恋
生きろと簡単に言う人、死んでしまえ。
死にたいと思って初めてわかった。私は生きたいんだと。
生きていこう。少しずつ。
僕は、まぶしすぎる未来の重さに耐えられなかった。死んでしまおうと思った。もうすぐ死ぬ、という予感を感じながら、夜になりかけの小径を散歩した。空を見上げると、うっすら見える天の川にミズが流れていた。夏が近いから、上流のダムが水門を開けたのだろう。
夏は幻想の季節だ。まだはっきりと夏が訪れたわけじゃないけど、その断片が辺りに漂っていた。だから全ての存在が揺らめいて、全ての存在が詩になった。それは熱のせいだけじゃないと思う。季節の香り、広がる雲の生命力、草樹の呼吸、星の明滅。それら全ての意味が重なり合って、「夏」という物語を創っているのだろう。
そんな季節の美しさの中で、僕は孤独だった。そんな美しい世界に、僕は居ちゃいけないと思った。場違いだと思った。だけど今すぐにこの世界から出て行く勇気はなかったから、孤独を抱えながら感傷を味方にして彷徨うしかなかった。ポケットからウイスキイの小瓶を取り出して味わうと、樫樽の香りが染みついた琥珀色の液体が、やさしい熱を帯びているのを感じた。でもその熱はやさし過ぎて、僕のみじめな感傷をもっとみじめにした。
歩く。
歩く。
歩く。
しばらく歩くと田んぼの真ん中に出た。見渡す限りの青い稲は、海みたいだった。昼の遺骸が沈殿した土の上は、深海みたいだった。紺碧に染まった空に、夕星がいくつか散らばって、溶鉱炉のような赤い残照が微かに滲んでいる。広がる稲の大草原は、うすい液体の夜に浸されて、さわさわと薄墨色の波を立てていた。
また、
歩く。
歩く。
歩く。
もう夜になっていた。ふと、立ち止まると、僕は視線を感じた。空からの。
空を仰ぐと、しらしらとまたたく金星が、僕を見つめていた。この視線が向けられるのは今日に始まったことじゃない。夜を歩くたびに視線を感じる。だから僕は、その理由を尋ねてみようと思った。
「君はいつも僕を見ているね」
「そうだね。だって君ほど孤独じゃない人も居ないと思ってさ。珍しかったからね」
金星はそんなことを言った。「そんなことはないよ」と反論したけれど、そうじゃないことはわかっていた。僕は孤独だけど、少し手をのばせば、そこには温もりがある。
それでもこの孤独は、やわらかな心地よさと安心感を握っている。だから僕は孤独に居場所を見つけるんだ。
「どうせ僕の孤独は偽善だ」
少しなげやりに言ってやった。
「偽善じゃないものなんてないさ」
金星はまた光った。
僕は金星にさよならを言ってまた歩き出した。
歩く。
歩く。
歩く。
丘まで来ると、僕はたばこに火をつけた。はき出す煙には虚無が含まれていた。たばこの煙をくゆらせながら、今まで歩いてきた道を眺めていると、彼女は来た。僕は彼女を待っていたのだ。夜にだけ会える光の陰影。永遠を生きる陰の結晶。それが彼女だった。
僕は、立ちこめるたばこの煙の虚無感をたよりに、彼女と手をつないだ。彼女の手は冷たかった。
「だって人間じゃないもの」
彼女はそう言った。
人間じゃなくても、冷たくても、こんなに美しい時の中で生きていられるなら、僕は人間じゃなくてもいいなと思った。いつか彼女が言っていた。「死んだ人の墓標達の中で、私は生きているのよ」と。だから、僕も墓標の一つになろうと思った。でも彼女は、「あなたは人間でいなくちゃだめ」と言った。
「どうして?」
「だって人間でなかったら人の温もりはわからないもの。私にはあなたの悲しみはわかるけれど、あたたかさはわからないの。もし、私と同じようになりたかったら、あと百回生きてね。それでもまだ私のようになりたかったら、迎えに来てあげる」
彼女は死にたがる僕を優しくさとした。
だからこれは約束。
かすかな温もりを、こぼれ落ちてしまいそうな温もりをたよりに、空に登れる日まで生きるという約束。
「わかった」
空は幾億の墓標に満ちていた。
空は幾億の星に満ちていた。
僕は彼女にキスをした。
僕は月という名の彼女にキスをした。