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妄想ファンタジスタ  作者: 弥生遼
その十四、Do I need you?
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枝豆と芋焼酎

 ぴぴぴ、という電子音が鳴り響く。

 それほどの音量ではないが、無機質な音が一定のリズムで鳴り続けていると鬱陶しくなってくる。

 アラーム音が鳴る前から薄っすらと覚醒していたデスターク・エビルフェイズは、布団の中から手を伸ばし、目覚まし時計のスイッチを押す。鳴り止むアラーム音。もう少し寝ていたいという欲望を押し殺し、デスターク・エビルフェイズは起き上がった。

 八畳の狭い部屋。あまりにも見慣れた光景。今となっては、この貧相なねぐらについて、何の感慨も抱かなくなってしまった。

 魔界の王と恐れられ、混沌と絶望の象徴であるデスターク・エビルフェイズであったが、こちらの世界ではどういうわけか山田というサラリーマンの姿になっていた。

 もともと山田なるサラリーマンがいて、デスターク・エビルフェイズがこちらの世界にいる間だけ憑依しているのか。

 それともデスターク・エビルフェイズが単に山田なるサラリーマンとなっているだけなのか。

 どちらであろうと考えた頃もあったが、今ではどうでもよくなっていた。考えるのも疲れた。

 「う、う……ん。今日も腰が痛いな……」

 ここ一週間ほど腰痛に悩まされていた。ちょっと動くだけでぴりぴりと痛む。帰りに湿布薬を買って帰らないと。

 よいしょ、とため息交じりに言い、ゆっくりと起き上がる。そして、目覚ましを止めた右手をじっと見つめた。しわがれた、薄汚れた手だ。

 『はたらけど、はたらけど……か』

 石川啄木の代表歌が脳裏に浮んだ。こちらの世界に来て知った歌で、それを読んだ瞬間、デスターク・エビルフェイズは涙しそうになった。

 懸命に働いても生活が楽にならない、報われない悲しさ。それがデスターク・エビルフェイズの荒んだ心にダイレクトに響いたのだった。

 自分を無視して勝手に作戦を推し進める部下。

 禿禿と連呼し、尊敬や畏敬の念をまったく見せない部下。

 哀れみ、同情して戦ってくれる敵。

 魔王としての生活に疲れてしまったデスターク・エビルフェイズは、魔王としての生活を捨て、こちらの世界で山田として生きることにしたのだ。

 いや、山田としての生活も、そう大差ない。上司からは罵られ、後輩からは影口を叩かれる日々である。しかし、魔王の頃よりましだと思っている。

 魔王の頃は、地位的にはトップにいたのに散々コケにされ続けてきた。しかし、山田はすでに地位としてはすでに最下部にいる。コケにされたところで傷つくプライドなどない。だからましなのだ。

 「さて、会社行くか……」

 日常というルーチンワークの中に埋没すれば、嫌なことも一時的に忘れてしまう。デスターク・エビルフェイズは、そういう生き方にすっかりと慣れてしまっていた。


 「一体、これはどういうことなんですか!ええっ!」

 午前十一時五十分。もうすぐで昼飯という時間になって、上司である海藤課長に呼び出された。何事かと思って課長の席まで行くと、いきなり罵声を浴びせられた。口調こそ丁寧だが、オフィスの隅々にまで届く大音声だ。

 「何でしょうか?」

 デスターク・エビルフェイズは、明らかに年下の上司に尋ねた。

 「何でしょうか?じゃないですよ!この見積、計算間違っていますよ!」

 海藤が今朝提出した見積書を突き出してきた。じっくり見てみると、合計金額が確かに間違っていた。

 「あ、すみません……」

 「すみませんじゃないですよ!まったく、いつになったエクセルの計算式を覚えるんですか?まったく!」

 異世界の魔王がエクセルなんて使いこなせるわけないじゃないか、と心の中で呟く。

 こういうやつに限って、本来の姿のデスターク・エビルフェイズを目の前にすれば、泣き叫び失禁するのだ。そう考えると、ちょっとは気分が良くなった。へへん、ざまぁみろ。

 午後一番に再提出してくださいね、ときつく言い、海藤は席を立った。その厳しい物の言い方に竦んだデスターク・エビルフェイズは、はい、と消えそうな声で言った。

 間違った見積書を片手にとぼとぼと席に戻る。昼飯の弁当を食べようと思ったが、その前に見積書を直すことにした。該当するファイルを開けてみると、確かに計算式が間違っていた。ケアレスミスだ。

 さっと直して、電卓で再計算。今度こそ間違っていない。ちゃんと保存し、弁当を片手に席を立った。弁当を食べる場所はいつも決まっている。ビルの屋上にある緑地庭園だ。その前に給湯室に寄ってお茶をいただいていく。

 「見た?山田さん、また海藤課長に怒られていたの?」

 給湯室の一歩手前、中から聞こえてくる女性社員達のひそひそ話に、デスターク・エビルフェイズは、思わず歩みを止めた。

 「見た見た。山田さんって海藤課長よりも随分年上でしょう?それなのに、ねぇ?」

 「そういえば、山田さんって渡会部長と同期でしょう?」

 「うっそ~!信じられない!」

 「しかも渡会部長って、来春取締役になることが内定しているんだって。それに比べ、山田は……」

 くすくす、と人を馬鹿にしたような笑いが漏れる。

 「うちも旦那にはああはなって欲しくないわね。五十を越えて平社員じゃ話にならないわよ」

 「あれ?山田さんって独身でしょう?前に奥さんがいたかどうかは知らないけど……」

 「奥さんがいても、あれじゃ逃げるわね」

 「あんなのと結婚しようとも思わないけどね」

 くすくす。くすくす。悪意に満ちた忍び笑いがガラスのハートをきつく締め上げていく。ふ、ふん。ああいう女に限って、本来の姿を見れば、恐れ戦き、泣いて媚を売ってくるんだ。

 デスターク・エビルフェイズは、泣く泣くお茶を諦め、足早に給湯室から離れた。


 「あー、駄目駄目。こんな金額じゃ話にならないよ」

 午後二時。修正した見積書を手に、得意先を訪問したのだが、一目見るなり突き返されてしまった。先方の社長は、横柄に足を組みながらへくしょんと大きなくしゃみをした。

 「あ、はぁ……」

 「はぁ、じゃないよ。よそは同じ条件でもっと安く見積もってくるよ。今時この金額じゃ、どこに行っても通らないよ」

 「申し訳ないです」

 謝られてもね、と嘆息しながら社長はお茶を飲む。薄いなぁ出涸らしかよ、とお茶にまで悪態をついた。

 「それにしても天下のT商亊さんも落ちたもんだ。一昔前なら、こんな見積書を持ってこなかったよ」

 「申し訳ありません」

 「辛気臭いなぁ、君は。前の担当の海藤君は、溌剌として元気良かったのになぁ」

 「はぁ、申し訳ありません」

 だから謝られても困るんだけどね、と社長は鼻をほじりだした。

 「では、見積の方を再提出させて頂きます」

 「ああ、もういいよ。この件に関しては他で決めることにしたから」

 「そ、そんな……。次は良い条件でお出ししますので、もう一度だけ」

 「こっちも納期があるからねぇ。そうのんびりとはしていられないんだよ」

 と席を立つ社長。受付に向かって、お客さんのお帰りだよ、と強調するように叫んだ。

 

 「じゃあ、お疲れ様で~す」

 午後六時。帰社したデスターク・エビルフェイズは、次々と帰る社員を尻目に、今日の結果を海藤に報告。成約がゼロ件だったので、三十分近くどやされた。ようやく解放され、自分の席に戻った頃には、部署の人数は半分以下になっていた。そういえば、今日は金曜日だったか……。

 なんとなく帰りづらかったデスターク・エビルフェイズは、月曜日に持って行く見積書のチェックをしているふりをした。デスターク・エビルフェイズとしても金曜日なので早く帰りたかった。しかし、少なくとも、海藤が帰るまでは席を立つわけにはいかなかった。

 午後七時を過ぎて、ようやく海藤が帰ったので、その十分後にデスターク・エビルフェイズも席を立った。

 午後八時半。一時間ばかり電車に揺られ、自宅の最寄り駅についたデスターク・エビルフェイズは、そのまま駅前の居酒屋『福ちゃん』の暖簾を潜った。ここで一杯やりながら、夕食を取るのが毎週金曜日の楽しみであった。

 「いらっしゃい。今日は遅いね、山さん」

 店内に入ると、揚げ物をしていた大将がいつものように応じた。週末ということもあって、店内は一杯だった。しかし、デスターク・エビルフェイズの特等席であるカウンターの一番端っこは、空席だった。

 「今日は忙しくってねぇ。あ、とりあえずいつものね。それと後で煮魚定食」

 あいよ、と威勢のいい返答をする大将。するとすぐに女将さんが付け出しの枝豆と芋焼酎のロックを運んできた。

 枝豆を食べながらちびりちびりと芋焼酎を飲む。ささやかながらも、これほどの至福の時間はなかった。

 一杯目の芋焼酎の飲み干したところで、頼んでいた煮魚定食が運ばれてきた。このあたりのタイミングは、流石大将。心得たものである。

 煮魚定食を食べ終えて、腹具合はちょうどいい塩梅になったが、まだまだ飲み足りない気分だった。なので枝前と芋焼酎のセットをもう一度頼む。

 「今日はどうしたんだい?いつもは一杯だけなのに」

 「気分的に飲みたくなっただけだよ。男にとって仕事の疲れを忘れさせてくれるのは、やっぱり一杯の酒だよ」

 今日はやけに詩人だねぇ、と言いながらすぐに枝豆と芋焼酎が出てきた。

 そこからデスターク・エビルフェイズの記憶はひどく曖昧なものになっていった。さほど飲める方ではないのに、酔いに任せて何杯もおかわりを繰り返し、酒量が増えていったらしい。

 「バーロー!余を何だと思っている!魔王だぞ!魔王!」

 「余が吼えれば、みんな泣いてひれ伏して許しを請うんだ!」

 「何が禿だ!禿で悪いか!あばずれ!」

 「エクセルが使えなくて悪かったな!余は火が吐けるんだぞ、火!」

 「海藤がなんだ!渡会がなんだ!サリィがなんだ!余は、余は、魔王なるぞ!偉いんだぞ!」

 薄っすらとした曖昧な記憶の中で、そのような愚痴を誰に聞いてもらうでもなく、口にしていたような気がする。あっちの世界の愚痴、こっちの世界の愚痴。愚痴愚痴愚痴。冷静になってみれば恥ずかしい限りだが、溜まりに溜まった愚痴が、とめどなく吐き出していった記憶がおぼろげながらあった。だが、それが事実だと確信できないほど、その時のデスターク・エビルフェイズはしたたかに酔っていた。

 「山さん、これはおごるから、今日はこれでやめときな」

 大将がそっと最後の芋焼酎を差し出した時には、もう店内にいる客はデスターク・エビルフェイズだけだった。飲み疲れて眠る一歩手前の状態だったデスターク・エビルフェイズだったが、その大将の優しさだけは後々になっても鮮明に覚えていた。

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