邂逅
フェリオットは常備していた小さなナイフを用い、蹄鉄を固定する釘を一本一本外していった。
全てを外し終えると、馬は喜んだように高く鳴いた。だが、馬はそそくさと離れていき、怯えたような鳴き声を上げた。
……近くの茂みがざわめく。
別段、気にすることでも無い。風が吹けば草木は嘆くものである。
「これ、もう使えないしな」
さながら子供の遊戯のように、もはや鉄屑となった蹄鉄を投げる。
くるくる回りながら宙を舞い、茂みに入り込むと――ぶつかったような鈍い音が聞こえた。
瞬間、鞘に手をかけ剣を抜き去り、茂みに向かって吶喊する。
茂みから人が現れた。顔は布で隠されていて目元しか見えない。
剣を振るうべきか、留まるべきか、素性が知れなかったので判断が渋られた。
だが、この者の手元で、鈍い輝きが煌めくのを、フェリオットは見逃さなかった。
咄嗟に身を引く。フェリオットは手に冷ややかな何かが過るのを感じた。
左手の甲を斬られたのだ。傷は浅いものの、溢れ出る生暖かい血液が、拭い難い嫌悪感をもたらした。
「……」
さながら暗殺者とでも言うべきか。洗練された、機能性が重視された服。防具は無く、フードを被り、まるで人間味を感じさせない。
敵は二本のダガーを構えていた。
取り回しが良く、優れた者ならば一撃で急所を突くことが出来る。小さいので隠匿性が高く、要人の暗殺に用いられる事が多い。
暗殺者のダガーは、視認し難いよう刀身が黒塗りにされていた。月明かりすら遮られる森の中は、敵にとって絶好の環境だった。
だが、如何に見えぬ武器と言えども、フェリオットのフランベルジュとは威力も射程も段違いに低い。
真っ当な勝負をすればフェリオットの勝利は確実。暗殺者は奇襲によって確実に仕留めなければならなかった。
『あの蹄鉄のおかげだな……』
愚かな装蹄師に、皮肉にもならない感謝を述べる。そして、フェリオットは臆する事なく踏み込み、左逆袈裟に斬りかかった。
暗殺者は右手のダガーを逆手に持ち替えた。防御するつもりなのだろう。
しかし、短剣程度の防御など、フランベルジュの前では無力。全力を以って得物を弾き飛ばし、手首を切り落とす――!
……不意に、耳鳴りがした。
一瞬だが耳を聾する音。フェリオットは煩わしく思いつつも、攻撃の手は緩めない。
――だが、炎の如く揺らめく刀身は、黒塗りの暗器とぶつかり、軋みを上げてせめぎ合った。
『な……』
ダガーを弾くことは出来なかった。むしろその逆で、フェリオットは自身の関節が外れんばかりの反発を被った。
あまりに異常。あまりに凄絶。彼我の筋力における優劣、などという条理に適う話ではない。
「あっ――」
思わず悲鳴に近い声を上げる。同時に、後方へと身を引いた。
最早第六感と言っても過言ではない回避行動。他方のダガーが首元に振るわれたのだ。
「ちっ!」
苛立ちと焦りを帯びた舌打ちをする。フェリオットは信じたく無かったが、今の打ち合いで劣勢は明らかとなった。
フランベルジュを防御してから攻撃までの遅延が皆無に等しい。優れた反射神経を有しているのか、防御の失敗を恐れずに、攻撃と同時に行ったのか。
何れにせよ、力においても、技術においても、敵は一枚どころか数段上手だった。
すると、またもや左手に煩わしい痛みを覚えた。目を向けると、肘の側で薄く細い亀裂が走り、覆い隠された赤色が姿を現していた。
二度目の負傷。首元の一撃を避けた瞬間か、そもそも防がれた時か。敵は視界の中にありながらも、認識の外から攻撃をする――盲点を突いてきたのだった。
するとフェリオットは傷を開かせない為か、力の差がより顕著になるにも関わらず、剣を両手でなく片手で構えた。
無謀かつ無防備。圧倒的な優勢という餌を前に、敵が飛びつかぬはずも無い。
――だが、極上の餌には残虐な罠が付きものである。
影の中を往くダガー。暗殺者は至近まで一気に距離を詰め、フェリオットの急所二点を寸分違わず狙った。
――暗殺者は思考する。
先ずは首筋。右手のダガーがもたらすは頸動脈切断による大量出血。
転じて心臓。左のダガーが生命の核を貫き、運搬機能を停止させることで精神をも容易く霧散させる。
前者は不可能。フランベルジュに防がれる。
後者は必中。敵の得物はただ一つのみ。故に、防ぐことは不可能――!
揺らめく刀身が一つを弾き、もう一つがフェリオットの脆い体を貫いて……
「――!」
割れる音。驚愕に染まった瞳が、虚しく舞う己が武器の最期を見送った。
右のダガーが砕かれたのだ。
そして、二手目が胸を突くことは無かった。暗殺者が振るった左のダガーはフェリオットに取って代わられた。
暗殺者は驚いた様子だったが、努めて優雅に身を翻らせ、フェリオットから離れた。
そして暗殺者は見る。フェリオットの傷ついた左手に現れた新たな武器を。
一見すれば平凡な刺剣。ぎざぎざした不揃いの刀身。その周囲に歪な形をした、二本の飾りとも言えない鋼鉄が、何らかの特異な機能を有している事を悟らせた。
フェリオットはこの間に、一時の余裕を見た。
「お前の目的は何だ? 誰かに差し向けられたのか? 教えてくれれば見逃してやる」
「……」
返答は無い。当然である。それはフェリオットも分かっていた。
会話をしながら、フェリオットは常に隙を伺っていた。敵は既に、“左手の武器”の恐ろしさを知っている。
暗殺者は攻めあぐねている。今度はこちらが仕掛け時だ。
「お前、魔族だろ?」
「!――」
反転。暗殺者は一時の内に駆け抜け、フェリオットの目前に迫った。瞬きさえも鈍重に思える一瞬である。
小さな身に能わぬ、異常な筋力。およそ人間技とは思えない俊敏性。結論として、暗殺者が魔族である事は自明だった。
また、敵は魔族という言葉に呼応するかのように攻撃を繰り出してきた。
魔族とは、迫害されし種。種と言う概念は、生を受けた瞬間より課せられる不条理である。自身が望もうとも望まなくとも、親が魔族であるならば、子も魔族なのだ。
故に自己嫌悪。己が運命を呪い、魔族である自分を否定する。中には己が種を誇りとする者も居るが――暗殺者の場合は違った。
感情に任せた一撃。理性のたがが外され、尋常ならざる力が発される。
しかし肉は絶たれず、代わりに金属音。
黒塗りの刀身はフェリオットの顔面を捉えていた。急所を狙おうという的確な判断力は最早、暗殺者の中には無い。
右手のフランベルジュの切っ先を下に向け、腕を回し、左に振りぬく。
いとも容易くダガーはいなされた。右手の陰から垣間見えるフェリオットの眼光が、恐ろしくも輝く。
力を失した短剣を前に、フェリオットの第二の武器が牙をむく。
ぎざぎざとした悍ましい刀身が、短剣を絡めとり、てこの要領で黒い鋼鉄を砕いた。
爪を削がれた獣は、己が無力さに絶望する。そして、力を失った獣は狩られる運命にあった。
だが、フェリオットは殺さない。その時の彼には、彼自身も知らぬ、在りし日の父の姿が宿っていた。
ダガーを砕くと同時に、フェリオットは全ての武器を地に落とした。
そのまま敵の右手を引き、胸倉に掴みかかって背負い投げをかけた。流れるような鮮やかなる体術である。
――フォルティスには体系化された武術がいくつか存在するが、彼が扱う武術は、最も古い『ラピスト古典武術』と呼ばれるものである。
ラピストとは人の名前らしいが、この人物の詳しい記述は伝わっていない。
剣術は短剣や長剣。槍術は無刃の棒から両刃の槍まで。体術こそは、それを専門とする流派には遠く及ばないものの、無手における柔術は負けず劣らずである――
暗殺者の身体は軽かった。むしろ軽すぎるくらいで、フェリオットはこんな者が己に肉薄したのかと思うと、途端に背筋が冷えていくのを感じた。
地面に叩き付ける。暗殺者は悲痛な声を上げた。その音色は、美しい管楽器のように甲高かった。
拍子に、フードがはだける。現れたのは艶やかな麗しい純白の長髪を携えた少女だった。背中から押さえつけていたので、顔はよく見えない。
少女とはいえ、魔族の力は侮れない。
だが、彼女は酷い暴れようだったのだが、剣を打ち合った時に感じた、魔族の異常な力の胎動は無く、憐れな少女が虚しくも、だだをこねているようにしか見えなかった。
「教えろ! お前は何故ここに――」
「お前の方こそ、何故ここに居る?」
後ろを向く。そこには、フェリオットが幼き日に捧げた一つの罪科が、禍々しくも体現していた。
月明かりに照らされ、彼我の間を別つように、明暗がはっきりとしている。
白髪の青年だ。五年前とは服装が違えど、脳裏に遺された鮮烈な記憶が、フェリオットの精神と、肉体とに強い闘争心を駆り立てた。
『ああ。やっとだ』
フェリオットは笑っていた。




