逃避
「勝てるわけないよ!」
エリスの声だった。彼女は目前で繰り広げられる悲劇を、ただ怯えて見つめるばかりの観客と成り果てていたが、ついに耐え切れず、脚本に口出しすることを決意したようだった。
「よく考えて! 体格だってこんなに違うんだし、あなたの……あなたのお父さんを殺した相手なんだよ? どうやったってそんなの……あなたが戦う必要なんかないよ!」
エリスの言葉は単純で、復讐にたぎり沸騰したフェリオットの頭でも、すんなりすることが理解できた。だからそれに反駁することなど、彼にとっては武器を拾い上げるよりも容易く、また戦いよりも前に手を打つべき問答であった。彼はゲオルグと向き合ったまま、エリスの言葉に応えた。
「必要かどうかは俺が決めることだ!」
「もう一度言うよ。どうやったって勝てはしない! その傷だって早く治さないと大変なことになる!」
「傷なんかどうだっていい! それに勝てはしないだって? そんなこと、やってみなくちゃわからないだろ!」
「セレアちゃんの事はどうするの? お父さんの言葉を思い出してよ! あなたが死んでしまったら……一体誰がセレアちゃんを守るの?」
この、エリスの最後の言葉を皮切りに、フェリオットはようやく背中にふりかかる声とまなざしに向き合った。
セレアはエリスと共に、フェリオットの後ろで黙ったまま立っていた。光を宿さない瞳が何を映しているのか、彼女が一体何を考えているのか、彼には読み取ることが出来なかった。
フェリオットは剣を拾い上げ、もう一度構えた。今度は、刃が降りかかることは無い。ゲオルグはじっと少年の瞳を見つめ、構えた剣の切っ先でさえも微動だにせず、ただ黙って佇んでいた。
何かを待っているのかのようにも見えるその様子は、先の瞬間、恐ろしいまでに素早く苛烈な一撃を与えた人物とは思えないほどの“平穏”を宿していた。憤激していた人が突然黙り込んでしまう有様に似た、感情の歪。フェリオットには、それが怖くてたまらなかった。
この男が何を考えているのか。何を望んでいるのか。少し本気を出せば、ゲオルグは直ぐにでもフェリオットを殺すことは出来るだろう。
けれども彼はそうしなかった。ひたすら受け身に徹し、原因に対する結果を発露させる。そうすることを運命づけられたある種の機械の如く、ゲオルグはただそこに在り続けていた。
するとフェリオットの内側には、これ以上にない憤怒と、憎悪。そして比類なき恐怖と悲しみ。似て非なる二つの事柄が萌芽し、彼の心の支配権を奪い合い始めた。
だが、この葛藤を少年の小さな胸の内で抱えるにはあまりに重く、肥大に過ぎた。彼の中の天秤は不釣り合いな重さに壊され、無残にもずたずたに崩されてしまっていた。
そうして、彼の中に遺されたのは、生き延びるという本能。彼は、一つの決断を下した。
英雄も、救世主も、全てを覆す逆転劇も、ありはしない。ならばここに挑みかかることに一体何の意味があるのだろう?
フェリオットは剣を納め、駆け出し、セレアの手を取った。
「エリスも来い!」
そう言い放ち、返答も待たずにフェリオットは東へ向けて走り出した。東にはメルディスという大都市がある。生きるためには、辿り着かなくてはならない。
「止まって!」
これまで聞いたことがないほど凄烈なエリスの叫びに、フェリオットは反射的に立ち止まった。刹那の後、先の石畳には一本の矢が突き刺さり、路上の石ころを砕いて小刻みに痙攣していた。
「あれ、僕の矢が外れたのって、何年ぶりだろ。記録破られちゃったなー」
頭の上から、そんな気の抜けた言葉がふりかけられた。頭上を見やると、近くの商家の屋根の上に、昨日出会ったアラクという少年が、身の丈を優に超える長弓を軽々と構えていた。
「けど次は外さない」
掠れるほどに静かな声音で呟き、アラクは再び弓の弦に矢羽をなぞらせた。ぽっかりと空いた暗い穴ぐらのような瞳が、じっと子供達を捉え、離さずにいた。
次の瞬間には、射貫かれているのだろう。そうフェリオットは予感し、ついに諦観した。彼の中に僅かに灯りかけていた勇気という名の蝋燭は、一時の合間に溶けてなくなってしまった。
「待て、アラク」
ゲオルグが呼びかけると、アラクは蛇のような鋭い目尻へさらにしわを寄せたが、すぐに矢を弦から外した。
何故。そんな疑念さえも、抱く余裕などフェリオットは既に持ち合わせていなかったが、少年から視線を外し、ゲオルグと再び相対するほどの意志は未だ健在だった。
「選べ」
ぼつぼつと、霧の中をさまよう亡霊のような声音が囁かれる間、ゲオルグは真新しい鮮血に染まった刀身を隠す事はしなかった。
「お前か、お前の妹。どちらかだ」