夜が訪れ日は巡る
ウェールまでの道のりは極めて特異な経路を辿った。件のロデス山脈である。険しい山で、人の手など一切入っていない……はずだった。
山脈には道があった。それも、よく整備された道である。道の端には綺麗な花が咲いていて、街路樹のように木々が均整に植えられている。ニメリア平野やオリヘンムの荒れ果てた姿に見慣れてしまっていたフェリオットは、その光景が奇跡のように思えて仕方なかった。
「これは私の師が造った道だ」
唐突にクレイグは語り始めた。
「彼女はエートリヒという名で、フォルティス出身の魔族だった。だが貴様等の国で、魔族としての生を授かるということは、地獄に産み落とされたのに等しい。かといって国を出るには監視の厳しい国境を抜け、荒れ果てたニメリア平野を越えねばならない――今でこそニメリア平野は落ち着いているがね。そこで彼女は同じ魔族の仲間と共にこの道を開いた」
「亡命の為に造ったのか? だけどこんな大きな道、誰も気づかないはずはないだろう」
するとクレイグは、何故だか半ば自嘲気味に笑った。
「いいや気付かない。実際、貴様も今まで存在を知らなかっただろう?」
「俺じゃなくても誰かが気付いたかもしれないだろ。そうやって詭弁使いやがって」
ヨルフは二人のやり取りを、こらえるように見つめていた。
――――
計画的だったのだろう。道中には馬が何頭も待機していて、フェリオット達は馬を替えながら休まず進んだ。その甲斐もありウェールには三日と経たずに入国できた。
フェリオット達はウェール南の要、ログナに入った。もう夜も遅く、フェリオットは宿舎に案内され、床に入った。だが、眠る事は出来なかった。
ぐるぐると頭の中で何かが巡っていて、首の痛みが疼く度に死の恐怖が心の全てを支配する。だが、この感覚は初めてではないだろう。五年前に彼は同じ死への恐れから、選択したのだから。
止む無く部屋を出て、宿舎の広間に入る。すると、薄暗い明かりの中で人影が見えた。フェリオットは、それが誰であるのかすぐに理解した。
「エリス」
呼びかける。返事はない。だが、彼女の瞳は、真っすぐにフェリオットに向けられていた。
「その、お前が頼んで助けてくれたんだな……ありがとう。感謝している」
途端、フェリオットの心に暗い影が渦巻く。彼は落胆したように近くの椅子に座り、目を伏せた。
「でも、俺はこれからどうすればいいんだ? 俺は今まで、セレアの弔いの為に戦ってきた。俺自身の罪の為に戦ってきた。ゲオルグを殺す為に戦ってきた。でもセレアは生きていて、ゲオルグと共に魔族の為に戦っている」
エリスはそっと、フェリオットに近づいた。
「俺に残されたものは、罪だけなんだ。五年前に犯した罪科。罪はそれ相応の罰でしか償うことは出来ない……そして、その罰とは死だったんだ。セレアも俺を殺したがっていた。俺は――死ぬべき人間なんだ」
途端、フェリオットは意志に反して立ち上がった。いや、引っ張られたのだ。屈強な兵士であるフェリオットがエリスに胸倉を掴まれていた。
驚くのもつかの間、エリスはフェリオットに思い切り平手打ちを放った。首が絞められた後だけあってか、とてつもなく、痛かった。
「……死んでもいい人間なんて、居るわけないじゃない」
そこに居たのは、五年前に存在し失われたはずの、フェリオットの良く知る、快活で朗らかな幼馴染の姿だった。
「いい? フェリオット。人間は罪を背負い続ける生き物なの。生きている限り、動物は殺すし、他人に迷惑だってかける。生きることそのものが罪なのよ――――待って。なおさら死ぬしかないとでも思った? 違うわ。死は全てを勝手に清算して、うやむやにしてしまうの。何故なら死は不明だから。得体のしれない場所にわざわざ向かうことが罪の償いになる? 人々は罪人を死の中に葬ることで罪そのものを見ないふりしてきたの。その方が楽で、手っ取り早いから。兵士じゃない私には分からないけど……たとえ人殺しだとしてもその者は死すべきではないと思う、無責任な言葉だけどね」
するとエリスは手を離した。彼女の快活さはそのままに、しかし悲しみに沈んだ表情を浮かべた。
「私にも罪がある」
悲しみの中で、彼女は告げる。
「ねぇフェリオット。私、魔族なの。そして属性は時間。私には未来も過去も、全て“今”に存在していると同じ、つまり未来が見えるの。……私は先天的な魔族だから、五年前に力を使えば、こんな事にならずに済んだかもしれない」
エリスの声が震え出した。涙こそは流さないものの、今にも嗚咽を上げんばかりで、とても哀れだった。
「でもね、フェリオット……未来が見えるって、とても怖い事なのよ。なぜなら未来は無限だから。無限の中に、私の意識が消えていきそうになるの。私は怖かった。あの時セレアちゃんどころか、街の皆だって救えたかもしれないのに、恐れてしまった……これが、私の罪。私の悔恨」
彼女は背を向け、フェリオットの前を去った。広間の出口に向かい、ノブに手をかける。すると足取りが止まった。
「クレイグさんは首都を攻めるつもりよ。あの人にはあの人の戦いがあるから」
「……そうか」
「私は行くよ。行ってセレアちゃんに会わなきゃいけない。フェリオットはどうするの?」
答えを待たずに、エリスは部屋を後にした。
エリスが出てから間もないうちに、クレイグが入ってきた。どこか含みのある表情。どうやらフェリオット達の過去は、エリスから聞いていたらしい。
「もし、貴様が望むなら、ウェールに住んで暮らすのも良いだろう。その為の住処と仕事も与えてやってもいい」
クレイグは淡々と言葉を紡いだ。そこにはいつもの傲慢さも、達観した物言いもない。
「私が言うのも馬鹿げているがな、戦争はこの世で最も恐ろしい行為だ。だからそこから目を背けるのは何も悪い事ではない。そういった者を何人も見てきた」
――逡巡する。仮初の安寧で過ごす自身の未来を。
クレイグはウェールの中でそれなりの影響力を持っているだろう。だから家も仕事も、問題なく与えられるに違いない。そこでまた新しい人間と出会い、未来を築いていく。それはきっと、エリスが言ったような、死以外の、これまで自分が犯してきた罪に対する償いになるかもしれない。
だがエリスは言った。自分にも罪はある。そして、セレアに会いに行くと。
彼女は目を背けなかった。あくまで対峙し、向かっていく。その道は困難で、危険が伴うだろう。死んでしまうかもしれない。
「答えは出ない、な」
平和の中に生きようと、戦いに身を投じていようと、いずれ死ぬことに変わりない。ならば、いつか訪れる死の瞬間まで、出来ることはあるのではないか。
「けど……俺はもう一度、奴とセレアに会わなくちゃいけない」
フェリオットの瞳には、ほんの微かな輝きが宿っていた。




