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イヴェディア  作者: Rais
第一章 昔日 ~少年時代~
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目覚め。

「どうしてそんな……!」


 エリスが半ば叫ぶように問いかけたが、すぐに口を閉じた。彼女の言葉は、ゲオルグにとっては、辺りを飛び交う塵のように無意味なものとしか感じていないようだった。彼の眼中にエリスの姿は無く、光を失った瞳には二人の兄妹の姿がぼんやりと映っていた。


 するとゲオルグは、先程カールがそうしたように、勢いよく空を斬り、こびりついた鮮血を振り払った。小さな飛沫がフェリオットの頰に斑点を描き、吹き出す汗と混じって真っ赤な雫が一筋、軌跡を残していった。


「選べ。もう次は言わん」


 ゲオルグは構え、細い切っ先をゆらゆらと動かし、遊ばせていた。不意に弱々しく、ひどく間延びした海風が西の大通りから流れ込んできた。そこでフェリオットはようやく、一度目の問いかけから、エリスの悲痛な嘆きまでの間、長い沈黙があったことに初めて気がついた。


 もはや静寂は許されない。さらなる沈黙が死を意味することは、誰にだって理解できた。


「俺は――」


 死ぬのは嫌だ、と。誰かが心の中で叫んだ気がした。


 柵から飛び出した小動物のように、千切れてしまった縄のように、重かった足取りと、思考と、心の変遷その全てに、明瞭で快活な目覚めがもたらされた。父親にも良く褒められた快足が、彼の肉体を、彼の憎悪と罪の意識さえ置き去りにして、穏やかな西風と共に東へと運んでいった。


 不意に、右手が誰かのぬくもりで包まれた。いいや、自ら掴んだのだ。自分は今、エリス“だけ”を引き連れて、街の出口へと走っている。それが贖罪だとでもいうかのように、たったいま犯した罪に釣り合うだけの善行だとうそぶくように、フェリオットはただひたすらに走り続けていた。


 彼の逃避を止める者はいなかった。エリスも、ゲオルグも、アラクも、当のセレアでさえも。彼のとった行動が、迫られた選択に対する答えである事が明らかだったためなのか、それとも単に呆気にとられたからなのか。


『どちらにせよ、同じことだ』


 ゲオルグは乾いてしまった心の中で、そんなことを繰り返していた。


「フェリオット!」


 エリスは手を引かれながら、何度も何度もその名を呼びかけていた。彼がそれに応えることはなかったが、もし応えたとしても、エリスは彼にかけるべき言葉を何も持ち合わせていなかった。しかしかといって、彼女は黙ったままフェリオットの背中をただ見続けることなどできなかった。


 幾度目かの呼びかけの後に、ようやくフェリオットはちらりと横顔を見せた。その表情に色彩はなく、彼の顔にはちょうどゲオルグと同じような虚無が宿っていた。


 エリスは黙った。それは彼にかけるべき言葉を見失ったためではない。無色の泥濘に沈んでしまった少年の赤い瞳が、たった一人残されてしまった最後の肉親の姿を、はっきりと映していたからだ。もう彼女が、再び彼の名を呼ぶことはなかった。


 妹を見つめた時、フェリオットは時間が止まってしまったかのような感覚に陥っていたが、それも一瞬だけだった。光を宿さない妹の(まなこ)に何が映っていたのか、推し量ろうとしたが叶わない。ゲオルグがセレアを遮るように立ち、じっとフェリオットの瞳と相対したからだ。


 フェリオットは笑みを浮かべた。それは青年に対する侮蔑か、自らへの皮肉にもならない嘲笑か。彼は自分のとった行動の由来を、理解できていなかった。

 

「起きろ」


 頭がとてつもない熱を帯びていて、痛みもひどく、判然としない思考のただ中で一心に走り続ける。すると景色が変わっていき、街の出口が見えてきた。


「おい、起きろって!」


 自分の姿をかえりみると、背丈は高く、身体はずっしりと重く、変化していた。服装も在りし日の父が身に着けていた軍服になっていて、腰には紛れも無い父の剣が佩されていた。


「ようやく起きたか」


 辺りを見回す、と大勢の人々の姿。思い思いの武器を手に、皆一様に赤い軍服を着込んだ、フォルティス義勇軍の姿だ。


「待て……戦いはどうなった」


「何言ってんだ、まだ始まってすらいないぞ?」


 夢を見ていた。どこからがその始まりだったのか、まだ続いているのか。フェリオットは、顔を覗き込んできた同僚と目を合わせると、途端に現実感を取り戻してきた。どうやら夢ではないらしい。


「そろそろ出発だ。ま、てきとーに怪我でもしてさっさと後送されようぜ」


「もう少し寝る。どうせ義勇兵れんちゅうの準備で手間取るだろ」


「お前なぁ。連中の監督をするのも仕事だろうが。不真面目なのは俺だけで十分だろうよ」


 フェリオットは眼を瞑った。あれから五年が経っている。長いようで短い月日だった。


 悪夢は終わり――いや、本当の悪夢をこれから見ることになる。ぼんやりとした思考が、冬の冷たい風にあおられて次第に鮮明になっていった。


 自分は、自分だけは生き延び、そして父と同じ軍人の道を選んだ。エリスはどうしているだろうか。彼女は三年ほど前、再び教会に引き取られ、以来会っていない。


『何にせよ、俺の為すべきことは――』


 復讐だ。これから戦うことになる大国、ウェールにはフォルティスから排斥された魔族達が多く亡命している。ゲオルグもアラクも、きっとそこに居る。


 この日を待ちわびていた。フェリオットは奇妙な笑みを浮かべ、また眠りについた。

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