逢瀬
陰鬱とした真夜中の暗闇が、遥か遠くまで広がる荒野まで支配していて、暗い冬の季節をまざまざと物語っていた。
ここ数日は堰を切ったように雪が降り続いていたが、今朝になると常夏の如く燦々と太陽の光が照り付け、積もり積もっていた雪の殆どは溶けてしまっている。
草木の間々には、溶け切らなかったのだろう雪の粉が細々と残っていて、月光にさらされた茶色の地面と歪な色彩を保っていた。
そんな不可思議な冬の景色の中で、方々で火を焚き黒い煙を立ち上らせている人々の集団が居た。彼らは荒野の至るところに散在していて、湿った地面座り込んでいる者、隣人との会話にいそしむ者などが居た。
彼らは皆、軍人である。総勢1〇〇〇〇〇人で構成されているフォルティス軍の一端だ。この地には2〇〇〇ほどの兵が集結しており、これらは“連隊”と呼称される。他にも、周辺には三連隊程が駐留していた。
彼らは一様に同じ目的を持ち、主人に従順な飼い犬の如く、同じ目的の達成の為に行動し、思考していた。
誰もが皆、それぞれ固有の理念を持っていた。だが目的こそ同じでも、それで成しえる結果は一様に違った。
金の為。名誉の為。信念、忠誠心……多様ではあるが、多くの人々の原理は“欲望”という同一の感情に起因されていた。
だが、中にも例外が居た。金でも名誉でもない、欲望から解放された、より強く、気高くも愚かな感情の発露。
欲望に起因されていない彼らは精神において、心において、誰よりも強かった。彼らはあらゆる人々に敬愛されたが、同時に嘲りもされた。
焚火の周りには、ニメリア平野の荒涼とした寒さから逃れる為に、フォルティスの兵士達がぎゅう詰めになって身を寄せ合っていた。
兵士は大勢いるので、焚火は一つでは済まない。兵士が居れば焚火が作られ、焚火があれば兵士が集まっていった。
すると、暖を取る人々の中を、黒い修道服を身に付け、美しくまとめ上げた茶髪を携えた女性が一人。蹴り上げる泥で裾が汚れるのも厭わずに駆けていた。
彼女は人を探していた。その人物が何処に居るのかは既に調べてあるので、闇雲にではない。
いくつかの兵士の塊を抜けた後に、彼女は焚火の傍で背嚢を枕に寝そべっている青年を見出した。
黒い髪を携え、フォルティスの赤い軍服を身に纏い、傍には柄が擦り切れた、古びた剣が置かれている。
青年の瞳は軍服のそれより淡く、静かに燃えたぎる火のようにゆらめき、強い意志を感じさせたが、瞳が捉えていたものはどこか遠くにあるように思われた。
女性ははっとした様子で急ぎ駆け寄ると、青年の名を叫んだ。
「フェリオット!」
名を呼ばれた青年は懐かしい声を前にすぐさま立ち上がり、何かを見据えていた瞳を向けた。
瞳の先には、彼が軍役に就いて数年間、会う事すら叶わなかった幼馴染の姿があった。
「エリス!」
予期せぬ再会は、従軍で疲れ果てていたフェリオットの心を躍らせた。
三年前、フェリオットは父の知人の伝手を借り、フォルティス伝統の士官学校“インテルフィケーレ”に入学。対してエリスは教会の隷下である活動修道会“ルメニア会”に入会した。
エリスとはもう二度会うことが出来ないだろうと、フェリオットは覚悟していた。
「やっと、会えた。本当に久しぶりだね。顔も忘れるところだった」
「エリス、どうして……。修道士が戦場に来るだなんて」
「知ってるでしょ? ルメニア会は活動修道会だって。篭ってばかりの観想修道会と違って、うちは結構行動的なの」
修道者にあるまじき言動ではあるが、元来の明るくて、少し驕ったような幼馴染の性格はフェリオットの頬を緩ませた。
「これも奉仕活動の一環ってわけか。けど、こんな場所で一体何をするんだ?」
疑問が尽きないフェリオットに、エリスは誇らしげに懐から何か紋章が象られた布を取り出した。
少し高価な絹糸で作られたそれは、表側には瑞々しい野草と、桃色の花が美しく縫い込まれていた。
裏側は表とは対照的に、歪な形状をしたおどろおどろしい刃物が縫い込まれていて――彼女のはそこに小さく文字が彫られていた――不意に眩暈がしてしまいそうな二面性を感じさせる。
この特徴的な紋章は、軍に付き従う医者……軍医であることを示す“草刃の紋章”と呼ばれるものだった。
「お前、医者になったのか!?」
ルメニア会は人々の精神を癒す修道会という面の他に、人々の傷病を癒す病院という側面も持ち合わせていた。
この体制は、長い歴史を持つルメニア会の最初期から続けられていて、その技術や知識は他のあらゆる病院をも凌駕するほどだった。
ルメニア会で医者になることは名誉なことであり、ルメニア会士であるエリスがこの場に軍医として訪れているということは、ルメニア会が軍に医療提供をしている、ということだった。
「へへ。私、結構頑張ったんだよ? 三年間ずっと、大変な毎日……辛い事ばかりだったけど、何とかやってきた」
健気で朗らかな顔を見せ、エリスは呟いた。
「……長かったね、今日まで」
すると、エリスの瞳は曇りを帯びて、虚空を見つめた。次の瞬間に彼女は、遠く霞んでしまった煤を被った思い出の光景を見つめているようであった。
「ああ……本当に長かった」
二人の間を別つかのように、冷たい風が流れ出し、遠く懐かしい凄惨な記憶が二人の心それぞれに思い起こされた。
「私は、戦うことは出来ない。だから、こういったことでしか、貴方を助けられない」
「俺なんかよりも、軍の皆を助けてやってくれ。きっと喜ぶぞ。お前みたいな若いやつは少ないから、案外、お前に似合った相手が見つかるかもな。あ、でも修道女は結婚出来ないんだっけ?」
「あの時の事。後悔してるの?」
その時、フェリオットには、周囲の風が止んだように思えた。
しかし実際には止んでいない。冷ややかで鋭い冬の気流は、未だに二人の間を別っている。
輝かしくも、戻れない記憶。その中で、フェリオットはたった一つの思い出を、たった一人の姿を、思い描いていた。




