罪の在処
外はすっかり暗くなっていた。
身がすくむ程の冷たい風が吹き荒び、小さな星々が荒野を見下ろし、世界を明るく照らしていた。
野営地の通りを進んでいくと、ウェールの兵士達が道の脇でたむろしていて、家屋に背を預けたり、荷物の詰まった行李に座りこんだりしていた。
彼らの多くはどこから持ち出したのか、酒を飲んでいた。静けさが支配していた夜道に、耳障りな煩わしい叫び声や笑い声が響く。
エリスは努めて目を伏せて、目立たぬように歩いていた。
しかし戦場では場違いの、優雅な修道服を見事に着込んだ若い娘の姿を、兵達が見逃すはずも無かった。
「おいおい、なんだぁ? あの娘っ子は?」
ろれつの回らない、野蛮な呼び声。エリスは無視し、歩く足を速めた。
「ルメニア会の修道女様だ! 一人で歩いてるよ。可愛い顔してるなぁ」
「あんまり大声出すなって……聞こえちまうだろ」
「別にいいじゃねぇか! お前だってお近づきになりたいんだろ? 何だったら俺が話しかけてやるよ」
エリスは自身の耳が思いの他良い事を、喜ぶべきか、悲しむべきか考えたが、取るに足らない煩悶であったので溜め息と共に吐き出した。
「そこの修道女様。一体どちらへ向かわれるのですかな? よろしければお供させてくださいまし」
乱雑かつ酒酔いで息巻いた男の物言いは、如何な美辞麗句で取り繕うとも、雅さの欠片も感じられなかった。
エリスは毅然とした様子で、言いながら近寄ってきた男に目も合わせず、無言のまま先へと急いだ。
しかし男は諦めることはせず、去りゆくエリスを追い続けた。彼の仲間の笑い声が聞こえる。
「なぁ、無視しないで待ってくれよぉ。神の前に万人は等しいんじゃないのかよぅ」
エリスの中で。
「そうかそうか! 結局お前らの言う神なんて、自分達の都合に合わせていくらでも変わるものなのだな!」
冷めやらぬ感情が。
「こりゃまた失敬致しました。何分私共は貴国の宗教に無学なものでしてね。どうかお許しください。そのお詫びと言っては何ですがね、私共と一緒に――」
爆発する。
男の多弁で雄弁な失礼極まりない物言いは、弁舌に長じた弁論家であっても感心すべしものだった。
尚且つ酒酔い。殊に凶暴性が助長され理性が不安定なこの状態は、この男と真っ当に弁舌をもって対峙するのは無謀であった。
一度、深呼吸。
翻る修道服。外れるフード。瞬間、男のみぞおちに繰り出される痛烈な肘打ち。
たとい精鋭の皇帝軍兵士と言えども、酩酊状態であった彼に、かわす術など無かった。
「ぐふっ!」
苦痛の声。不意の一撃被った男は、そのまま地に伏してしまった。
遠くで眺めていた男の仲間は、何らかの異常を悟り、強張った表情で駆け寄ってきた。
エリスは動かなかった。すると、数人の屈強な兵士達が瞬く間に囲い込み、自身の仲間がこの可憐な少女に打ち倒された事を信じられないながらも、軍隊という組織の中で芽生え、外敵を排する時にのみ起こる、あの強い連帯感と攻撃性を発露させた。
「貴様ァ! 我等を何者と心得るか。誉れ高きベルムハルト皇帝の勅命を受けた身であるぞ!」
男の一人が怒り狂ったように詰め寄る。どうやら多少の学があるようで、この男からは他の男には無い気品が感じられた。
「即ち、我等への反逆は皇帝陛下への反逆。我等への暴行は皇帝陛下への暴行である。貴様の取った行動は糾弾されるべきものであって――」
しかしこの男の言は冗漫で、理解し難いものであった。言葉の無意味な羅列は、聞く者を圧倒させはしても、深い感慨をもたらすことは万に一つもないのである。『少数の論理で良い場合は多数の論理を立ててはいけない』
エリスは黙したまま。そんな無意味な雑音をただ聞き流していた。
するとエリスに倒された男がおもむろに立ち上がった。みぞおちへの一撃は強烈で、耐え難い痛みを残すが、時間を要すれば容易に引いていくものだった。
「……」
彼はそのまま、他の者達にも先駆けてエリスの胸倉を掴みかかった。
男は怒り狂うかに思われたが、意外にも無言だった。同時に表情は無機質で、外面からは彼の心情を知る由も無かった。
エリスはこの男に付きまとわれた時も、冗漫な男に詰め寄られた時も、今この瞬間に胸倉を掴まれている事も、恐怖だけはしなかった。
恐れは力を奪い、意志を弱らせる……エリスは未知の兵器の時と同じように、毅然とした面持ちで男と対峙した。
「……」
男は未だ無言を貫き続けた。少女に掴みかかったまま動かなくなった彼を見て、仲間達は反応に困窮してしまった。
すると、男は突然目を見開き、エリスを突き飛ばした。
打って変わった男の行動に、エリスにはつい先程の息の詰まるような沈黙など、一切無かったかのように思われてしまった。
背中に冷ややかなものを感じる。それは凍った地面なのか、己の汗なのか、判別できない。
「おいおいおい! 何してやがる!」
誰かの緊迫した声が上がる。すると、エリスは自身を突き飛ばした男が、なにやら慇懃な様子で、腰の剣に手をかけているのを見た。
「こんなガキの相手をする事はねぇ。なぁ、さっさと行こうぜ……」
男の仲間が必死に取り成す。しかし、彼が止まる事は無かった。
抜き放たれる刀身。鞘が擦れる音。軋みを上げる柄。男の一連の動作は、洗練されていて無駄がなかった。
すると、不意に男の瞳が目に入った。
無機質な瞳。何色も浮かべない、無色な眼。機械仕掛けの殺人者のみが見せる、加虐に満ちた瞳だった。
その時、エリスは恐怖してしまった。避けられない事だった。
エリスの決意は未知の存在に対するものだ。しかし、彼女は知っている。
五年前――在りし日の少年と合流する前に遭遇した。“あの男”の瞳だ。
エリスは声を上げる事すら出来なかった。過る既視感と目前に顕在する恐怖によって、正常な判断など望むべくもない。
「あ――」
恐れは畏れに変わる。
やっとの思いで絞り出した声はかくも細く。エリスはただ、降りかかる己への暴力を“罰”と捉え、全てを諦観し、目を閉じた。
――されど、贖罪の時は来れり。




