女神のお話
結局、僕とカノンは、一言も言葉を交わすことなくその日の授業が終わった。
いつものように目の血走った年恵先生の三十秒ホームルームが終わると、僕は脱兎の如く教室を飛び出した。カノンの顔を見るのも嫌だった。
カノンの方もそれは同じらしく、仏頂面のままこちらを見ようともしなかった。
もうあんな奴、知ったことじゃない。勝手にすればいいさ。家の合鍵も渡してあるし、通学路も覚えたはずだ。腹が減ったなら、そこらに置いてあるお菓子でも食っていればいい。風呂を沸かすことは無理でも、シャワーぐらいならもう使えるはずだ。好きに浴びればいいよ、シャワー。
「な、何であんなやつのことを気にしているんだ!」
そうだ。あんな我儘暴力女のことなんて気にする必要などないのだ。どうせカノンも、気まずくてすぐには家には帰ってこないだろう。適当に彷徨って腹をすかせて帰ってくるがいいさ。
僕は気を取り直して部室に向かった。こういう時は、気の置けない仲間と和やかな時間を過ごすに限る。
クラブ棟へ繋がる渡り廊下を歩いていると、背後から駆けてくる足音が聞こえた。カノンか、と思って振り返ると、なんと千草さんだった。
僕は立ち尽くしてしまった。勿論、千草さんが僕に用があるわけではないだろう。きっと彼女も部活動か何かのためにクラブ棟に向かっているだけに違いない。いや、待てよ。千草さんってクラブ活動ってしていたっけ?そんな話、聞いたことないのだが。
身勝手に当惑しながら、あれやこれやと思考をめぐらせていると、あろうことか僕の前で立ち止まった。
「追いつきました。新田君、足速いんですね」
やや息を弾ませ僕の苗字を口にする千草さん。嘘だうそだ。女神の千草さんが、底辺オタクの僕に声をかけるためにわざわざ追いかけてきたなんてあり得ない。きっとカノンにびんたされ、失神したままなんだ僕は。
「新田君、少しいいですか?」
にったくんすこしいいですか。確かにそう聞こえた。幻聴でもなんでもない。目の前の千草さんのお美しい口が上下に動き、発せられているお美しいお声だ。
「はい!なんでしょう!」
僕の声は相当上ずっていた。しかし、そのことに対する恥ずかしさなどなく、ただ只管甘美な体験に打ち震えていた。
ああそうだ。初めて千草さんに声をかけられた時もこんな感じだった。確か、千草さんが僕の落し物を律儀に追いかけて届けてくれたのだったか……。
「どうしました?新田君」
「い、いえ。何でもないです」
「そう。ならいいんですけど、ちょっと顔色悪くないですか?」
悪くない悪くない。血の巡りがよくなって寧ろいいはずだ。
「新田君。カノンさんと喧嘩したんですが?お昼休み、凄い剣幕だったけど……?」
どうして千草さんがカノンの話を?高揚していた僕の気分がやや沈んだ。いくら千草さんの口からでも、今はカノンの名前を聞きたくなかった。
「新田君とカノンさんの関係はよく分からないですけど、喧嘩はよくないと思います。カノンさん、ひとりで日本に来ているんですから、頼れるのは新田君しかいないんでしょ?もっと優しくしてあげないと……」
カノンと激しく口論した後、千草さんが心配そうに見ていたのはそういうことだったのか。しかし、何故千草さんはカノンのことを気にして、僕にお説教するんだ?不思議に思う一方で、千草さんに気をかけてもらっているカノンに腹立たしいまでのジェラシーを感じた。
「僕が悪いんですか?」
僕は、意図しない刺々しさで言ってしまい、激しく後悔した。馬鹿馬鹿!千草さんに対してなんて暴言を吐くなんて!
「そ、そんなんじゃないんです。ああ、でも、そう取られてもおかしくないですよね。ごめんなさい」
自分の非を認め、素直に謝る千草さん。やっぱりこの人は天使なんだ。どっかの暴力逆ギレ女とは月と鼈。雲泥の差だ。
「でも、あえて言わしてもらうと、やっぱりカノンさんのことは大目に見て欲しいの。外国でたった一人というのは寂しいものだから、どうしても我儘を言ったり、誰かに構って欲しいから甘えたりするものなんですよ」
「ち、ち、千草さんもそうなんでしょうか?」
うわぁぁぁ。千草さんに馴れ馴れしくも質問をしてしまった。もうこんな機会、一生ないからも知れない。今のやり取りをしっかりと脳内ハードディスクに保存しておこう。
「そうですね。うん。私もピアノのコンクールで海外へ行った時、やっぱり寂しい。お母さんが同行してくれるけど、それでも寂しいですね」
自分の体験からカノンのことを気遣っているのか。本当に千草さんは天使、いや女神だ。
「そ、そ、そうですね。反省します」
どうしてカノンが急に怒り出したのか分からないが、千草さんの言うように、大目に見てやろう。
「そうですか。カノンさんとちゃんと話し合ってくださいね」
「はい。それはもう徹底的に話しますよ」
僕の言い方が面白かったのか、うふふと微笑む千草さん。
折角の機会だからもっと雑談でもして、脳内ハードディスクを満杯にしておきたかったのだが、千草さんは、ピアノの練習があるらしく足早に帰っていった。
それにしても本当にいい一日だ。一時はカノンのせいで、超ブルーになりかけたが、終わり良ければ全てよし。カノンに対しても、本当に許せる気持ちになってきた。
「はぁぁぁ。恋は盲目ですね。何でカノンちゃんが怒っているのか、分かってないでしょう?」
不吉な、あまりこの場で聞きたくない永遠の十七歳声が背後から聞こえた。
背後の佇むのが誰か充分承知していたが、ここは無視という選択肢を選んだ。
「ちょっと駄目ですよ。お姉さんもお話があります」
そのまま走り去ろうとしたが、すばやく腕を握られてしまった。
強引に振り向かされると、やはりそれは制服を来たイルシーであった。




