からすは泣いたが帰れない
「からすと目をあわせたら、いけないんだって」
人さし指をひとつ立てて、ゆみちゃんが言った。顔は真剣そのもので、でもそれがどこかおかしくって、ぼくは気づかれないように口を押さえて、くすくす笑った。
となりのだいすけくんも、ゆみちゃんの言っていることなんてぜんぜん信じていないみたいで、
「ばっかじゃねえの」
そっけない返事で話を終わらせてしまう。
「ほんとなんだってば」
「だれから聞いたの?」おずおずと、ともえちゃんが聞く。「からすなんてそこらじゅうにいるから、なんだか私こわい」
「るりこちゃんが言ってたんだよ」ゆみちゃんはともえちゃんのほうへ向き直って、「るりこちゃんはお父さんから聞いたんだって。なんか、メーシン? とかいうやつなんだって。けっこうみんな知ってるよ」
「やだなあ、こわいよお」
「そんなのオレが」
だいすけくんが言いかけたとき、タイミングがいいのか悪いのか、ダイダイ色の空の向こうから、からすが一羽、ばさばさと飛んできて、ベランダの柵に止まった。くちばしで羽を突いている。
ともえちゃんは小さく悲鳴を上げて、ぎゅっと目をつむった。両手で耳をふさいで、がたがたと小刻みにふるえる。笑っていたはずのぼくもだいすけくんも、なにげないふりをしてベランダから目をそらした。ゆみちゃんはうつむいて、じっとしている。
カア。カア。
鳴いたかと思うと、また、両翼を広げて、どこかへ飛び去っていった。なんだか、それこそばかにされたみたいで、むっとなってベランダのほうをにらみつけたけど、当たり前に、そこにもう敵はいない。
四人で、そうやってすでにいなくなった敵に、まざまざと敵意を示していたら、今度は後頭部のほうから、
「おい」と声が聞こえてきて、びっくりして椅子から転げ落ちそうになってしまう。「まだ居たのか」
振り向いて、そこにいたのが広野先生だったのがわかって、ほっと息を吐いてしまう。
「なんだ、ヒロノッチかよ」だいすけくんはまた強がって、「オレがタイジしてやろうかと思ったのに」
体の大きなだいすけくんをうらやましく思いながら、
「こわがってたくせに」なんて笑って、ぼくも強がった。「女の子みたいだったよ」
「うるせえ!」肩をボコンとなぐられる。「たつやのほうがビビってたじゃねえか」
「じょうだんだよ、じょうだん」
「じゃれてないで早く帰るんだぞー、そろそろ先生たちも帰っちゃうからなー」
間延びした声を聞いて、
「はーい」
こちらもそれをマネして返した。
ゆみちゃんとともえちゃんと、二つ前の交差点で別れて、ぼくとだいすけくんは二人きりになった。
転がっていたマシュマロみたいな大きさの石ころを、さっきからだいすけくんはけっとばして遊んでいる。
「ほんとはさー」勢いで側溝に消えていった石ころのほうに視線を残したまま、ぼくはとなりに声をかけた。「からすと目をあわせてはいけないって話、知ってたんだ」
「へえ」だらしなく引っかけていたランドセルを背負いなおして、だいすけくんはいつものくせで、胸を張るようにして上を見た。「なんでなの?」
「なんか、おそわれるんだって」
「おそわれる?」
「うん。なんか、目と目をあわせることで、敵意があるんだって、けんかしようぜって意思表示になるらしいよ」
じょうだんかどうか、だいすけくんは口をとがらせて、わざとらしくこちらを見た。ぼくはじょうだんだろうなって思ったから、やっぱり、だいすけくんのほうは向かないでいた。
「でもからすになら勝てそうな気がするよな」人さし指で鼻の下をこすって、「オレがたたかえばイチコロだよ、イチコロ」
「どうかなあ」
「なんだよたつや。自信ないのかよ」
ようやく、ぼくはだいすけくんを見た。
だいすけくんはぼくとはちがって、身長が高いし、それでなくても体が大きいほうだった。けんかだって強くて、体育でサッカーでもしようものなら、彼はだれよりも目立つ存在だった。
並んでいるぼくは、女の子みたいな体重で、友だちって言える友だちも、さっき一緒にいた三人くらいなもので、地味で目立たないし、彼のようなカイカツさはまるでない。
ともえちゃんが、だいすけくんのことを好きなんだって知ったとき、やっぱりぼくは、うらやましく思った。ぼくもだいすけくんも、ともえちゃんのことが好きだったからだ。アイドルみたいに可愛くて、こんなぼくみたいなヤツにもやさしくて、頭もよくて、もしかしたら、ぼくやだいすけくん以外だって、彼女のことが好きなヤツはたくさんいるんじゃないかって思えるくらい、ほかの子たちとはちがった。
ほんとうは、だいすけくんにも、ともえちゃんにも、言えてないことがある。
両思いなんてずるい。そういう気持ちがずっと、心の中で、ぐねぐねとうずまいて、時々、胸が痛くなる。ともえちゃんは、ぼくをたよってくれたのだろうに、ぼくは任されたことを、果たしていない。
この秘密を知っているのはゆみちゃんだけで、お母さんだって、お父さんだって知らない。それでもまだ、だいすけくんも、ともえちゃんも、ぼくを責めてきていないから、もしかしたら、ゆみちゃんはぼくのことが好きなのかもしれない。それで、秘密を守ってくれているのかもしれない。
とにかくぼくたち四人は、そういう風に、ちょっとフクザツで、ビミョウな関係だった。
「自信なんてないよ」
ランドセルのロックをし忘れていたのか、歩くたびにばたんばたんと後ろで鳴っているのが、なさけない。ぼくと同じで、大事なところが、しっかりはまっていないんだ。
だいすけくんはうでを伸ばして、ぼくの肩をつかんだ。
おどろいてだいすけくんのほうを見ると、歯をむき出して笑って、
「心配すんなよ、オレが守ってやるからさ」
そう言って、ばたんばたんとはげしく、ぼくのランドセルを揺らした。
ともえちゃんがだいすけくんのことを好きになる理由は、それこそ痛いくらいに、ぼくにはわかる。もし運動ができなくても、とくべつに目立たなくても、だいすけくんがだいすけくんである限り、何回やり直しをお願いしても、ともえちゃんだけじゃなくて、だいたいの女の子はだいすけくんのことを好きになるんだろうなって、そう思える。
だいすけくんは、すごくいい友だちだから、ぼくは、また、胸がぎゅっとつかまれたみたいに、痛くなる。
家の、ほとんど使っていない勉強づくえの引き出しの奥で、ともえちゃんの書いた手紙は、なにを思っているだろう。
ひとりの道になった。学校から一番遠いところに住んでいるぼくは、毎日こうやって、最終的にひとりで家を目指す。家に帰っても、お母さんに「宿題をやりなさい」とか、お父さんに「肩をもんでくれ」とたのまれるくらいで、ちっとも楽しくなんてない。ぼくにはぼくなりの悩みってものがあって、お母さんもお父さんも、それをぜんぜんわかってくれなくて、でも話すこともできなくて、それがさらに、つらかった。
だいすけくんみたいに石ころをけっとばしても、ぜんぜん、だいすけくんになんてなれない。ぼくはずっとぼくのままで、ともえちゃんには好かれないし、でもゆみちゃんからは好かれるような、チュウトハンパな男のまま、一生を終えるのかもしれないな。
くやしくって、強くけったら、公園の中に転がっていった。べつに、大して意味なんてないことはわかっているのに、なんとなく、家にまっすぐ帰りたくもなくて、ぼくはその石ころを追いかけて公園に入った。
太陽はもうほとんどしずんでしまいそうなくらい落ちて、空はまぶしかった。石ころを探してきょろきょろしていたら、
「こんばんは」
犬のさんぽをしていたおじいさんに声をかけられて、びっくりした。一日に、ぼくは一体何回びっくりするんだろうと思って、またなさけなくなって、
「こんばんは」
返した言葉は力も持たない。
「もう遅いから、気をつけるんだよ」
「はい、ありがとうございます」
「礼儀正しい子だね」
首を振って返事に代えると、おじいさんはにっこり笑って、ポケットから飴玉を二つ取り出して、ひとつをくれた。まっ黒な袋に入っていて、なんだかまずそうだな、って思ったけど、お礼を言って、気持ちをごまかした。
おじいさんが去っていくのとほとんど同じくらいに、ぼくはようやくさっきの石ころを見つけた。かがんで、それを手に取る。いらないのに、なんだか大事なもののような気もして、こいつはとくべつに持って帰ろう、って、くだらないことを考えていた。
視線を上げたとき、ブランコに人がいるのに気がついた。両手でそれぞれくさりをつかんで、ぎいぎいと前後させている。うつむいていて顔は見えなかった。
こわいなって思ったけど、ブランコと同じように、つむじが左右に揺られているのを見て、もしかしたら体調を悪くしちゃったのかもしれない、と思った。そうだとしたら、大変なことだ。
石ころをけっとばすだけじゃなくて、こうやって人にやさしくしたほうが、だいすけくんに近づけるような気がする。
走っていって、それでもおどおどと、
「だいじょうぶですか?」
声をかける。
近づいてようやく、それが男の人だとわかった。彼はうつむいたまま、しわがれた声で何かを返してくれたけど、それが聞き取れなくて、
「え?」
思わず顔を寄せて、耳をかたむけた。
でも、待っていても、声は続かなかった。
それで、顔の向きをもどしたときに、くさりをつかんでいた男の人の骨ばった両手が、ぼくのほほを、ばちんと挟んでくる。
伸びほうだいの髪の毛のすき間から、白くにごった目が、ぼくのことをじっと見つめた。
「からす」
ぼくはこわくて、体のふるえが止まらなくなっていたけど、なんとか男の人の手を離そうと必死になってにぎった。でも、大人の力にはぜんぜんかなわなくて、びくともしない。
「からす」
がさがさで、テレビの砂あらしみたいな声が、続ける。
泣きそうで、立っているのもできないくらい足に力が入らない。
「からす」
こんなことになるなら、大輔になりたいなんて、石ころを蹴っ飛ばすんじゃなかった。優しくあろうなんて思わなければ良かった。
友恵ちゃんのことなんてすっぱり諦めて、自分に与えられた立場で、ぬくぬく過ごせばよかった。
母や父に、ちゃんと相談して、早くこの心のもやもやを払っておけばよかった。
「からす」
男の、どしりと低い声が、何度も唱え続ける。
やめてくれ、怖い。やめろ。
「からす」
みるみる力を加えていく男の腕が、血管を、筋肉を、隆起させている。
こちらを見つめる目は、空洞のように真っ黒で、吸い込まれてしまいそうな恐怖が、僕の心を鷲づかみにする。
「からす」
男は立ち上がると、僕よりもずっと上背があった。
見下ろされる形で、血色の良い彼の顔と向き合う。
「からす」
そしてようやく、その意味に気づいたとき、彼は両手を離した。
尻餅をつき、頼るものが欲しくてブランコに近付いて、やっとの思いで鎖に手が届いたとき、彼は瑞々しく、幼いとも言える声音で、
「からせ」
言い落とすと、振り返ることもせず、公園を出て行った。
残された私は、ブランコに腰を落ち着けて、絶望から視線を落とした。
そして先ほどまで私が立っていたその場所に、老人から貰った飴が落ちているのに気付いて、年甲斐もなく、ブランコを寄せて拾い上げると、包装を破って口に放った。
まずそうに思えた飴玉は、今の私には、ちょうど良かった。
それが、悲しく思え、意識せず、私は涙を流した。
私は、私の代わりに誰かを涸らすまで、ここで、帰れずに居るのだろう。