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花のおとめ三国史  作者: 高梨いろは
葦原編
17/22

花は兆しを呼ぶ

 酷く甘い匂いがする。綿菓子よりも煮詰めた蜂蜜よりもずっとずっと甘い香り。 頭のてっぺんがぼうっとするような甘美な香りだ。

 空を見上げれば、月から蝶がひらひらとやってくるのが見える。そうっと手のひらをかざしてみると、青い羽を持った蝶がそこに留まった。呼吸を繰り返す速さで羽を動かしている。


「久しぶりだね、灯子」


 その声は間違いなく青い蝶から聞こえて来た。

 よく考えれば蝶が喋るだなんておかしな話だ。けれどその時は蝶が喋ることが普通のことのように思えたのだ。


「あなたは誰?」


「僕は灯子の鶺鴒せきれい。忘れてしまったの?」


 鶺鴒という言葉には聞き覚えがあった。

 あのいつかの夢の話を思い出す。生まれ変わってもまた結ばれるという運命の相手。それを鶺鴒の縁と呼ぶのだと日色が教えてくれた。

 するとこの蝶はいつかのあの声の主なのだろう。そういえばこの幼い少年の声には聞き覚えがある。


「思い出したわ。また会いに来てくれたのね」


「今宵は蠱惑の満ち月だから、胡蝶の性を持つ君に忠告しに来たのだよ」


 蝶はひらひらと飛び立ち、月の周りを舞う。

 きらきらと煌めく鱗粉が夜空を舞い、とても神秘的な雰囲気を作る。


「蠱惑の満ち月とか胡蝶の性とか、それって何なの?」


「心に蝶を飼う君のような人を胡蝶と呼ぶ。兆しを呼ぶと書いて、呼兆こちょうとも書く。


 古来より大和では、蝶には魂や霊、神が宿ると されて来た。復活や吉兆の象徴だったり、場合によっては、死の前兆とされることもあった。

 胡蝶の性を持つものは、呼兆ーーつまりそう言う運命の兆しを呼ぶことが出来る代わりに、とても夢に捕らわれやすいのだよ。甘い香りに誘われて心を失う。特に満ちる月が見える夜は、花のように甘い香りでツキが胡蝶を呼ぶ」


 胡蝶の性を持つ者は、運命の兆しを呼ぶことが出来る。その代わりにとても夢に捕らわれやすい。夢に捕らわれるとは、ツキが呼ぶとは一体どういうことなのだろうか。

 ここまで彼の言葉を整理しても、ほとんど意味が分からなかった。意味が分からないというよりは、信じられない気持ちになった。


「私が、兆しを呼ぶ? そんなわけない。私にそんな特別な力なんてないもの」


 私は平凡かそれ以下の女に過ぎない。だから特別な力を持っているはずがないのだ。

 しかし蝶はなおも語り掛ける。


「灯子は間違いなく胡蝶の性を持つ乙女だ。まだ目覚めていないだけで、とても強い胡蝶を感じる。ツキの匂いを嗅ぎ分けて、ひらひらと舞いながら迷い子を未来へと案内する胡蝶だよ」


「そんな、こと」


 そんなことあるはずがない。

 だって私は、たまたま夜見で選ばれただけで、特別な力なんて全く持たない普通の高校生なのだ。そんな私に予言者のようなことが出来るはずがない。

 そう思っているのに、頭の天辺から痺れるような麻酔のような甘い香りではっきり頭が働かない。


「灯子」


 優しく名前を呼ばれた。私はこの声をどこかで聞いたことがある。けれどどうしても思い出せない。

 嗚呼、くらくらとする。瞼がとても重たい。


「そんなことあるはずないわ。私はーー」


 舌が回らない。

 彼に言いたいことがたくさんあるのに、私の舌は言葉を紡がないのだ。


「左様なら、灯子。僕の鶺鴒の縁。胡蝶の性を持つ乙女。今度の満ちる月の夜に、もう一度、此処で逢おう」


「待って! 私は胡蝶なんかじゃ……っ!」


 青い蝶が行ってしまう。私は精一杯手を伸ばしたのだけれど引き留めることは出来ず、蝶はひらひらと月に帰ってしまう。


「……こーー……とう、こ……!」


 誰かが私の名を呼んでいる。この声の主は誰なの。私の名を呼ぶのはーー。

 はっとして目を開けると、そこは眞宏がいた。心配そうに私を見ている。


「どうしたんだよ、灯子」


「鶺鴒は……?」


「鶺鴒? 鶺鴒ってなんのことだよ。どうして泣いてるんだよ」


 きょろきょろと辺りを見回せば、そこは私の部屋であった。いつの間にか自分の部屋に戻ってしばらく眠っていたらしい。

 頬には熱い涙の滴が幾つも伝っている。泣きながら眠るだなんて子供みたいだ。恥ずかしくて少しだけ俯いた。


「ううん、何でもない。寝ぼけてただけ」


 鶺鴒の縁だの胡蝶の性だの、眞宏に話しても笑われるだけだろう。私は誤魔化すように笑った。


「……本当に?」


 眞宏が怪訝そうな表情を浮かべる。


「本当。何かあったら必ず眞宏に言うわ」


 眞宏はまだ何か言いたそうだったのだけど、私は口を開いた眞宏を見て見ぬ振りして言葉を割り込ませた。


「それより、雨宮陛下には会えたの?」


「雨宮陛下には会えたよ。ちゃんと一筆して貰えた。堅州と葦原の国交正常化させよという試練を達成させるためということに関しての全権限は久我灯子 ーー基、中原灯子に一存するって」


「ありがとう、眞宏。私の方も上手く行くと思う。明日の夜明けにもう一度、日色様と会って結果を聞く約束をしたけど」


 話は順調に進んでいる。あとはこの集めた手札をどう切るかをよく考えなければならない。

 高天原の香我美は手強い。私みたいな子供に何が出来るかは分からないし、とても怖いけど、それでも私が出来る精一杯で挑むしかない。私には大きな大きな夢があるのだから。


「俺も日色に会いに行く。灯子と一緒に!」


「別に良いけど、急に大きな声を出してどうしたの」


「べっつにぃー。妹に変な虫が付かないように牽制しに行くだけだもん」


 唇を尖らせる眞宏を苦笑いする。


「日色様が私なんかを相手にするわけないじゃない」


 日色は夜之食国の帝なのだ。決められたら許嫁がいるに違いない。そもそも日色が恋だの愛だのと言っている姿が想像できない。

 眞宏はまだ納得がいかないと言った様子であった。眞宏は心配し過ぎなのだ。私は彼が言うほど魅力的な人間でも価値のある人間でもないのだ。


「まあいいじゃん! 俺が心配なんだから!」


「いいけど……。日色様には変なこと言わないでね。これは葦原を賭した戦いなんだから」


 賭かっているのは葦原ばかりではない。夜之食国も堅州も狐ヶ崎組も、私たちの命も賭かっている。

 これは子供の遊びじゃない。雨宮が私に一部とはいえ全ての権限を渡してくれているのだ。自由に動ける代わりに大きな責任が伴う。そう考えると怖くてむしろ身動き出来なくなってしまう。

 分かっていたことなのに、今更ながら緊張で震えてしまっている。


「明日はまず日色様に会って協力を得てから、直ぐに高天原に入る。香我美帝に謁見して蠎さんを解放して貰う。堅州と狐ヶ崎組を認めて貰えれば万々歳だけど、無理だろうから……」


「香我美にそう簡単に会えんの?」


「香我美帝はほとんど皇居から出ないらしいから皇居にいるはいると思うし、雨宮陛下と日色様の免状を貰えれば香我美帝に会うだけの手筈は整ってるから」


 だから会えると思うけれど、確証はない。そして会えたところで簡単に蠎を解放してくれるとも思えない。考えれば考えるほど不安定な計画だ。


「ごめん……、もっと上手く回せれば良かったんだけど……」


 自分の未熟さが嫌になる。

 しかし眞宏は突然ふわりと私を抱きしめた。着続けている制服の埃っぽさと、男子学生の間で流行っていると噂の舶来の香水が混ざったみたいな匂いがする。久しぶりにこんな近くで嗅いだ眞宏の香りに何故かどきりとした。


「眞宏……?」


 取り敢えず抱きしめ返してみたけど、動揺して声が裏返ってしまっていた。

 しばらくして眞宏は私から離れた。ちらりと眞宏の顔を伺うと、とても優しく微笑んでいた。


「明日、頑張ろうな」


「う、……うん」


「じゃー、明け方までトランプしてよ!」


 眞宏はさっと制服のポケットからトランプを取り出した。

 そして何故か明け方までトランプゲームに付き合わされたのである。

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