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花のおとめ三国史  作者: 高梨いろは
葦原編
16/22

月は甘く香る

 学院前停留所に降り立つと、何故かそこに日色が立っていた。今夜は月の綺麗な夜だったので、闇に紛れる黒の学ランも彼の髪の毛もはっきりと見ることが出来た。

 私が停留所に足をついたことに気付くと、彼は伏せていた深紫色の瞳を僅かに上げて、小さな声でただ一言だけ、待っていたと言った。


「私がここに来ることを、知っていたのですか」


 日色は神秘の国である夜之食国の帝であり、大和三国でも高名な占い師であるから、私がここに来ることを占うなど朝飯前なのかもしれない。


「満月の夜は我が領分。この八尺瓊勾玉やさかにのまがたま夜見よみてくれる」


 日色の首に掛かっている八尺瓊勾玉は、夜之食国に伝わる三種の神器だ。

 飾り尾を含めて一尺半ほどの長い緒に、瑪瑙の勾玉が付いている首飾り。日色はこれを使って夜見をする。


「では畏れながら、私がここに来た理由もご存知ですか」


「知っている」


 満月が日色と私を淡く照らす。月に照らされた彼は果敢無はかなく美しく、まるで月の精であるかのようだった。

 形のよいうりざね顔も、長い睫毛も透き通るような肌も、神の寵愛を受けたとしか思えぬほど完璧な美しさだ。


「では、お願いです。高天原の香我美帝に捕らわれている根之堅州國の頭目、蠎さんを助けるための助力をお願いします」


 夜之食国は中立国である。

 国交はあるもののぎくしゃくとしている高天原と葦原。夜之食国はどちらにもつかず、傍観を決め込んでいるのだ。

 だから日色はきっとこの申し出を断るだろう。しかしここで折れてはいけない。何とかして協力をしてもらわなくては、私は皇帝になるための課題もこなせなくなるし、タノジに殺されてしまうのだ。


 だからどうかお願いしますと深々と頭を下げた。


「何故、彼を助けたいのか」


 鈴の音のように心地良い彼の声が、静寂を貫いて私へと届く。

 何故、そんなことを聞くのだろう。だって理由なんて単純明快だ。わざわざ言うまでもないことである。


「彼を助けるということが、私が正しいことだと思ったからです」


 私が蠎さんを助けることで雨宮の出題した課題を達成出来るかもしれないという理由はもちろんある。その他にも、堅州に通ううちに狐ヶ崎組の皆に絆されてきたとか、香我美のやり方が気に入らないとか、たくさんの理由もある。

 正しいと思ったという言い方が適切なのかは分からないが、理由はこういうことだ。


「正しいこととは」


 抑揚のないテノオルが私に問う。

 それがまるで先生に怒られているかのようで、私は少しだけ緊張してしまう。黒のプリーツスカートを握り締めた。

 緊張しながらも私は日色を見つめる。私は小刻みに震えるけど、彼は全く動揺することなく真っ直ぐに深紫色の双眸で私を見つめている。


「正しいこととは……私がそうしたいと、そうやりたいと、願ったことです。私が全責任を負ってでもやりたいと決めたことです」


 先ほど眞宏と別れたときのように、ざわと風が私の頬を撫でた。その風は頭が痛くなるほど甘い匂いがした。温めた蜂蜜よりも湯立てた水飴よりも、庭いっぱいの薔薇園よりも、ずっとずっと甘い匂いがする。

 これは、日色の匂いだ。初めて抱き止めて貰ったときに嗅いだ、日色の匂い。


「蠎は指定暴力団である狐ヶ崎組の幹部だ。そして堅州は今や悪の巣窟。そんな輩を助けて万が一のことがあったら、ーー……本当に君は責任が取れるのか」


「それ、は……っ」


「どうやって責任を取るつもりなのか」


 淡々と言葉を告げられて、思わずどもってしまう。

 もう迷わないと決めたつもりなのに、私はやはり迷ってしまう。私はいつもそうだ。優柔不断で流されやすくて、何一つとして自分の力できちんと決めることが出来ないのだ。

 そんな自分がとても情けなくて、ぎゅうっと胸の真ん中辺りを締め付けるかのような痛みを感じて、この場から逃げ出したくなった。

 その時、ふと眞宏の言葉を思い出す。


ーー俺は信じてるから。灯子の選んだ道を信じてる。俺は灯子の選んだ道を一緒に歩いてく。


 眞宏はこんなに弱い私を信じてくれている。そう思うと不思議と力がみなぎってくる気がする。

 大丈夫だ。私のことを信じている人がこの世界に一人でもいる限り、私は負けない。


「万が一のことなんて起こしません」


「過信は身を滅ぼす」


「卑屈は国を滅ぼす。だったら私は身を滅ぼしても、国を生かす」


 沈黙がどのくらい続いたのだろう。月に叢雲が掛かり花の間に風が吹き渡ったとき、日色が口を開いた。


「灯子」


 とても優しい声音で、日色に名前を呼ばれた。驚いて目を見開く。

 普段は君とかおまえとか名前を呼ばれても苗字なのに、唐突に名前を呼ばれた。それだけでも吃驚びっくりなのに、聞いたこともない優しい声で名前を呼ばれた。


「解った。検討しよう。私の一存では決めかねるが、善処はする」


 平生の抑揚のない声音に戻った日色は、私に背を向けた。寮に戻ろうとしているのだろう。


「期待していても大丈夫なのですか」


 社交辞令なんていらない。正直な言葉で語って欲しいのだ。

 日色の背中に話し掛ける。すると日色はゆっくりと振り向いた。叢雲が避けて月光が再び差して来る。その月光を背負う日色はとても美しくて、現実ではないみたいだった。


「構わない。明日の夜明けに、もう一度、此処で逢おう」


 甘い、匂いがする。これはきっと月の匂いだ。闇夜に甘く溶ける月の匂い。

 蝶を誘う花のように、満月はその甘い蜜のような芳しい香りで迷える人々を誘うのだろう。


「分かりました」


 明日の夜明けに返事を貰える。しかも期待しても良いという。いつの間にか震えが消えて、私は期待に胸を膨らませていた。

 私が頷いたのを確認した日色は、再び背を向ける。


「今宵は蠱惑の満ち月。惑わされるなよ」


「蠱惑の満ち月?」


「胡蝶を夢に誘う満月のこと。君も私も胡蝶のさがを持つ故、気を付けぬと夢に誘われて帰って来られなくなる」


 日色の言っていることが全く分からない。

 蠱惑の満ち月も胡蝶の性も、夢という言葉の意味も全く分からない。


 質問を投げ掛けようと月から日色へと視線を動かしたときには、そこにはただ花びらが風に舞うばかりであった。

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