静かな変調
「全体、撃ち方止め」
すると耳をつんざく音の隙間を縫うかのように、男の低い声が囁かれ、それは他の人々によって至る所に伝えられていった。
光が止んだ。そこで、エリスはようやく見出した。
彼らの手に握られている物。それは木製なのか。茶色をしていて、槍のように長かった。
ウェールの皇帝直轄軍は他の一般兵士と比べると、その煌びやかな軍服もさることながら、兵士としての練度も大きく上回っていた。
――ウェールの軍制とフォルティスの軍制で大きく違うのが、徴兵制度の有無である。
ウェールは広大な領土を防衛するために、国土の端々に至るまで、市民に軍役を命ずることができる権利を、領主を兼ねた将軍達に与えられていた。
しかし、徴用された市民は元々の職業と並行して軍に参加するので、練度が低く、職業軍人が殆どを占めるフォルティスと比べ、明らかに脆弱だった。
それに対して、皇帝直轄軍。彼らは皇帝の命によって組織された、職業軍人のみによって編成された部隊だ。
彼らの能力は、フォルティスの軍にも劣らぬ、もしくは上回るもので、その存在はあらゆる人々から恐れられていた――
敵軍の奥から、白髪の男が馬にまたがって現れた。
男はエリスの目の前で馬を止めると身を降ろし、寒さが苦手なのか両手に吐息を吹きかけつつ、近づいてきた。
「あの銃火に物怖じせんとは、貴様は大した気概を持っているようだ。同時に、恐ろしいまでの運も持ち合わせている。失礼、私はウェール軍総司令官を務めるクレイグ・エテルタニスだ」
「……」
エリスは何も言わない。目の前のクレイグという男は総司令官だと言ったが、役職の割には随分若々しく見えた。
現状、エリスは自身が逃れられない事を理解していた。虜囚の身となった以上、まともに相手をすれば目を付けられ、何をされるか想像も出来ない。
目の前の者達は、五年前を引き起こした者共の片割れなのだ。反抗できないのが悔しかったが、エリスはせめてもの反抗として、さながら修道女の如く、沈黙することを決心したのだった。
クレイグは何か言葉を待っていたようであったが、返答が無い事を見て取ると、後ろの兵士達に振り返った。
「敵は全て虜囚とせよ。幾ばくの暴行も略奪も許さん。貴様等は皇帝陛下が振るう剣そのものである。刀身を錆び付かせ、汚すことの無きよう……私は貴様等を見ているぞ?」
総司令官の言葉で、一糸乱れぬ軍紀で後方に侍っていた黄金色の兵士達が、算を乱して野営地の中に散った。
クレイグはその間、黙ったままのエリスを、彼もまた何も言わず、ひどく無機質な、しかし鋭い目つきで見つめていた。
背中に汗を感じる。しかし、臆することなく無言を貫く。
すると、クレイグは無機質な瞳を動かし、エリスの肩章を見た。
「草刃の紋章……その歳でルメニア会の医師になるとは。稀代の天才か、類まれのない努力をしてきたのだろう」
クレイグはエリスを褒め称えていた。しかし、エリスは気を許さない。何故なら男の顔つきは変わらず、厳しい表情のままエリスを見ていたからだ。
クレイグは続ける。この時の声は、辺りの風が止んだかのように錯覚させるほど、暗く低かった。
「だが貴様等は愚かなことに選択を誤った。貴様には知る由も無い、遠い昔の話だよ。しかし、その血脈を寸分違わず受け継いでいる。過去から教訓を得ない貴様等に、未来を成すことは出来ない」
クレイグの言葉は、沈黙を守り、聖者の如き平穏を得ることで反抗の意志を示そうとしたエリスの心を煮えたぎらせた。
「その上で我が国に戦争を仕掛けるとは……呆れて物も言えん。貴様等はひたすらに罪を重ね、なおもそれを正義というかの如く振る舞っている。確信犯とは、正にこの事を指すのだろう」
クレイグは極めて尊大な態度で、見下すように言った。しかしこれはエリスに向けたものではなく、フォルティスという国そのものを否定していたのだ。
クレイグはそのまま何も言わず、エリスの横を通り過ぎようとした。
堤防が決壊した。
エリスの心は、烈しい炎のような怒りで満ち溢れた。その火の手は、彼女の沈黙を打ち破るには十分だった。
「貴方達が始めたことでしょう!? 五年前、貴方達の抱える魔族達が皆を殺して――何が確信犯ですか! これは真っ当な報復です。罪があるとするならば、それは貴国そのものです!」
立ち去ろうとしていたクレイグの背が止まる。
言葉を投げかけた以上、もう沈黙の殻に隠れることは出来ない。ならば、とエリスは真っ向から受けて立つことにした。
クレイグが振り向く。さっきとは段違いに暗く、恐ろしい表情を見せるかに思われたが、男は目を丸くさせ、意外にもその表情は驚きと疑念に満ちていた。
「五年前と言ったか?」
「な……まさか知らないとでも? あれほどのことを、五年も経てば忘れるというのですか?」
クレイグの表情は、未だに変わらない。しかし程なくして、彼の中で何か合点がついたようで、ほんのり笑みを浮かべると、口を開いた。
「貴様にここの案内を頼みたい。無論、報酬も用意しよう」
何とも突拍子もない内容。エリスはこれ以上関わりたくないという思いと、過去の記憶を呼び戻された怒りとで、より心を煮えたぎらせた。
「誰が貴方に協力なんか!」
「五年前の事を知りたくないのか?」
予想外の言葉に、エリスははっと息を飲む。
目の前の男は、あの日の事を知っているのだ。何もかも不明瞭で、何もかも土へと帰してしまった、あの日の事を。
エリスに葛藤の余地など無い。彼女は無言のまま、ゆっくりと頷いた。
「ならば行くとしよう」
と、クレイグは足を進め、野営地の奥へと向かう。
「あ、あの」
その背を、またもエリスが呼び止める。
「何だ?」
「私は……エリスです。エリス・シーデ。私の名です」
クレイグはエリスを見つめ、少し黙るとまた歩き出した。すかさず、エリスはその後を追った。




