覚めない悪夢
秋穂が目を覚ましてしまったのは本当に偶然であった。
疲れたという理由で早めに床についてしまったからかもしれないし、あるいは久しぶりに兄に会って興奮していたのかもしれない。兎も角、秋穂はふと目が覚めてしまった。
ちょうどタイミングよくトイレに行きたくなってきたので、秋穂は部屋を出た。階段までの途中、兄の部屋がある。秋穂はその部屋の前に立ち、そっと耳をそばだてる。
兄はまだ起きているだろうか。アニメなんか見ていないだろうか。ドアを開けてしまいたい衝動を抑えながら、精神を集中してドア越しに中の様子を伺う。物音ひとつしない。静かなものである。もう寝てしまったか、あるいはまだ下にいるのか。ひょっとすればお風呂に入っているかもしれない。秋穂は、ドアから顔を離した。
一階に下りてみると、リビングから明かりが漏れていた。兄だろうか。もしそうなら脅かしてやろう。
そう思って忍び足でリビングに近づく。いるのは兄であろうかと確認するためリビングを覗き込んでみる。次の瞬間、秋穂は絶句し凍りついた。
兄とカノンが見詰め合っていた。しかも、かなりの至近距離で。ちょうど秋穂から見ると、兄は背中を向けているのでその表情は伺えないが、カノンは顔を赤くしながらも潤んだ瞳で兄を凝視していた。
秋穂はすぐにでもわざとらしい足を音を立てたりして二人を引き離したかった。しかし、体が震え、動くことができなかった。
そうしている間も兄とカノンは見詰め合っている。やがて二人の顔はさらに近づき、そして唇を重ねあった。
「……!!」
秋穂は目を覚ました。文字どおり、跳ねるようにして起き上がった。ひどい寝汗だ。
「なんて夢を……」
声を出そうにも喉が渇いていて掠れてしまう。秋穂にとってはそれほどの悪夢であった。
悪夢。そう。今、秋穂が見ていたのは夢である。しかし、途中までは秋穂が現実に見た光景と同じであった。見詰め合う兄とカノン。そこまでは昨晩、秋穂が見た光景そのものであった。その後二人は唇を重ねあっていない。しばらく見つめ合った後、気まずそうに顔を背けたのだった。
美緒は、二人の間には何の感情もないと言った。しかし、秋穂はそう思っていない。やはり二人の間には、二人にしか分からない何かしらの紐帯があるのだ。そうでなければ、恋人同士のように見詰め合うことなんてしないだろう。その紐帯が何であるか?秋穂は知りたいと思うものの、知ってしまうのが怖くもあった。
「あれ?どうして私、部屋で寝ているのかしら……」
ようやく秋穂は、自分が置かれている状況に疑問を持った。確か美緒と別れた後、兄のいるクラブの部室に向かったはずなのに、自室のベッドで寝ているなんて。
「ああ……」
思い出した。兄のあられもないメイド服姿、しかも脱がされそうになっているのを見て失神したのだ。その後兄が連れ帰り、寝かせてくれたのだろう。
メイド服姿はあれであれで可愛い……じゃなかった。女装をするようになるなんて、兄もオタクとして行き着く所まで行き着いてしまったのだ。いや、オタク云々以前に、ひとりの男として何かを失ってしまったに違いない。
「もう、兄さんのことが分かりません」
今や兄と間にあるのは溝ではない。溝ならば相手を見ることができる。しかし、今の秋穂には兄の姿がまるで見えなかった。そして兄の方からも自分のことが見えていないだろう。
そうなると二人の間にあるのは巨大な壁である。乗り越えることができない、天高く聳える壁だ。
「兄さんと会えるのは嬉しかったはずなのに……」
結果としては嬉しいどころか、苦しむ羽目になってしまった。帰ってこなければよかった、と思い始めるぐらいであった。
しばらく思考が纏まらずぼんやりとしていると、くぅぅと腹の虫がなかった。どんなに気分が沈んでいても、腹は減るらしい。そんな人の摂理がなんとなく恨めしかった。
「あ、今日は私が作ると言ったのに……」
時計を見ると午後七時を回っていた。軽く自己嫌悪に陥る。きっと手際のいい兄のことだ。もう夕食の準備を終えているだろう。今日ばかりは兄に甘えてしまおう。そもそも、こういう事態になったのは兄のせいなのだ。
階段を下りると、やはりリビングから照明が漏れていた。時間帯こそ違え、昨晩と同じような光景だ。胸が熱く、痛くなるのを感じながらリビングに近づく。
兄に何と言うか。家まで連れて帰ってくれたことに、素直にありがとうと言うべきか。それとも女装をしていた兄を非難すべきか。迷いが生じ立ち止まってしまった秋穂は、そっとリビングのようすを覗き見た。
楽しそうに夕食を食べている兄とカノンとレリーラの姿があった。
「それにしても傑作だったわね、シュンスケのメイド姿。いつでもメイド喫茶で働けるじゃない」
「おいおい、それはメイド喫茶を崇拝する者に対する冒涜だぞ。そもそも女装メイド喫茶なんて嫌過ぎるだろう」
「いやいや、それは分からんで兄ちゃん。世の中にはあの眼鏡の姉ちゃんみたいに物好きもおるからな」
そこに仮に秋穂がいたとして、この会話には入れないだろう。とても入り辛かった。兄と楽しく食卓を囲むのは自分のはずなのに……。
泣きたくなってきた。いや、すでに目頭が熱くなり、零れる涙を止めることができなかった。
秋穂は踵を返し、階段を静かに駆け上った。そのまま部屋に篭り、ベッドの上で声を押し殺して泣いた。
これも悪夢なら早く覚めて欲しい、と懇願しながら。




