そして彼女は天使になって
僕は再び走り出した。
学校へ向かう時とは違い、漆原商店の三叉路を直進する。そこからしばらく住宅街の狭い道路を行くと、灰色の防音ネットに囲まれた建築物群が見えてきた。確か大手ゼネコンが高層マンションを数棟建てようと計画していたが、おりからの不況で計画が頓挫。あげくにはそのゼネコンが潰れてしまい、建設予定地は建築途中のコンクリートの塊が完全放置プレイ状態であった。
「ここなの?」
カノンが不気味そうに防音ネットを見渡した。
「三丁目の工事現場ってここしかないはずだが……。何か感じないのか?魔王の気とか、魔力とか」
「何も感じないわ。でも、ここなんでしょう?入ってみれば分かるわよ」
問答無用とばかりにフェンスをよじ登るカノン。うん、分かっていたよ。こういう直接的行動の方がカノンらしい。僕も続いてフェンスを乗り越えた。
続いて防音ネットを捲り中に入ると、コンクリートむき出したの無骨な建築物が碑のように佇立していた。各階とも窓にはガラスがはめ込まれておらず、とりあえずコンクリートの箱はできました、という感じであった。
「ここまで作ったんだから、もう少し頑張れよって感じだな」
箱の中に入ると埃っぽかった。僕の先を行くカノンもけほけほと咳をしていた。
「ここにはいないよね」
ワンフロアはそれほど大きくないが、コンクリートむき出しのせいか、カノンの声がよく響いた。
「こうやって一階ずつ見ていくのか?きりはないぞ」
この建物自体、何階あるか分からないし、これと同じ建物がまだ数棟あるのだ。一階一階探索しているようでは、日が暮れるどころか夜が明けてしまう。
「ねぇ、これってどうやって上にあがるの?」
「どうやって……って」
階段とかエレベーターとかあるだろうと思っていたが、よくよく見てみると階段もエレベータも見当たらなかった。おそらくエレベーターが設置される予定だったのだろう、煙突のような上へと伸びる細長い空間があるにはあった。しかし、上へと移動できる機械はおろか、よじ登るための出っ張りすらなかった。
「どうするのよ?」
カノンが傍に来て一緒に見上げる。また声が響いた。この建物に魔王デスターク・エビルフェイズがいれば何かしらの反応があるはずだ。それがないとなれば、少なくともここにはいないと判断していいだろう。
「まぁ、ちょっと試してみるか」
他の建物を探索する必要があるが、その前にどうにかして上階へ行く手段を見つけておかなければならない。僕はモキボを出した。
「ああ、それを使うわけね」
「そうだ。お前をサリィから助けた時も、こいつでゴンドラを出現させたんだ。だから、ひょっとして……」
僕はモキボを打つ。
【上へ向かうゴンドラが出現した】
エンターキーを押すが、何も起こらなかった。これは物語として認められなかったらしい。
「まぁ、こんなコンクリ打ちっぱなしにゴンドラはないよな」
「どうする気よ?手に吸盤でもつけてよじ登る?」
それもありか、などと思ってしまったが、物語として許されるかどうか微妙だった。手の吸盤でロッククライミングするヒロインなんて見たくない。
「そうか……、何もものに頼る必要はないのか」
僕はぴんと閃いた。これならいける。物語としても合格のはずだ。
「何?何か名案でも?」
「ああ。名案中の名案だ。カノン、かっちょよくしてやるぞ」
僕は意気軒昂としてモキボを叩いた。
【カノンの背中から光の羽が出現した。カノンは、天使のように羽ばたくことができるようになった】
カノンの背中から神々しいまでに光り輝いた羽が二枚、左右に出現した。ばさばさと羽ばたくたびに光の粉が鱗粉のように舞い落ちる。
「うわっ!何これ?す、凄い!」
ふわっとちょっとだけであるが、カノンが宙に浮いた。おお、普通に凄いぞ。
「自分でコントロールできるのか?」
「う、うん。頭で考えたとおりに、宙に浮くみたい」
「よし。ちょっと外に出てみよう」
僕とカノンは建物から出た。見渡した限り、同じような防音ネットに囲まれた建物が三棟はあった。
「よし!カノン。ちょっくら行ってこい。魔王をぶちのめしてこい!」
「ま、待ちなさいよ。シュンスケが一緒に来てくれないと、私、戦えないじゃない」
「そうかもしれんが、おそらく僕に羽根は生えんぞ。モキボはお前にしか通用しないようだからな」
「しょ、しょうがないわね。私が運んであげるわ」
「お、おう。でも、どうする?」
カノンに負ぶさるか?それともお姫様抱っこしてもらうか?どちらにしても、カノンには負担になる。
「まぁ、お前は怪力だから、僕ぐらい持ち上げられるだろ?……痛っ!蹴るな!お前のローキックは洒落にならん!」
「じゃあ……。こうしましょう」
カノンが正面から抱きついてきた。両手を首に回し、ぎゅっと身を寄せてくる。顔は真横にあり、頬同士がわずか触れた。
「ちょ、お前!」
「う、動かないでよ!」
カノンの体臭が鼻腔をくすぐる。香水のような作られた匂いではない、本当の女の子のいい匂いがした。
それに胸だ。平原とばかり思っていたが、かすかに隆起している柔らかなものが、僕の胸板に押し付けられきた。すまん。今度からは平原と言わず、丘陵と呼ぼう。
「だ、黙らないでよ!何か恥ずかしくなっちゃうじゃない!」
「わ、悪い」
恥ずかしいのはこっちだ……。胸の鼓動が尋常じゃないぐらい早くなっていくぞ……。
待て待て!何ドキドキしているんだ。カノンだぞ、カノン。あの暴力女だぞ。しかし、そう意識すればするほど僕の鼓動が加速していく。
「て、手を腰に回しなさいよ。落ちちゃうわよ」
「う、うん」
僕はそっとカノンの腰に手を回した。腰に触れた瞬間、うふっと小さく声を漏らした。
「変な声を出すな!」
「だ、出してないわよ!あんたが変なところ触るから、くすぐたっかっただけよ」
さぁ行きましょう、とカノンが言うと、ふわりと体が宙に浮いた。うわっ!本当に飛べるのかよ。
「しっかり掴まっていて!」
カノンが速度をあげる。ぐんぐんと上昇し、すでにマンションに十階ぐらいの高度にまで到達していた。
すでに夜の帳はおり、カノンの光る羽は美しく輝いていた。その羽で夜の空を飛行する。幻想的ではあるが、実際にそういう状況を楽しんでいる場合ではなかった。高所恐怖症でなくても、生身でこの高さにいると流石に怖くなってきた。もうドキドキするとか緊張するとか言ってられない。カノンの腰に回している手に力が入った。それに応えるように、カノンも僕のことを力強く抱き寄せてきた。
「何かいる!」
「本当か?」
抱き合っている状態なので、カノンが見えているものが僕には見えなかった。
「うん。一番奥の建物の最上階。あそこだけ布がはがれていて中が見えるの。あっ、何かが動いた」
「中に入る時に防音ネットをはがしたんだろう。最上階まで登ってこられるのは、奴らしか考えられない」
「そうね。行くわよ」
カノンが羽をはためかせ、一番奥の建物に向かう。カノンは細心の注意をはかり、慎重に近づいていく。確かにこの状態で敵に見つかり、攻撃を仕掛けられたらひとたまりもない。カノンはまだ魔法が使えるわけではないし、僕もこの状態ではモキボを使うことができないからだ。
だが、それらの懸念は杞憂に終わった。僕とカノンは、無事に目的の最上階に降り立つことができた。
ふう、これで一安心。僕が脱力してカノンの体に寄りかかったままでいると、
「い、いつまでくっついているのよ!」
カノンが両手で僕を押しのけてきた。
「わ、悪い。地面に足が付いて、気が抜けてしまって……」
「ふ、ふん。それよりも、デスターク・エビルフェイズを探さないと」
カノンはぷいっと僕から視線をはずした。




