捕らわれの女神
イルシーに説教された僕は、結局クラブには寄らず帰宅することにした。
折角、千草さんとお話できて上機嫌だったのに、イルシーの説教のせいですっかりトーンダウン。クラブをするテンションもなくなってしまった。
「まぁ、気を取り直そう。『嬉し恥ずかし弁天さまっ!!』がまだあるじゃないか」
前向きに前向きに。ポジティブシンキングだ。
考え直すと、足取りも軽くなる。ついでに財布の紐も緩くなったようで、漆原商店で駄菓子を買い込んでしまった。その中から『シューマイ棒』を取り出し、ばりぼりと貪る。うん、やっぱりシューマイ棒は餃子味に限るなぁ。一人で食べるには少々買いすぎたからカノンのやつにも食わしてやるか。
などと思いつつ、漆原商店の買い物袋を揺らしながら坂道を下っていると、地元の会社が社宅として借り上げているアパートが見えてきた。その前に明王院の制服を着た女性がいた。
「あれは……」
見紛うはずもない。千草さんだ。声をかけようかどうか逡巡していると、アパートの角からサラリーマン風の男が現れ、千草さんとぶつかりそうになっていた。
くそっ羨ましい奴、と思っていると、なんたることか男は千草さんの手を掴んだのだ。抗うように体を激しく左右に動かす千草さん。
あの男、何をしやがる!痴漢だ!変態だ!露出狂だ!
僕は買い物を袋を投げ出すと、無礼千万破廉恥男に向けて突進した。
「離れろや!こらぁぁぁぁっ!」
威嚇するように叫ぶ僕。男がぱっと顔を上げた。その顔を見た瞬間、僕の足は止まってしまった。
「デスターク・エビルフェイズ……」
その男は、見事な禿頭でご存知、デスターク・エビルフェイズであった。
「ん?貴様は、カノンと一緒にいた小僧ではないか?」
デスターク・エビルフェイズは、僕のことを覚えていたらしく、いやらしく笑った。これが真正の悪役であるならば、小憎たらしく思うのかもしれないが、どっからみても笑い誘うだけであった。
「グフフフッ!ちょうどいい。カノン諸共、葬ってやろう」
こいつ、千草さんとカノンを見間違っているのではないか?だとしたらとんでもない奴だ。万死に値する。
「新田君?これってどういう……」
突然襲われた男が僕と知り合いで、しかも自分とカノンを間違えている。千草さんが困惑するのも無理なかった。千草さん、必ず僕が助けますからね。
「千草さん。そいつは、単なる変態強姦魔です。断じて知り合いではありません。今すぐ助けますから」
「変態強姦魔だと!違う違う!余は、至って真面目な魔王だ」
「聞きました?自分のことを魔王だなんて言ってますよ。ちょっとあれな人なんです。こいつ言っていることは全て妄言。信じちゃいけません」
「おのれ!いい加減なことを言いよって」
怒りに震える魔王。しまった。こいつ、こんななりだけど、実際は結構強そうなんだよな。
「とにかく、彼女はカノンじゃない。さっさとその薄汚い手を離せ」
「ヌフフフッ。こやつがカノンではないだと?面白い冗談だ」
デスターク・エビルフェイズが千草さんのご尊顔をまじまじと見る。僕は、思わず鞄をデスターク・エビルフェイズの顔目掛けて投げてしまった。
「ブゲラァァァァァ!」
鞄はデスターク・エビルフェイズの顔面にクリーンヒット。丸眼鏡を落としてやった。
「そんないやらしい目で千草さんを見るな!」
「小僧ぉ!」
ようやく千草さんの手を離したデスターク・エビルフェイズ。千草さんがこっち駆けてくる。
「ついに余を怒らせたな。その報いは、受けてもらうぞ」
落ちた丸眼鏡を拾う魔王。このまま雌雄を決する戦いが始まる……わけもなく、僕は、千草さんの手を取って、学校側へ駆け出していた。
どのぐらい走っただろうか。とにかく夢中で走り続けていると、
「新田君。ストップ、ストップ!」
と千草さんが息切れした声で僕に止まるよう促した。
「あ、ごめんなさい」
「足、速いんですね。楠木さんが陸上部に勧誘するわけですね」
突然褒められ、僕は照れてしまった。異常に発汗したのでポケットからハンカチを取ろうとして、ようやく千草さんと手を繋いだままの状態だと気が付いた。
「ご、ごめんなさい!」
僕は、ぱっと手を離した。美しい旋律を奏でる千草さんの神聖なる御手を、僕ごとき人間が汚してしまった。ごめんなさい、本当にごめんなさい。
「う、ううん。大丈夫です」
千草さんも恥ずかしそうに手を引っ込めた。怒らせてしまった?嫌われてしまった?僕はいたたまれず、走り逃げたかった。でも、まだ付近にデスターク・エビルフェイズがいるかもしれない。千草さんを一人にするわけにはいかなかった。
「ね、ねぇ?さっきの人、新田君の知り合い……じゃないですよね?」
「そ、そんなわけないじゃないですか!さっきも言いましたけど、知り合いなんかじゃありません。ほら、春先ですからこの陽気でちょっとテンションが高くなっただけですよ」
「でも、カノンさんのことを知っていましたよね?」
うわっ、千草さんって意外と疑り深いな。しかし、それも魅力的だ。
「私って、そんなにカノンさんに似ています?」
あ、千草さんが気にしていたのはそっちの方か。これ以上、あの魔王のおっさんのことで深く追求されたらどうしようと思っていたのだが、とんだ杞憂であった。
「とんでもないですよ!千草さんとカノンなんて比べものになりません!」
教室では不明瞭なことしか言えなかったが、せっかくの機会だ。しっかりと千草さんとカノンが全然違う、まったくの別人であることを主張しておかないと。
「ち、千草さんの方が数万倍お美しいですよ。それに比べてカノンは粗暴で、ちょっとしたことで怒るし、ひん……」
「ひん?」
「い、いや。なんでもないです」
流石に貧乳という言葉を千草さんの前で吐くわけにはいかなかった。
「とにかく、千草さんとカノンはまるでに似てません。別人ですよ……」
「別人……。そうですよね……。私は私ですし、カノンさんはカノンさんですよね」
当然のことを言う千草さん。うん。この人が言うと、当然のことも偉人の格言のように聞こえる。しかし、当の千草さんは、どういうわけか残念そうな顔をしている。
「私、カノンさんのことがちょっと羨ましいです。でも、羨ましがっても駄目ですよね。私は、カノンさんじゃないんですからね」
完璧超絶美人の千草さんが、どうしてカノンのことを羨むんだ?
「だって、カノンさん、新田君と仲良さそうでしょう?私は、新田君とお話しするようになって半年以上になるのに、まだ敬語使われているし……。なんか、ちょっと悔しかったです。似ているなんて言われると、似ているのになんで差があるんだろうって、余計に妙なことを考えちゃったんですよね……」
馬鹿ですよね、と恥じ入るように俯く千草さん。千草さん、そんなことを考えていたのか……。
そして、僕は思い至った。きっとカノンも、千草さんと同じ心境だったのではないか。今になってイルシーのお説教の意味が理解し、得心した。
千草さんは、カノンじゃない。
カノンは、千草さんじゃない。
そうか。カノンの奴、千草さんというフィルターを通さず、自分自身を見て欲しかったのか。
比較なんかもして欲しくない。私は私だという強い自我。カノンは、自分が僕から生み出されたと知っているだけに、そういう自我を人一倍強く持っているのだろうか。
「千草さん、僕は……」
「新田君!後ろ!」
千草さんが悲鳴のような声を上げた。振り向くと、激しく息切れしている禿頭サラリーマンの姿があった。
「なめくさりやがって!小僧!」
デスターク・エビルフェイズは、上着を投げ捨てた。着やせするタイプらしく、意外に筋肉質な体つきをしていた。
「千草さん、逃げて!」
僕は、咄嗟に危険を察知した。もはや単なるギャグキャラではない。
「遅いわ!」
前かがみになって力をこめるデスターク・エビルフェイズ。カッターシャツが背中から破れ、蛸の足のようなものが伸びてきた。しかも、あろうことか、その蛸の足は僕を脇を通過して千草さんのお美しい体に巻きついていった。
「い、いやぁ!」
千草さんは、小さく悲鳴を上げるが、すぐにぐったりとした。
「やめろ!千草さんを放せ!禿!」
「うるさいうるさい!禿っていった奴が将来禿げるんだ!ば~か、ば~か!」
蛸の足を使ってあっかんべーをするデスターク・エビルフェイズ。こ、こいつ本当に憎たらしい。
「この少女がカノンでないのならそれもよし。少年よ、少女を帰して欲しければ、カノンを連れて三丁目の工事現場に来い!くぅ~、悪役っぽいなぁ」
自分の台詞に酔いしれる魔王デスターク・エビルフェイズ。
「こいつ!」
僕は、千草さんを助けようとした。しかし、僕自身には武器も魔法もない。カノンがいなければ、僕は何もできない……。
「ふははははははは!では、待っているぞ!」
高笑いを浮べ魔王デスターク・エビルフェイズが飛翔する。
「く、くそぉぉぉぉぉぉっ!」
僕は一歩も踏み出すことができなかった。




