現れたこと一週間ぶりであること、一気に聞きたいことが口にあふれて膳子は言葉に詰まる。
そして何より……。
「あの……奥様、あの……」
小西の後ろに、すらりとした影があるのだ。
膳子はぽかんと、その影を見つめる。
小西はにこにこと膳子を見上げた。
「入って来にくそうにしてたから、おじいちゃんが引っ張ってきたのよ」
その影はしずしずと前に進み一度足を止める。しかし小西に促されるようにキッチンに入ってきた。
黄色のワンピースから見える白い足。顔を見て、膳子は目を丸める。
「あなた……」
それは、例の女性だった。
彼女は細い指先を所在なさげに絡ませて、やがて思い切ったように頭を下げる。
「あ……の……」
仮面をはずし、頬をかすかに赤らめる。その表情はとても幼くみえた。
「前……あなたに、ひどいこと言ってしまったから、お詫びしなきゃって……来たんだけど、あの、聞こえちゃって……その、庇ってくれて」
小西がにこにこと見つめている。その視線に押されるように彼女は膳子の顔を見てはっきり口を開いた。
「ありがとう」
その意地っ張りな声を聞いて膳子は思わず吹き出す。と、彼女の目がきゅっと釣り上がる。
「なによ……」
「案外素直で驚いてます。ところでおじいちゃんは、なんで?」
ホールからはまだかすかに談笑がきこえてくる。キッチンの騒ぎは向こうには聞こえないのだろう。あの三名のお客様も、支配人がうまく追い払ったのか、彼女たちの声はもう聞こえない。
静かなキッチンには、三人だけ。
「おじいちゃんね、来週ね、入院するのね」
小西は言いにくそうに、俯き、そして泣きそうな声でつぶやく。
「え、どこか悪いの?」
「うん……入院前にうろうろするなって、せがれに怒られてね、だから家にずっと居たんだけど、膳ちゃんのご飯、もしかするともう食べられなくなるかもって、そう思って……最後にどうしてもたべたくって、家を抜けてきたんだけど、お食事の時間に間に合わなかったねえ」
しみじみとつぶやく小西の言葉に膳子の胸が急に苦しくなる。ふくふくしい小西が急に弱々しくみえた。言いたい言葉が口から出てこない。
と、キッチンの扉が薄く開いて支配人がひょっこりと顔を出した。
「膳、ホールはもう終わりますし、いいですよ。キッチンを使っても」
それだけ言い捨てて彼は去っていく。もっと掛けるべき言葉があるだろうと、腹も立ったが膳子は急いでキッチンの扉を締めると冷蔵庫をあけた。
「じゃあ今から作ってあげる」
「えっいいの」
ちょうど買い出しを終えたあとなので、食材は豊富だ。
ぱっと顔を輝かせた小西を見ながら膳子は食材を探り出す。
「おじいちゃん、なにたべたい? なんでも作るよ」
「えっとね、えっとね。前に膳ちゃんが作ってくれた、卵とネギのうんと甘辛いの、エビを入れてね、それをねえ、パンに挟むの」
「そんなのでいいの?」
「それがいいの」
「……あなたも一緒につくろう、もしまだ時間があるなら」
キッチンの隅で所在なさげにしている彼女にも、声をかける。急に声をかけられたせいか、彼女の顔がパッと赤くなる。
「つ、つくる? わ、わたし」
「卵を甘辛く味付けして、エビを入れて卵焼きにするの、それをまだ柔らかいパンにチーズとかケチャップと一緒に挟むの。かぶりついて食べてもいいし、どうせキッチンだから誰もみてない」
「……」
「まだ食べられるでしょ。だってまだ若いもん。一緒に作って、食べよう。お腹空くのは悲しいもの」
お嬢様然とした彼女の腹がきゅうと鳴る。それが合図だった。
「……私、結婚して半年なの」
彼女は包丁でネギを切る。
とん、とん、とん。という丁寧な音が響く。
その横で膳子はエビを調味料であえている。お金持ちの若奥様と並んでキッチン仕事をするなど、まるで幻想のような不思議な時間だった。
「……おかしいでしょ。孫とおじいちゃんくらい離れてるのに」
彼女は包丁を器用に扱い、笑う。長い髪をひとつにまとめる動きは手慣れたものだ。ネギを切る手も慣れている。
小西といえば、パンを皿に並べるだけでも四苦八苦しているというのに。
「あの人、前の奥さんを亡くしてずっと再婚なんてせずにここまできて」
彼女はぽつり、ぽつりと語り始めた。膳子が急かしたわけではない。ネギを切る間に、彼女の口が緩んだのだ。
「私の実家、お金持ちでもなんでもないの」
「ええ分かります」
「え」
「料理。慣れてる。お金持ちのお嬢さんの動きじゃ無いもの」
彼女の切ったネギと、膳子が味を付けたエビをまとめてボウルにほうりこみ、卵をいくつも割り入れる。砂糖と醤油と出汁のもと。そんな気軽さで調味料を振り入れると軽く混ぜ、膳子は大きなフライパンにそれを一気に滑りこませた。
じゅう、と煙があがる。甘辛い、香りがキッチン中に漂う。
「お金持ちの旦那さんのはずなのに、こんな庶民的な料理を出すお店に連れて来られて、馬鹿にされてると思った? それで不機嫌に?」
「そうじゃないわ」
彼女はじっと、膳子の動きをみている。
「ここのお店のお料理は美味しくて」
彼女は小さな口と、細い体だ。ぱっと見ただけでは大食漢にはみえない。
しかし目は、膳子の作る卵焼きを見つめている。膳子はその視線に覚えがあった。弟妹たちである。
食いしん坊の彼らはこうしてキッチンで、膳子の作る料理をじっとみつめていた。
「食べてる私のこと、あの人、じっと見るの。まっすぐに見るの。初めて会ったときとおなじ」
「お嬢さん、旦那さんのこと、大好きなのねえ」
小西がふいに、口を開いた。
白い皿に丁寧にパンを並べて終わった彼は、にこにこ笑顔で彼女をのぞき込む。
その視線に、彼女の頬が一気に赤くなった。つんけんしていた表情とはまるで違う。素直な少女の色になる。
「大好きなんでしょ、旦那さんのこと」
「……そうよ……」
ふるふると、彼女の指先が震えた。
「愛してるの。あの人のこと、だいすきなの」
ぽつり、と言葉が漏れてそれは一気に吹き出す。まるで間欠泉のようだ。
「結婚してから、ううん。なる前から、レストランっていえば高級フレンチとか、イタリアンとか……そんなの食べ慣れてないし味のこともよくわからないから、食べ過ぎなかったの。でもこのお店に連れて来られて、懐かしくって、美味しくって……」
「がつがつ食べちゃう?」
「試されてるのかと……そう、思って。ぱくぱく食べるの……なんて、はしたないのに、だって、おなかが空いちゃって、私……」
彼女は唇を押さえ、俯く。
膳子は思わず吹き出しそうになる口を必死に押さえた。
なんてことはない。新婚の甘い惚気につきあわされている。
笑いをこらえ、膳子は卵を手早く折り畳む。まだ湯気のあがるそれを丁寧にまとめあげ、マヨネーズと辛子をぬったパンの上に乗せていく。
「こんなの、嫌われちゃう。はしたなくって……」
「そんなことない。大好きな人が美味しそうにご飯を食べるのは、見ていて楽しいのよ。はしたないなんて思わないの。可愛いの」
小西は目を細めて、彼女の背をなでる。
「おじいちゃんの大好きな奥さんもねえ、20も上だったのよ」
柔らかいパンで卵を挟み込みながら、小西が照れるようにいった。
「おじいちゃんが10歳のときに好きになってね。必死に口説いてね、18歳で結婚したの。卵焼きが大好きな人だった。卵焼きをぱくぱく食べるのが可愛くって」
「はじめて聞いたよ、おじいちゃん」
「20年前に死んじゃったけど、でもね、あっちの世界にあの人が居るから」
卵は柔らかなパンでふたをされ、真ん中から切ると綺麗な黄色の断面がみえる。
「……おじいちゃんは死ぬのが怖くないのよ」
そのパンをしみじみと見つめて、小西は優しくつぶやいた。
柔らかい風貌のその向こうに、彼のかすかな思い出が見えて膳子は少し胸が痛くなった。
「それ、持って帰っていいよ」
一つ、二つ。大きなサンドイッチをぺろりと食べた彼女を見て、膳子は笑う。自分用に作っておいたサンドイッチをアルミホイルに包み、彼女の小さな手に乗せた。
「え。でも」
「旦那さん、途中で帰っちゃったでしょ。それ一緒に食べて」
見た目によらず彼女は大食漢だ。そして綺麗にたべる。
「それで今度は家でも作ってあげるといいよ。きっと喜ぶよ」
「あ……ありがとう……」
「でもお店にも来てくださいね。店が潰れちゃ困るから」
「絶対に」
まるで幼い顔で彼女は照れて、そして笑う。
「またくるわ、すぐに」
彼女は初めてみせる可愛い笑顔で、膳子をみる。そして去っていく背をみつめ、膳子は長い息をついた。
……今日はなんとも、長い一日である。
「おじいちゃんも、おいしい?」
「おいしい!」
小西はまだ、幸せそうにサンドイッチにかぶりついていた。
「……おじいちゃんもさ。死んでもいいなんて言っちゃ駄目だよ。だってたこ焼きじゃないものそれ。ちゃんと来ないと、エビ入りのたこ焼きつくらないからね」
「そうねえ。おじいちゃんも、奥さんにも会いたいけど、膳ちゃんにも会いたいもの。このお屋敷にもまたきたいし、五三郎ちゃんにもあいたいし」
口いっぱいにサンドイッチをほおばって、小西はしみじみとつぶやく。
「年を取って、こんなに贅沢になっちゃった」
「おじいちゃん、このお屋敷に前からきてたの?」
「そうよ。大昔も昔ね、ここに伯爵様が住んでいたの。もちろん、伯爵っていう身分は遠い昔になくなっちゃったけど、みんな伯爵様って呼んでたのよ」
彼はキッチンの壁を見る。キッチンの水回りこそ改装されているが、壁や床は昔のままだと聞いたことがある。
古い、古い建物だ。小西は昔からこの場所を知っているのだろう。
「おじいちゃんのお家と関係があったからよく遊びに来ていたのだけど、そりゃ優しくていい伯爵様でねえ」
膳子はその伯爵様を知らない。そもそも支配人の過去も、この建物の由来もしらないのだ。
すべてを知っていると思われる小西は、不意に口を滑らせた。
「五三郎ちゃんはその伯爵様に拾われて」
「……子爵様、それ以上は個人情報です」
ふ。と、扉が音もなく開く。いつからそこにいたのか、支配人の細長い影が滑り込む。
その声をきいて、小西は照れるように笑った。
「……うちもね、随分大昔は子爵のお家だったんだって。でも、そんな呼び方をするのは、もう五三郎ちゃん一人になっちゃったねえ」
小西が丸い顔で支配人を見る。彼は困ったように小西にコートを羽織らせた。
「子爵様、運転手が泣きそうな顔でお探しですが」
「もう。仕方ないねえ。じゃあね、またね、膳ちゃん、五三郎ちゃん」
頬を膨らませ、小西は丸椅子から飛び降りる。そしていつものように手をふって、勝手口から出て行くのだ。
「待っておじいちゃん……」
追いかけようとする膳子の手を、支配人がつかんで止めた。
「膳」
「だって、おじいちゃん、病院がどうこうって……」
「心配なんてしなくても、あの人はまた来ますよ」
「へ?」
支配人は扉を閉めながら、ため息混じりに言った。
「来週にでも」
支配人の顔はいつも通りに涼しい。ただ眉間に疲れがかすかに見える。
「ただの人間ドッグです。毎年この季節に受けるようですが、毎回入る前にあんな風に大騒ぎして。数十年、ずっと同じ事の繰り返しです。今年もきっと大丈夫」
「はあ……?」
「でも、たこ焼きはいいですね。エビ入りはどうかとおもいますが……でも縁日メニューか……焼きそば、たこ焼き、あと、あのウインナーを衣に包んで揚げた……」
支配人はぶつぶつと何事かつぶやいて、ポケットから小さなメモ帳を取り出す。細かな文字が刻まれたそのメモ帳に、彼はさらに何か書き足していく。
「アメリカンドッグ? あとはべっこう飴とか……季節外れですが、面白いですね」
「支配人」
つぶやきながらも手にはステッキ、体にはコート。帰る準備を整える支配人を眺めながら膳子は思わずそのコートの隅をつかんでいた。
振り返る支配人の顔は、相変わらず崩れない。
マダムたちを見つめるときのような色気はない。膳子に向ける顔は、いつも素の表情だ。
「なんでこんなお店しようと思ったんです?」
「恩人の、遺志ですよ」
「その……伯爵様っていう……」
「さあ、どうでしょう?」
口元だけで笑って、彼はごまかす。近づけるように見せかけて、彼はけしてあと一歩を許さない。
ロビーに出た彼を追いかけて、膳子は彼の顔を見上げた。
「……支配人」
支配人は深く帽子をかぶり、ステッキをくるりとまわす。
「なんですか」
口にしかけた言葉を飲み込んで、膳子は別の言葉を口にした。
「五三郎さんと呼んでも?」
「帰ります」
膳子の戯れを見事に無視して、彼はまっすぐ扉に向かった。
豪奢な飾りの一枚扉が重々しく開かれる。
扉の上に取り付けられた真鍮の鈴が、涼やかな音を立てる。
扉の向こうから光が漏れる。ワインレッド色の絨毯に、外と中の光が共鳴する。
「戸締まりをしっかりして、明日も4組のお客様ですよ」
「はいっ」
「おつかれさま、膳」
そして支配人の大きな手が、膳子の頭をなでる。
遠く、海から汽笛が聞こえる。
扉が閉まれば、後は置き時計の刻む音だけだ。
おそらくずっと、支配人が若い頃からずっと時を刻み続けた時計の音だけだ。
「……さて。明日も頑張りますか」
骨董品のような室内を見上げて、膳子は伸びをする。
ノスタルジックな気持ちに襲われたのはたぶん、この建物が見せた幻影だろう。
明日からはまた、いつもの忙しい毎日がはじまる。
しかし今日は昨日よりも、ほんの少しだけ心地よく一日を終えられそうだ。と、膳子は眠気のあくびをかみ殺した。