彼の矜持
ウェールの首都から南に向かい、馬車で十日程進んだ先。フォルティスとの国境が目前に控えるこの地に、ログナという街がある。
年を通して気温が低く、特に冬は厳しいウェールだが、このログナを中心とした南部諸地域は穏やかな気候で、夏は涼しく冬は暖かった。
結果としてこの地域の発展は目覚しく、あらゆる分野が高い水準を保ち、ログナから少し離れた小都市や村落に至るまで、貧乏人から貴族まで、全ての人々が、不足のない幸福に満たされていた。
政治的にこの街は、古くから自治都市としての気質が強く、何代か前の皇帝から多大な権力を移譲された領主が置かれ、その後市民達の活動によって領主は権力を削っていき、近年では珍しい議会制も導入された。
今回の戦争に当たって、広大なこの街にはウェールに忠誠を誓うほぼ全ての領主とそれに付き従う兵士達が詰めかけていた。
ログナは国境に面している為、人々は自ら城壁を建て武器を用い、街のそれ自体が城塞として機能している。軍勢の集結地として選ばれたのも、頷けることだった。
街の中心地には皇帝の別荘である屋敷がある。そこでは軍議が催されていて、軍の首脳である領主達が集まっていた。
屋敷の一室は一時的に議場として機能させる為、無用な装飾や置物は撤去。代わりにウェール全てを記した巨大な地図や、地域ごとを詳しく記した地図。会議用の長机。彼我の状況をおおまかに記した大量の資料が持ち込まれた。
急ごしらえの会議場には皇帝とクレイグの姿もあった。ベルムハルトは領主たちを見渡せる場所に座り、資料と地図を交互に眺めていた。クレイグはその後方に控えていた。
領主達は何れも勇士で強者揃いだが、その中でも若々しく、名実共に群を抜いて強力な男が居た。
男は皇帝とは真反対の位置に居座り、不機嫌そうな顔をしながら、一度周りを訝しるように見渡した。
彼の名はグルシス。歳は二十七。
短い黒髪に際立った顔。軍人らしい体格を持ち、常に眉間にしわが寄っているように見える顔つきをしているので、彼を初めて対峙する者はあまり良い印象を覚えなかった。
だが、彼の瞳は熱意に満ち溢れていて、善良そうな活力が常に精力的に湧き出ていた。
幼少の頃よりフォルティスで最強と言われた父に付き従い、数多の戦いを経験。後を継いだ後、大きな戦果は挙げてはいないものの、父の残した軍隊は強力で、彼の名を貶めることは無く、敵味方共に恐れられていた。
しかし、グルシスは七光りであると嘲られるのは時間の問題でもあった。故に彼は軍議を主導し、此度の戦いを己の物としなければならなかった。
開口一番、己の策を皇帝に理解させようと、弁舌を振るった。それは、この会議の始まりを意味していた。
「陛下。憎きフォルティスの軍勢は、我らがウェールの総軍を数において下回っております。西方と東方の駐留軍を全てこの地に召集し、私に指揮をお任せいただけるのならば、瞬く間にかの国を席巻してみせましょう!」
グルシスは、自身でも驚く程に口が回ったので、すっかり、全軍の指揮権を与えられたかのような気分になっていた。しかし、そんな浅はかな考えもすぐに打ち破られる。
「西方、東方の軍勢にはそれぞれ、国境の防衛という然るべき任が課せられている。それに、今から召集を行えば集結までに少なくとも二十日以上かかるだろう。敵を目前にして隙を露にするのは、愚かなことだ」
的確な指摘。だがそれをしたのは皇帝でもなく、はたまた他の領主達でもなく、クレイグだった。
グルシスにとって、たかだか皇帝の指南役に己の論の甘さを指摘されるのは、彼の自尊心が許さなかったし、軍議という今この場においても、将軍でもないクレイグが発言をするのは場違いというものであった。
正しい意見とはいえ、クレイグが他の将軍達からひんしゅくを買うのは避けられないことだった。
「何故貴方が発言なさるのでしょうか? クレイグ殿。貴方はあくまで皇帝陛下の指南役。貴方には私の論を指摘する機会も権利も、与えられていないのです」
あくまで冷静に敬語をもって反駁するグルシス。慇懃な態度に反して、その瞳は深い憎悪と怒りに満ちていた。
「権利だとかそのような問題ではない。我々は勝たねばならないのだ。フォルティスは、誤った人間の歴史が生み出した結果である。完膚なきまでに破壊し我々が導く他、未来は無い」
「これは驚いた。一体何を言うかと思えば……ここにきて歴史の授業とは!」
グルシスは憎しみと焦りと嘲りを満載させた笑みを見せ、言った。
クレイグの発言には、流石にグルシスを良く思わない領主でさえも、苦笑する他なかった。空気を読まないなどという度合いではない。
しかしベルムハルト皇帝だけは、クレイグを非難することはしなかった。
「もういい、よせ。クレイグ、お前もだ」
ベルムハルトは資料を読み終えたようで、ようやっと場を鎮めることに労を費やした。さらに続ける。
「グルシス、貴殿の話は良くわかった。しかし此度の戦の指針を、既に余は決めている」
皇帝は一度ここで言葉を切った。何か重要なことを言うようで、深く呼吸して間を置き、領主達の視線を集めた。
「今この場において。余の師であるクレイグを、総司令官に任命する」
方々で驚愕と、どよめきの声が漏れ聞こえる。グルシスは当然として、全ての領主達の間に、隠しようの無い衝撃が走った。
それも当然の事であった。軍役であるとはいえ、ただの指南役が全ての兵士達、将校達の上に立つ存在となるなど……もし皇帝の言葉でなかったのなら、軍議は罵詈雑言が支配し、破綻してしまっていただろう。
予測し得なかった皇帝の言葉に、部屋には言いようの無い沈黙と閉塞感が漂い始めた。
皇帝の言葉とは、国家の意思を表していると言っても過言では無い。つまり、たとえ皇帝の言葉が己の意に反していようと、それに逆らう事は、極めて無謀と言えた。
しかし若さとは恐ろしい物で、グルシスもまた他の領主達のように口を閉じていたが、その心はひどく激していた。また熱しやすい彼にとって、心を己の精神と体で押さえつけるには限度があった。
「皇帝陛下……! 戯れも程々にしていただきたい」
「何が戯れだ。これは余が既に決めた事。余の決定に何か不満でもあるのか?」
正に暴君の如き様相をし、あたかもそれが当然なのだ、と言いたげな皇帝の口ぶりは冷淡で、恐怖すべきものだった。
しかしそれに反して、グルシスの心はより激しく燃え行くのだった。
「説明をしていいただきたい! 何故指南役が総司令官と成り得るのか。相応しき人物は他に居るはずです! あのような者が我々兵士達の――戦って血を流す戦士達の上に立つなど、納得できかねます」
「その“相応しき人物”が彼、クレイグだ……彼の力量は私が保証する。此度の戦は余も直々に参ずるが、基本的には彼の方針に従ってくれ」
これ以上の反駁は命取り。そう感じたグルシスは、煮えたぎる心を何とか抑え込み、震えながらも口を縛るのであった。




