初陣
フェリオットの連隊は故郷を遠く離れた荒地の、中央部にまで辿り着いていた。
野営地から出発したのは一連隊のみ。残りの二連隊は未だ野営地に駐留している。
初戦ということもあって、この連隊の兵士達は皆、出陣前は手厚くもてなされ、鋭気も士気も十分であった。
だが、彼らは精鋭ではない。むしろその逆で、フェリオットのような真っ当な訓練を受けた職業軍人は、指に数えられる程しかいなかった。
彼らの殆どは志願兵だった。フェリオットや他の職業軍人達は彼らをまとめあげ、義勇軍として組織し、指揮することを命ぜられていたのだ。
出自も装備も人により異なり、体系化された戦術も、規律も無い。
しかし、彼らは確かなもの……概念によってその組織性を繋ぎ止めていた。
それは前述したような外面的なものではない。彼らの深層、思考の奥底に存在する内面の感情。
これが、彼らを軍隊という一つの生物として、活動させていた。
ニメリア平野の中央部は、雪が長く降り続いたのか、凝り固まっていたのだろう地面は水分を含んで、泥状になっていた。
フェリオットは部隊の中列に居たので、泥は前衛の兵士達に踏み慣らされ、足がとられることは無かったが、時折、見事なまでに圧された地面があって、何度かそこで足を滑らせてしまいそうになり、苛立ちを募らせた。
しばらくすると、前方から号令が出された。フェリオットと同じ、職業軍人である将校から発せられた言葉の意味するところは、“停止”。
その命令は不可解なものだった。今回の作戦は夜襲である。あらゆる行動の迅速さが求められ、幾ばくの間違いも許されない。
小休止するにしては場所が中途半端であるし、そもそも出発前に十分な休息を得ているので、停止という行動自体異常だ。
「おい、あそこだ! 何か見えるぞ!」
停止してからというものの、部隊には気まずい静寂が漂っていたが、前方で、誰かがそれを打ち破った。
続いて、別の誰かの絶叫が響いてきた。苦痛に満ちた声音。慟哭、悲鳴。弓か弩か槍か。何らかの投射武器による攻撃を受けたのだろう。
前方から再び命令が伝えられた。“前進”と。
火蓋が切られたのだ。
ほとばしる人々の咆哮。轟く軍靴。向かう先は、屈強なるウェールの兵士達。
だが誰もが絶叫し、敵に向かって駆け抜ける中、フェリオットは一人、冷静になった。
確かに兵士の役割とは、戦うことである。一切の慈悲も持たず、恐れも抱かず、ただひたむきに敵を打倒する。
しかしそれらは効率的に行われなくてはならない。感情に支配された行動は、時としては予想以上の結果を得るが……。
“夜襲”であるはずの作戦は、既にその意味を失していた。
フェリオットの懸念をよそに、人々は水に流されるように進み、フェリオット自身もまた、目前の兵士に惹かれ、後続の兵士に促されていった。
走り始めてからほどなくして、人々の大声と共に、激しくぶつかり合う金属音がけたたましく鳴り響き、フェリオットの耳を聾した。
最前線が接敵したのだ。既に死人も出ている事だろう。中列にはまだ敵はいなかったが、フェリオットも、その周りの兵士達も、迫りくる死の予感に、思考が麻痺していった。
すると、フェリオットの目の前に居た男が、突然うめき声を上げ、その身を崩し、のしかかってきた。
フェリオットは男を、思わず受け止めた。よく見ると、男の胸には投擲用に切り詰められた短槍が突き刺さり、その切っ先からどす黒い赤を噴出させていた。
フェリオットはその光景をまじまじと見つめた。男は苦しそうに、激しく呼吸を繰り返し、視線は空の果て。彼方遠くを見つめている。程なくして、男の動悸は治まったようで、気付いた頃にはすっかりと落ち着いていた。
フェリオットは男のそんな様子に、明確な既視感を抱いていた。つい一瞬の、ほんの少し前まで。この男には、自我をも忘れさせる、強く、激しく燃えたぎる感情が、確かに存在していた。
だが、今フェリオットの手の中で眠る男は、そんな感情など全て欺瞞であったのだとでも言うかのように、冷静で、無為自然の状態だった。
その時、フェリオットはようやく己の心の内を理解した。これは五年前に何度も見たあの“死”なのだ。
斬られて、突かれて、殴られて、絞められて、焼かれて、潰されて、起こるあの“死”なのだ。
フェリオットは目を瞑り、男の身体を手放す。支えを失った男の身体は、土煙を上げて無残に地へと落ちた。
『この亡骸に意味は無い。これはただの、活動を止めてしまった肉塊なのだ』
彼は幾ばくの感傷にさえも浸らない。そんな感情は、彼の中には存在していない。視線の先には、腰の剣を抜き始めている、白い軍服を着た男が映っていた。
この男が槍を放ったのだろう。しかし、そんな事はフェリオットにとって特に重要なことではなかった。
前方は、純白のウェールの軍服と、紅のフォルティスの軍服が、一つの絵画のように入り混じっていた。月明かりに照らされた剣が、槍が、鎧が、煩わしいまでにきらきらと輝く。
男が剣を抜き、雄たけびを上げて、突進してきた。フェリオットは距離を目算で測ると、腰を落とし、身構えた。
フェリオットは武器を抜かなかった。男は、そんな奇異な様子を、疑念に思ったが、突進を止めさせるほどの感情では無かった。
身を投げつけるように走りながら、上げた腕を振り下ろす。男には、フェリオットが最期まで身構えたままに見えた。
だが、男の剣がその目的を達することは無かった。
圧倒的な力量を以って振り下ろされた剣は、反対の、打ち上げる力によって阻まれた。
男は何をされたのか、理解できなかった。振り下ろしたはずの腕が、跳ね上がって――飛ばされたのだ。
自身の意識下にあったはずの己の右腕が、宙を舞い、真逆に捻じれていく。逃れようのない激しい痛みを感じ、その時、男はようやく、自身が斬られたことを理解した。途端、恐怖が全身を支配し、足から力が抜けていき、尻餅をついた。
すっかり露わになった肩口は、まるで引き千切ったような、歪な傷口を形成していた。これは通常の剣であるならば付くはずのない傷である。そもそも腕を斬り落とすなどという凄まじいことは、一般的な剣では非常に困難なことだ。
『この男は普通じゃない』
風貌こそは凡夫のそれだが、彼の内側に存在する感情、思想は間違い無く非凡のものであると、男は一度打ち合うことで悟った。
薄れゆく意識の中で、男はフェリオットの手の中に握られている一振りの剣を垣間見た。
刀身は燃えたぎる炎のように荒々しく、同時に、海原のように美しく、均一に波を打っているのだった。
男は尻餅をついたままだったが、ぐったりと仰向けになり、もう二度と起き上がることは無かった。
一方、フェリオットはその時既に何人かの男を打倒していた。
二人目は盾もろとも――木製なので脆弱であった――刺殺し、三人目は得物をかち上げてから、鎧の隙間を闇雲に三度切り刻んだ。
四人目は簡素な兜を剣で跳ね飛ばし、柄の頭で何度も殴った。
五人目は他と比べて猛者であったが、四度剣を打ち合うと、フェリオットの優位になり、大きな隙を鮮やかに作り上げると、ためらいなく相手の首を刎ね上げた。
フェリオットの殺害方法は、何れも多様であった。だが、唯一共通していたこともあった。それは何れの殺害も、彼は躊躇いなく行ったということだ。
歪に波打つ、彼の剣が振るわれるたびに、鮮血が辺りを舞い、彼の顔を、腕を、軍服を、剣を覆っていくのだった。




