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パスタに落ちて

作者: 宣芳まゆり
掲載日:2012/04/08

寝室のダブルベッドにもぐりこむと,ラルフは澄香すみかに向かって,こっちにおいでと両手を広げた.

にこにこと,満面の笑みを浮かべている.

澄香は,立ちつくした.

すると彼は,灰色がかった青色の瞳を大きく開いて,しゅんと肩を落とした.

顔をうつむけて,悲しんでいる.

しかし何を考えたのか,唐突に寝間着のシャツを脱いだ.

鍛えているらしい上半身の筋肉を見せて,どうだ! とアピールする.

澄香はぽかんと口を開けたが,放心している場合ではないと説得を始めた.

「落ち着いてちょうだい,ラルフ.さっきから何をやっているの?」

彼はぐしゅんと,くしゃみをする.

やはり寒かったのだろう.

「それは僕のせりふだよ,澄香.なぜベッドに来ない?」

シャツを着て,すねたように唇をとがらせる.

「ベッドをともにするなんて,契約書にはないじゃない.」

澄香は冷静に反論する.

ラルフと澄香は今日,結婚した.

だが,愛を交して結ばれたわけではない.

「この結婚はあなたが,あなたのおじい様の遺産を相続するためにしたものよね?」

つまり,便宜上のものである.

ラルフはにこっと笑んで,もちろんと答えた.

「僕の一族は,結婚しないと一人前だと認めないのだよ.」

彼は,一見するとただの売れない小説家だが,実は大金持ちの一族の一員である.

親族には,愛を忘れた青年実業家だの,復讐を誓ったプレイボーイだの,強引な砂漠のシークだのがいる.

ちなみに澄香は,ごく普通の二十七才の日本人である.

同期の中で一番英語ができるという理由で,ここニューヨークにあるアメリカ支社で働いている.

ラルフとの出会いは,いつもランチを食べるお気に入りのレストランが同じなのである.

「いい,ラルフ?」

幼子に言い聞かせるように,優しく話しかけた.

「この結婚は偽装のもので,私たちは仮面夫婦.あなたが遺産を相続すれば,速やかに離婚する.」

だからベッドを別にするのは当然であると説く.

しかしラルフは首を振って,ため息を吐いた.

「澄香.君は魅力的な女性だけど,物事を固く考えすぎるきらいがある.」

あなたみたいに柔らかくて,ふにゃふにゃなのよりはマシだと思った.

「結婚しているのにベッドで愛し合わないなんて,ありえない!」

彼はこげ茶色の髪をかきむしって,騒ぎ始める.

「紙切れ一枚だけの薄っぺらい間柄でも,温もりを与え合うことはできるはずだ!」

ラルフと澄香の契約書は十枚以上あり,なかなかのボリュームだったのだが.

とりあえずここは突っこまない方が無難だと,澄香は判断した.

「でも,ラルフ.私はあなたのように,気軽にセックスを楽しめない.」

男性と付き合ったことさえないのよ,と情に訴える.

ラルフは,意外そうに目をまばたいた.

「そうだったのか.君は経験豊かで,男をまどわす罪な女性に見えたけれど,実は純情だったのか.」

さらりと相当に失礼なことを言って,ベッドから降りる.

てくてくてくと歩いて,寝室から出て行った.

ここは二人の新居のマンションで,隣室はリビングである.

ソファーがあるので,彼はそこで眠るつもりなのかもしれない.

つまり澄香が処女なので,気を使ってくれたのだ.

だが,嫌な予感がする.

澄香はそぉっと扉を開いて,隣室をのぞいた.

するとラルフは,やったー! とガッツポーズをしている.

喜びに打ち震えて,もう一度こぶしを突き上げてから,ひゃっほーいと小躍りした.

澄香は口もとをひきつらせて,心の底からドン引きする.

静かに扉を閉めて,がちゃりとかぎをかけた.

さすがに気がついたのか,だだだっとラルフが扉に駆け寄る音がする.

「澄香,君を決して後悔させない.すばらしい夜にすると約束するから,朝まで僕と楽しもう!」

「絶対に嫌!」

一瞬のためらいもなく断った.

「しばらく内緒にして,劇的なタイミングで告白するつもりだったけれど,――実は君を愛しているんだ!」

「信じられない!」

ベッドへ誘うための口説き文句にしか思えない.

しかも,劇的なタイミング?

これだから小説家は手に負えない.

「君だって僕を愛している! だから偽装とはいえ,結婚してくれたのだろう?」

ぎくりとした.

が,大声で言い返す.

「うぬぼれないでよ,このお調子者のお坊ちゃま! 結婚しないと遺産が相続できないって,いつの時代の話よ!」

すると扉の向こうは,しんとなった.

さすがに,言いすぎたのだろうか.

それに最後の方は興奮して,英語ではなく日本語でしゃべったのかもしれない.

澄香は,どうしようと悩んだ.

彼を愛している.

けれど,いきなり貞操を失う事態は避けたい.

いや,すでに結婚したので,純潔を守る必要はないのだが.

さらに,日本にいる両親も結婚を祝福して,――より正確に記述すれば,ラルフがハンサムなので母がはしゃいでいるのだ.

ちなみに父は,過剰なスキンシップをする彼に腰が引けていた.

そんな陽気で明るいラルフの沈黙は,澄香を不安にさせる.

食べていたソフトクリームを落として,泣いている男の子の姿が脳裏に浮かぶ.

とてもかわいそうで,よしよしと頭をなでて,なぐさめたくなる.

「ごめんなさい,ラルフ.」

澄香は扉を開いて,謝罪した.

「私が悪かったわ.言いすぎ,」

ところがそこに立っていたのは,にんまりと笑う大人の男.

「大丈夫.夜は長いのだよ,澄香.」

がしっと澄香の肩を抱いて,白いベッドを目指す.

「あぁ,君は焼きたてのピザのように,おいしそうだ.」

微妙なたとえだと,後悔しても後の祭.

昼食のパスタごと皿を落として,頭を抱える彼に声をかけたときから,結末は決まっていた.

ハンカチを差し出す澄香に,天使が降りてきたとラルフがつぶやいて.

ハッピーエンドは,お約束.

うその結婚が,本当になるのもお約束.

十枚以上ある契約書をびりびりと破いて,二人の甘い夜はこんな風に始まった.

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