覚悟。その果てに。
中に入ると、湿っぽい空気と埃が出迎え。隅には住民らしき男がぐったりした様子で佇んでいた。見るからに痩せ細っていて、人間らしい気力など露さえもない。彼は突然の訪問者に驚いたようだったが、まくしたてる文句すら浮かばないらしく、黙ったまま眠るように目を閉じてしまった。
運よく反対側にも扉があった。エリスは止まることなく走り抜ける。扉はまた別の路地に繋がっていた。しかし攻撃は避けられたが、追っ手を撒いたわけではない。後先を鑑みないエリスの行動に、ラティエスは狼狽するほかなかった。
「エリスさん! 水門に行くつもりなのですか? あそこは駄目です。普段は封鎖されています」
「……」
「街から出るには正門しかありません、が正門を抜けるのは困難でしょう。万事休すです。どうか私を捨て石に、貴女だけでも……」
「少し……黙ってて」
今となっては亡国の主なのかもしれない。しかし、王族である気位は多少なりとも弁えていたラティエスにとって、この物言いは、肩に担がれる以上に礼を失するものであった。だが、咎めない。
なぜなら、一瞬だけ垣間見えたエリスの顔は、余人が立ち入ることさえ許さない、より深い内側を見ていたからだ。ラティエスはそれが、息を飲むほど張り詰めていて、畏れ多く思われた。
「集中が……切れてしまう」
ラティエスは黙った。エリスはなおも北東に向かっていて、その間幾度か魔法が飛んできたが、なんとか当たらずに済んだ。
「左には……待ち伏せが二人……右なら……遠回りか」
エリスの瞳は未だ現実を捉えぬまま。
「後ろには……三人、いや……陰に二人隠れている……」
だが彼女は、“真実”ともいうべきただ一つの事物を捉えていた。
めくるめく追っ手共の攻撃を避け、一度も袋小路に入らずに――即ち、何の造作もなく水門にたどり着くことができた。後ろを見やれば、既に追っ手の姿さえもない。一時の静寂が流れ、安らぎの空気が胸に満ちたが、ラティエスの内側に陰る暗闇が晴れることはなかった。
「門が……」
胸中の影を晴れることはないが、眼前に広がる光景に声を上げずにはいられない。ラティエスは突然、馬から降りてしまった。
北側の川を引き、せき止めていたはずの水門は見るも無残な有様だった。氾濫したかのように激しく水が流れ、まさに堰を切っていた。
「木っ端微塵ですね。魔族達が街に入るときに空けたのでしょう」
「街が……水没してしまう」
悲しげに、ラティエスが言った。虚ろな瞳を浮かべ、ふらふらと夢心地に陥っているようだった。
「早く……」行きましょう、と言いかけたが言い淀んでしまった。ラティエスの瞳には幾筋もの雫が、さながら眼前の水流の如く、流れていたのだ。
その痛みを、エリスは知っている。その傷が癒えないことも、エリスは知っている。そして、彼女が今必要としているものが“時間”であることも。
天啓――稲妻が体中を巡り、目にはまた別の真実が映し出される。世界の可能性。無数に存在する、起こりえる事象の内の一つが、顕現する。
「陛下! 早く乗ってください……」
飛来。途端、世界が回る。馬の嘶きが響き渡り、赤い飛沫が四散する。
土煙が舞い、風が吹き荒ぶ。エリスは落馬していた。背中を打ちつけた痛みに錯乱しながらも、視界には弓を携えた少年の姿をしっかりと映していた。
「アラク……」
幾度も印象付けられた青紫の髪。人を食ったような佇まい。だが今の彼には、これまでに見られた歳不相応の鷹揚な態度は姿を隠していた。彼はどこか疲れていて、肩で息をしていた。
「やっと、見つけた……随分翻弄してくれたようけど……馬がなければこっちのものさ。待ってろ……魔素が戻ったら、すぐに殺してやる」
倒れたまま、辺りを見やる。すると後ろには、馬が血を流し、苦しそうに呼吸を荒げながら横たわっているのが見えた。
「けどまぁ、最後にチャンスをあげないでもない。僕らの仲間になり、共に魔族の為の世界を作るか、ここで死ぬか。どちらにせよ、そこの女王様を生かすつもりはないけどね」
アラクの鋭い瞳は、いつかエリスが何度も見出した人殺しの色を帯びていた。ラティエスもそれを感じ取ったようで、恐怖の為に小さく体を震わせていた。
すると、エリスはゆっくり立ち上がり、装いの汚れさえも厭わずに、少年の虚無の瞳と正面から向き合った。
「そう、ね。それしか選択肢がないのなら、あなた達の仲間になるのも悪くないかもしれない。私だって死ぬのは嫌だし、魔族への差別にもうんざりしてる」
「なら話は早――」
「でも、勘違いしないで。差別に辟易したからといって、その為に人を殺そうとは思わない。あなたたちの言う魔族の為の世界なんて、結局は立場が変わるだけで、本質的には何も変わらないわ。あなたは死人を甦らせることが出来る? 何かを変えたいのなら、人の生命をいたずらに弄んではいけない。五年前に……あなたたちがしたようにね」
エリスは言葉を紡ぐたび、自身の中に根ざしていた暗い影のようなものが次々と晴れていくのを感じた。同時に、遠い過去の輝かしい記憶や思い出が、如実に浮かび上がり、心を毒していた暗い影の代わりにしっかりと根を張った。エリスの心はこれらに満たされていった。
「そうかい。わかったよ」
淡々とした言葉と共に、鏃がつがわれ、弓が軋みを上げた。ラティエスがぐっとこらえるように、何かを覚悟したかのように、息を飲む。反面、エリスはどこかに虚空を見つめていて、目前に迫る暴力には一切の関心も向けていなかった。
『馬鹿め……』仲間になれば、死なずに済んだだろうに。そう、アラクは心の中で毒づいた。
己の弓を、またもや同胞の血で穢すことになろうとは、思いもしなかった。だが、彼女は同胞であっても同志ではない。同じ種であろうとも、結局は他人なのだ。目的の為には、同族の屍さえも踏みにじらねばならない時もある。
しかし、そう頭に納得させようとしても、彼の心には強い同族意識が付いて離れなかった。
「しくじった、かな」
ひゅん、と、小気味よい音色の後に、アラクの右腕に矢が突き刺さった。筋繊維がばちばちと裂かれ、骨は少しだけ砕ける。苦痛は喉さえも虜にし、声を上げる暇さえ与えない。アラクの弓は手を離れ、上手く放たれなかった矢は力なく地に落ちた。
「やはりその弓と矢。私と同じ東国の出のようね」
どこからともなく、輪郭のない声が囁かれた。だが、声の主の姿はない。遠くに居るのだろうか。だとするならば囁き声が聞こえるはずもない。
エリスはこの声に聞き覚えがあり、この不可思議にも覚えがあった。声の主はテナ・レンティウム。姿なき従者。存在しない魔族の少女。
「そういう君は分かりやすいね。矢の形を見れば一目瞭然だし、使ってる弦も他にはない音色を持っていた……その加工法を知る者は多くない」
アラクは言いながら、ゆっくりと、その痛みを確かめるかのように、矢を抜き取った。血が滴るのを厭わぬまま弓を拾い上げる。弓がしたたる鮮血で染め上がった。
風が吹いている。ごうごうと枯れた街路樹がざわめき、せせらぎが激しくなる。すると、テナが姿を現した。アラクに立ちはだかるかのように、後背をエリス達に見せている。彼女もまたアラクと同じように、小さな体躯に見合わぬ長弓を携えていた。
「テナさん」
エリスが呼びかける。テナは振り向くことはしなかったが、肩が少しだけ動いた。
「ここは頼みます」
言うや、テナはまた姿を消した。臆することなかれ、彼女の目は全てを捉えている。エリスは漠然とながら、そう感じた。事実、アラクも下手に動かず、辺りを目配せしている。エリス達の追跡は諦めたようだ。
倒れている馬へ駆け寄る。馬は腿を射られていて、痛みに苦しみ悶えていた。エリスが寄り添うと、馬は至って健常そうに振る舞い、自力で立ち上がった。大した傷ではない、と切れ長の瞳が語っていた。
「まだ行けそう?」
優しく問いかけ、たてがみをゆっくり撫でる。馬は苦しそうだったが、凛々しく嘶き応じた。
朗らかに微笑する。鞍に手をかけ、ラティエスを乗せる。その時、鞍の端に小さな文字が彫られているのを見出した。どうやら、彼の名前らしい。
「レイヴィス……あなたの名前ね」
馬の――彼の目を見つめる。強く、抗しがたい意志が、瞳の奥深くに表れていた。己の死地はここであると、レイヴィスは語っていた。




