第4話 情けなくてすみません
慄然とした。
あの人影がもしフロウを狙いにきた侵入者だとしたら、俺は戦わなくてはならない。
そうしないと、俺が死ぬ。
こんな状況で何ができる? 考えろ……考えろ……。
相手は一人だろうか? 一人なら……罠に掛かった一般人を装って助けを求め、穴から助け出してもらったところを逆に突き落とすとか……?
我ながら鬼畜すぎる所業だが、そんなこと俺にできるのか……。
〈――そんな所で、何をしているのです?〉
「なっ!? ま、まさか……フロウなのか?」
〈その認識で合ってます。罠の作動でまさかと思いましたが、やはりあなたでしたか。なぜそこに?〉
驚いた。人影はホントにフロウだったらしい。色々疑問はあるが、フロウの問いに答えなくては。
「見ての通り、罠にかかって落ちたんだよ」
〈――罠は、配下モンスターには反応しません〉
「やはりそうなのか? でも俺には反応したようだが……」
〈そのようですね。それで、何故そこから出ないのです?〉
「足を痛めて動けないんだよ」
〈…………〉
相手の考えがまるで読めないだけに、こう沈黙されると非常に気になる。
〈仕方ないですね。少し待ちなさい〉
そう言ってフロウは一旦見えなくなり、それから手に何かを持って戻ってきた。
〈これを落とします。受け取りなさい〉
上から落とされたそれをキャッチする。
薄暗くて見づらかったが、目が慣れていたので何とか受け取れた。
手にしたビンには透明な液体が入っている。
〈ポーションです。飲みなさい〉
ポーション。その名からすると回復薬か。
うーん……いくらか不安はあるが、死にはしないと信じて飲むしかないな。
コルクのような蓋をねじるようにして外し、中身を喉に流しこむ。その効果は劇的だった。
「足の痛みが消えた……。驚いたな、本当に治ったのか」
〈もうそこから出られますね〉
「ああ、これならたぶん」
あちこちにあった擦り傷まで嘘のように消えている。
ポーションか……この効き目はまるで魔法だ。
上でフロウが待っている。さっさと出るとしよう。
穴の壁はごつごつしていて取っ掛かりが多く、なんとか登れそうだ。よし、やはり登れる。もうちょい! つるっ。
「あっ!」
〈あ……〉
足が滑って、また落ちた。
〈…………〉
こちらを覗きこむフロウの額に、青筋が立った気がする。気のせいだよな……多分。
思ったより滑る足場に注意し、今度は慎重に登る。
穴の縁に手をかけ体を引き上げて、今度こそ穴から脱け出すことができた。
ホッとして立ち上がり、間近でフロウを見る。
その姿に、俺は息をのんだ。
薄暗くてもはっきりわかる整った顔立ち。腰にまで届く髪は透き通ったエメラルドのように美しく、その額には小さな宝石のようなものが輝いている。
瞳は髪と同じエメラルドグリーンで……それは現実離れした妖精のような美少女だった。その瞳が俺を見据える。
〈出歩くことを許可しましたが、どうやら問題があったようです。元の場所に戻りなさい〉
その口調は冷静で平坦なものだが、怒り成分が含まれている気がする。
無表情だからそう感じるのかもしれないが……。フロウの後に続き、来た道を引き返す。
彼女は金の装飾の入った白いローブを揺らし、ゆっくり歩いてゆく。それにしても実体があったとは驚きだ。
それもやっぱり女の子。女の子、女の子。
大切な事過ぎて脳内で何度も連呼しながら、静かに少女の後をついていく。
広間に着き中に入ると、フロウの体が淡く輝き、瞬く光を残して消えた。
「フロウ?」
消えた少女の姿を探していると、再びダンジョンコアから声が聞こえてきた。
〈先程までの姿はマテリアルモードです。あの状態は、それほど長く維持できません〉
相変わらず言っていることは分からないが、フロウがあの姿になれるのは短い間だけということか。
「さっきまでの姿と、どっちが本当のフロウなんだ?」
〈私の姿に嘘も本当もありません。逆に質問しますが、生まれた時のあなたと今のあなた、どちらが本当のあなたですか?〉
あ、なるほど。それは分かりやすい例えだ。
〈理解したようですね。先程特定条件が満たされ、マテリアルモードの使用が可能になりました〉
「特定条件?」
〈名を与えられることが条件となっていました〉
「名前でか? よく分からないが、フロウはまたあの姿になれるのか?」
〈なれますが、普通ならダンジョンコアが名持ちになるのは十分に深階層化してからのようです。私では展開能力が不足し、マテリアルモードの維持に問題が発生します〉
スペック不足か? ひと昔前のパソコンでバリバリの3Dゲーをやるような感じなのかもしれない。
今はまだ、あの姿を維持するのは大変ってわけか。
〈それよりも、少しあなたに話があります〉
あ、いやな予感が……。
〈何故かあなたには作動しないはずの罠が作動しました。これについては私の失態であり、現在対応を検討中です。しかし問題はそんなことではありません〉
「は、はい!」
これは多分叱られる。俺の背筋は自然と伸び、額に冷たい汗が浮き出るのを感じた。
〈あの落とし穴は慎重に行動していれば初心者でも回避できるレベルの罠です。それが侵入者もいないのに作動したから心配になって見に行けば、罠に嵌まって怪我をし、自力で抜け出すこともできない有様。あなたが異世界の人間であることを考慮しても問題であると感じたのですが、どう思われますか?〉
やばい。声が平坦なのは相変わらずだが、今までで一番長い台詞からは不気味な迫力を感じる。
しかし罠になんて縁のない世界から来たんだから仕方ないと思うんだが……。
いや、俺がどう思うかじゃなく、フロウがどう思うかだ。
罠に嵌まった自分を思い返し、フロウの目にそれがどう映ったか客観的に考えると……。
〈返事がありませんね〉
「はい! 自身の不甲斐なさに恥じ入り、深く反省しております!」
〈本当ですか?〉
「本当です!」
〈……なら良いです。今後は気をつけるのですよ〉
許された!? 自分で言うのもなんだが、逆の立場ならとっくに役立たず認定してゴミ箱行きにしてると思うぞ。
そんなに甘くて大丈夫か? 俺は助かるが……。
〈では、当面私が良いと判断するまで外出禁止です。あなたにはここでフロアガーディアンにふさわしい実力を身に付けてもらいます〉
外出禁止……。なんだろう、この状況。
うん、女の子に監禁されてるわけですね。わかります。
まあいじけていても仕方ない。
さあイメージしろ。俺はフロウの言葉を紳士脳でイメージ変換する。
『私、お兄ちゃんが一人前になるまで、部屋から出さないんだからね!』
う……うむ。なんか頑張れる気がしてきた。
それはさておき、そろそろフロウに言わねばならない事がある。それは、どうしても避けて通れない……非情なる現実!
人間、生きていれば睡眠、食事、排泄は絶対に必要。そう、絶対にだ!
そして……実は先程から俺は、便意をもよおしていた。
外出禁止と言われたが、見たところこの広間にそのような施設は見当たらない。
あるのはせいぜい四方にある石柱くらいなものだ。
「……フロウ……トイレに行きたいんだが……」
〈排泄ですね。わかりました、スライムを呼びましょう〉
は? なぜにスライム?
そう疑問に思いつつ待っていると、扉がわずかに開いて茶色い何かが這うように入ってきた。
こいつがスライムか。俺的にはプヨプヨした緑の鏡餅みたいのを予想してたんだが、こいつはドロッとしたゲル状をしている。
その茶色いゲルが俺の足元までやって来て、びろんと広がった。まさか……。
便意を訴えたら派遣されてきた、茶色いゲル状スライム。俺の足元で、まるで何かを待つように……。
「……フロウ」
〈どうしました?〉
「もしかして……トイレって……このスライム?」
〈その認識で合ってます〉
「いやいや、ちょっと待て!」
薄々そうじゃないかと思っていたが、これは酷い。
自慢じゃないが、俺はミミズにだって小便かけるのを躊躇う男。ましてやこんな得体の知れない生物の上にするなんて嫌すぎる。
しかもフロウに見られながら色々出せるわけがない。
〈何か問題が?〉
「百歩譲ってこれがトイレだと仮定しよう。だが俺は紳士として断言する。人前で排便することなどできない!」
〈私は人ではありません。よって問題はありません〉
「否! 断じて否っ! 俺の中ではフロウを人に近いものと認識しているっ!」
〈その認識は誤りです。しかし問題は把握しました。見られながらの排泄が困難という認識で合ってますか?〉
「ああ、それで合ってる。理解してくれて助かる」
〈私の視覚情報をしばらく遮断します。その間に排泄を……〉
「理解してねえ!?」
それは女の子が、私目をつむってるから目の前でう〇こしていいよ、って言ってるようなものだ。俺はフロウにこんこんと人間のデリケートな感性を説いた。
フロウの説得は難航したが、なんとか理解させた。いま広間の中には、新しく出現した扉がある。その向こうにあるのが何の部屋かというのは……言うまでもない。
色々とフロウには無理を聞いてもらった感がある。だから……スライムについては譲歩したのだが……。
かなり、出しづらかった。しかし最悪なのは出した後だ。ゲルスライムが……。
俺の……。
その体験に、俺は絶叫した。やはりフロウの持つトイレの概念を何とかしなくては……。俺は固く心に誓った。