安らぎ。終焉。
皇帝軍が退去し、野営地には捕虜だった者達だけが残されていた。兵士は消え、この土地は軍隊という頑なな楔から解放されたかに思われたが、直ぐにまた、別の兵士達が彼らを取り込んでしまった。
捕虜達は敵からの自由と、同胞との再会に心を躍らせた。面識のあった者同士は互いの無事に涙し、死別してしまった人を想い、また涙するのだった。
「エリス!」
捕虜と兵士が入り乱れる中、ひと際、歓喜に満ち溢れた呼び声がした。人ごみの中からエリスはフェリオットの姿を見出す。
三度、遠く離れてしまったはずの幼馴染が、今は目の前に居るのだ。エリスもまた喜びに心を震わせた。だが、陽光に満たされた胸の内には、どこか暗い空虚な陰が見え隠れしていた。
「無事、だったんだね」
努めて明るく振る舞い、この暗い陰がフェリオットに悟られぬよう気を配った。おかげで彼は気づかずに済み、エリスはほっとしたが、それでもこの陰は彼女を苛むことを止めなかった。
「ああ、何とか帰ってこれたよ。これも連隊の皆のおかげだ。あいつらは家族同然だよ!」
「そう、ね。フェリオットが無事で、本当に良かった」
すると、遠く彼方から、フェリオットを呼ぶ声が聞こえた。レイミアの声である。フェリオットは応じると、雑踏の中から少女が現れた。
エリスは、自身より歳の短いレイミアが、兵士としてフェリオットに仕えている事を、何故だか訝しんでしまった。
「王を見つけました! ご健在です!」
「よし、そうか! 直ぐに会いに行こう。今度こそ、王の安全は守ると約束しなくてはな!」
フェリオットが言うと、エリスに別れを告げ、レイミアを連れて去っていこうとした。すると、エリスは思わず呼び止めてしまった。
「あ、あの……さ」
何故呼び止めてしまったのか。理由は分かっている。だが、これを問いてしまえば……虐殺について問いてしまえば、かねてから感じていた隔たりが、ついに確固なものとなってしまうという予感が付いて離れなかった。
エリスは言葉に詰まり、立ち尽くしてしまった。
そんな彼女に、フェリオットは何を思ったのか。エリスの肩に優しく手を乗せ、二度叩いた。
「なぁエリス。俺は――俺達はここまでの事が出来るようになった。もうあの時みたいに、逃げ惑うこともない。自分の意志で、進む道を選び取る……それだけの力が備わったんだ」
「ここまでの事……ね」
小さく呟いた声は、彼に届くことは無い。
「俺はこれから王を連れて、首都まで護送する。見捨てておめおめと逃げた将軍共には絶対に譲らない。俺はこれで、もっと強い力を手にするんだ。もう二度と、奴には負けない力を」
口ぶりからは認識し難いが、フェリオットは有頂天になっていた。何人もの命を屠り、さらに王という絶対的な存在までもが、自らの手中にて握られているのである。それは、自戒して見せても、他者からは容易に読み取れる程だった。
「フェリオット……私、これから荷物まとめるから。また今度ね」
エリスは別れを切り出し、返事も待たずにすたすたと歩き去った。
彼女の心の隠し方は巧妙で、フェリオットはエリスの中に巣食っていた暗い陰など幾ばくも感じていなかった。エリスは忙しいのだろう。そう納得し、レイミアと野営地の東へ歩いた。
「どんな……人なんですか?」
「え? さっきのエリスの事か?」
途中、レイミアが問いかけた。彼女はどこか不安そうに瞳を曇らせ、身を縮こまらせて、フェリオットを見上げていた。不意に、彼の目にはそれが愛らしい仕草として映り、少し動揺してしまった。
「別に、ただの幼馴染だけど……なんかあるのか?」
「い、いえ……ただ、初めて会ったはずなのにどうもそうじゃないような……不思議な感覚です。でも、明確ではありませんが、エリスさんと私には、何故だか繋がりが感じられました」
「なんだよ、それ。レイミアは首都近くの出身なんだろ? 俺達は……その真反対だ。それにお前、軍に入るまで家を離れたことないらしいじゃないか。会ってるはずないさ」
野営地の東門を抜け、戦いの痕跡が未だ残された荒地を往く。山脈の傍に根付いた枯れ木の森近くに、木造の小さな建物が見えた。敵に知られぬよう隠匿された食糧庫である。
近づき、扉に手をかける。木の擦れ合う耳障りな音が響いた。野営地の建造物は急造で、特に扉の立て付けは非常に悪かった。
少し力を込めて扉をこじ開ける。冷たい風が中から流れると共に、果実と麦の芳しい匂いが二人を包んだ。
その中で、黄金の髪を見出す。緑衣のロープを身に着け、髪の間から垣間見えたうなじはとても白く、美しかった。
「陛下」
呼びかける、と深緑の装いが翻り、仰ぎ見る事さえ許さぬ、王の御顔と、瞳が現れた。
「貴方は……どなたでしょう?」
ラティエスの問いに、すかさず跪く。
「俺――私は、一介の兵士です。本来私など、貴方様の御目に映るべき身分ではないかもしれません。ですが王よ、貴方様の命運は、我々のような兵士に懸かっているのです。どうか私と共にいらしてください」
「――そう。クレイグさんの次は、貴方達なのね。いいでしょう、どうぞ私の身はお好きに」
体は屈めたまま、少しだけ視線を上げる。映ったラティエス王の姿は、ひどく幻想的で、触れれば脆く崩れ去ってしまいそうな儚さが顕在していた。
「ウェールの総司令官とお知り合いなので?」
「その様子だと、貴方もお会いしたようね? 彼、面白い人でしょう?」
「……我々兵士にとっては、憎むべき相手です。仲間を何人も殺されておりますので」
「そうね……確かに、貴方達にはクレイグさんを憎んでもよい権利がある。でも、彼は彼なりに考えてることがあると思うの。彼はどこか――貴方と同じ、何かを失った瞳をしているわ」
フェリオットは息を飲んだ。彼は顔も、思考も、すべてが呆然として、時が止まってしまった。まるで心の内の全てが暴かれるかのよう。
実際、ラティエスにはフェリオットの過去も、クレイグの過去も知る由は無い。彼女はただ漠然とした感覚で、フェリオットとクレイグの間を繋ぐ、共通項を見出したのだった。
フェリオットは耐えかねて、露呈した心の弱みを覆い隠すように、言葉を紡いだ。
「明日朝にはここを出発いたします故、今日はゆっくりお休みください。私は他に用がありますので失礼させていただきますが、後で迎えを出します」
「いえ、大丈夫よ。ここには思い入れがありますの……まさかあのお方にお会いできるとは、夢にも思いませんでしたわ」
ラティエスは呟きながら、楽しげにくるくると回りだした。しなやかなロープが快活に舞い、閑散とした食糧庫は、一転して王室の舞踏場になった。
「あの街に……帰るのね。恐ろしき、我が故郷へ……」
食糧庫を出る。外にはレイミアが待っていた。彼女は王と対面するなど畏れ多いということで、中までは同行しなかったのだ。
「フェリオットさん? どうしたんですか?」
「ん……何だ。何も言ってないぞ」
「暗い顔をしています。王とどんな話をされたんですか?」
察しの良い部下である。しかしフェリオットは己の過去について吐露する気にはなれない。
「大したことは話してない。さっさと行くぞ。明日にはここを退去するんだ。物資は全て運ばねばならない。今日は大仕事だぞ」
すると、遠く野営地の方角から、青年が一人歩いてきた。フェリオットはその佇まいから、直ぐに素性を見て取った。
「エルティス、どうしたんだ?」
悪友が一人。彼は先の戦いでは見なかったが、運良く生き延びたそうだ。大佐が死に、フェリオットに指揮権が移ったことをねたんでいるのは、言うまでもない。
「お前を探しに来てやったんだよ。皆が待ってるぜ、連隊長さん」
「いちいち言わんでもいい。それに正式には連隊長じゃないぞ。あくまで臨時だ。首都に戻ったら、別の誰かが連隊を指揮するだろう」
無論、フェリオットはそれをよしとするつもりはないが。彼の見せかけの言葉に、エルティスはかぶりを振った。
「馬鹿か。人が人に付き従うのは、役職とか、命令系統で定めれれてるからとか、そんな理由じゃないさ。皆、お前の腕に惚れ込んでるんだよ。そこの嬢ちゃんもな。だから命令に従う、お前の指示で命を投げ捨てる。悔しいがな、カリスマ性ってやつだよ。そう……本当に心を動かされたものの為じゃなきゃあ生き辛いってもんよ」
「エルティス?」
普段では全く見られない、ひどく大人びた、達観した言葉だった。いつもの彼の言葉は、空虚で、まるで真実味を感じさせない無意味なものだったが、今の言葉には彼の奥底に秘められた何かが少しだけ見えていた。
「何でもない。早く戻るぞ。連隊長」
「だから言うなって!」
レイミアの笑い声が聞こえ、彼女の顔を見やった。暫く戦いとは無縁になる。それが嬉しくて、真に幸福なのだろう。彼女の笑顔は、今までに無い、かけがえのないもののように、フェリオットには思われたのだった。




