夜に紛れて
軍議から二日後の夜、ウェールの軍勢は南方へ移動。ニメリア平野北部にて停止した。
その後、休む間もなく急造の野営地が作られ、半日でほぼ全ての兵士が寝泊まりできる施設が、何も無かった土地に作られた。
時刻は深夜を過ぎており、兵達の疲れも限界に来た為か、おびただしい人々の群れは、夜の静けさを侵すことなく、ニメリア平野には冷たい風の音だけが響いていた。
だが、そんな静寂と暗がりの中で、他とは一際大きな一つの天幕が、会話という騒がしさと、小さなランプによる明かりをもたらしていた。
「貴様はニメリア平野が何故、荒野では無く“平野”と呼ばれているのか知っているか?」
天幕の中には二人の人物が居た。他方はクレイグ。
彼は天幕の中央に置かれた分厚い机に肘をつき、鋭い目つきでもう一人の人物を見つめていた。
彼女はフレイヤと呼ばれる女性だった。
長く、鈍い緋色をした髪を身に纏い、ただでさえ珍しい目を引く赤色は、ウェールの白い軍服と相成り、鈍い色調とはいえ際立って見えた。
歳は十八。髪と同じく瞳もまた赤く、また肌は宝石のような美しささえ覚えさせるほど透明で白かった。ある種異常とも言えた風貌にはおぞましささえ感じられたが、それらを打ち消すほどに、彼女の容姿は美しく可憐だった。
しかし、そんな彼女の性質は見た目に反してひどく苛烈で、たとえ目上の人が相手だろうとも厳しい態度を取ることがあるなど、本質はひどく豪胆なものだった。
クレイグの問いかけにフレイヤは、臆する様子も無く答える。
「今はこの有様ですが、以前は美しかったのでしょう。ニメリア平野という名称は、古い時代に付けられたものです。……これもかの“魔法戦役”が原因だと、おっしゃるのですね」
彼女はクレイグの副官だった。だが、彼女はベルムハルト皇帝と同じように、クレイグの弟子でもあった。
ウェールにも、フォルティスに似たような士官学校がある。名を“ウェーレンティア”。とはいえ、フォルティス程の長い歴史は無い。
創設者は他でもないクレイグだった。彼はウェーレンティアの校長を務めていた能力を買われ、皇帝の指南役に選ばれたのだった。職務自体は、現在も並行して行っている。
「そうだ。特にここは、最も戦闘が激化した場所だった……地水火風、あらゆる魔法がここに顕現したよ。人間を憎んでいた魔族達は魔法を惜しげも無く使った。結果、膨大な数の人々が死に、莫大な量の魔素が失われた」
「魔素の大量消費は大地を汚染させることに繋がる……この推論はまだ曲げていないのですか?」
「推論ではない事実だ。では貴様は、この土地が穢されている理由として他の論を挙げられるのか?」
クレイグはよくこういった誤謬を、誤謬と理解していながら使う癖……すなわち詭弁をよく使う事が多々あった。
この場合は、ある命題に対する一つの意見の他に対になる意見が無ければ、唯一無二である一つの意見は正しい、とするものだった。本来は対となる意見があろうと無かろうと、意見そのものが正しいかどうかを吟味するべきである。
こういった詭弁はフレイヤにとって、学生時代から慣れたことだったので、臆さず対抗した。
「私は魔族にはそれほどの力など持ち合わせているようには思えないですし、そもそも校長の論には明確な証拠がない」
「そうだ、確かに証拠はない。証明することは出来ないということは、十分理解している。だが何れ貴様も分かる時が来るだろう。私が正しいということを。真実とは自ずと明らかになるものだ」
クレイグの態度は何時にも増して尊大だった。フレイヤは苛立ちを抑えるように目をつむり、深い溜め息をついた。
「それで用件は何でしょうか? まさか、こんな時間に歴史の授業をする為に呼んだ、というわけではないのでしょう?」
「グルシスの奴と同じようなことを言うのだな。まぁいい。貴様を呼んだのは伝令を頼まれて欲しいからだ」
クレイグの言葉にフレイヤは目をすぼめた。こんな、誰もが眠りゆく静かな夜に、伝令という過酷な労役の言葉を聞くとは思わなかったのだ。
フレイヤは副官という高い地位にあったが、野営地設営の際に細かい指示を出す為、兵達と付きっきりになっていた。
時には末端の兵士に何をすべきかを身を以ってして教え、それと同時に必要な物資の計算、兵達の勤務時間の配分などを頭の中で行っていた。
肉体労働にほど近い事を並行しながらの頭脳労働ほど、疲弊するものは無い。
その上ニメリア平野は気候の変動が異常なほどに激しく、特に今日は気温の変動が砂漠の如く激しかった。
彼女は恐らく、巨大な丸太運びをさせられていた末端の兵士よりも疲れていた。そんな折での、この呼び出しである。
「っ……内容は何です? こんな時間に一体どこへ行けというのですか?」
フレイヤは何とか苛立ちが表に出てしまわないよう、声の調子を抑えつつ、身勝手な主人に詰め寄った。
「それこそ、グルシスのところへ。野営地の先頭に居るはずだ。奴にこの文書を渡してくれ。気になるなら目を通しても構わないぞ」
と、クレイグは今にも爆発しかけている不遜な部下をなだめるように、努めて穏やかな様子で一枚の少し高価な紙を差し出した。
フレイヤはそれを黙って受け取り、特に断らず、目を通した。
「グルシス殿を第一陣に……ですか。しかしこの伝令、今行う必要はないのでは? 会戦の時は、まだ先になると私は思いますが」
副官同士の噂で、勇猛果敢なグルシス将軍が何時にも増して息巻いていたことはフレイヤも知っていた。その点、クレイグが出した命令は正しいものと言える。
だが、それは深夜に行われるべきものなのだろうか。フレイヤの疑念と苛立ちはより深くなっていくばかりだった。
「つい先ほど、斥候から連絡があった。連隊規模の敵軍が移動を開始したらしい。彼我の距離と行軍速度を鑑みるに、数時間ほどでこちらに辿り着くだろう」
「な……こんな夜に?」
「夜だからこそだ。夜襲は、ともすれば倍以上の敵を撃滅し得る。……誇りを重んじるのがフォルティスの流儀だと思っていたのだがな。もっとも、こちらもそんなものは持ち合わせていないがね」
すると、彼は席を立ち、立ち尽くしてしまったフレイヤに背を向けた。
「……我々も出撃を?」
「当然だ。貴様が戻り次第出る。今日は眠れないだろうな」




