後編
アラートハンガーに併設された一室。
スクランブルに備えたアラート待機要員が待機するアラート待機室。
整備班長である私もアラート待機時には待機室でパイロットと共に待機し、緊急出撃の手助けをするので、夕方から仮眠をとってアラート待機室で待機のパイロットと談笑していた。
東側滑走路の修復は今日の午前中には終わるらしい。
すでに朝の4時過ぎ。
朝の光は無く、辺りはまだ夜のように暗い。
あの若者はといえば椅子に座り込み、一人で何やら考え込んでいた。
それを見た私は席を立ち、何を考え込んでいるか聞こうとした瞬間、警報がけたたましく鳴り響いた。
『アラート!!アラート!!スクランブルせよ!!スクランブルせよ!!』
管制官の叫びが終わらない内に待機室の全員は凄まじい速さで格納庫へ飛び出し、2人のパイロットは全速力で各々の機体のラダーを駆け上り、整備兵はエンジンスタートやセイフティアンロックを、マーシャラーは耳当てをしてマーシャルを構え終わっていた。
若者の機体の各部のセイフティを外していく私の耳には昨日整備したエンジンが快調な音が鳴り響かせて駆動を始めたのが聞こえ、問題なく飛べる事を自ら主張している。
チラリとコックピットを見ると、整備兵の手を借りてシートベルトを装着する彼がいた。
こちらに気付くと一度だけ頷き、偏光処理を施したバイザーを下げる。
まだ新しい光沢を放っていた。
シャッター上の赤灯は赤々と光り輝き、耳をつんざくような警報の合間に管制官が最低限の情報を最低限の時間で指示する。
『Target 320/160、ALT15、SPD380!』
(ターゲットは方位320度方向より160度方向へ向かって侵攻中。高度は15000ft、対気速度380kt)
すぐにシャッターがスルスルと開き、逆にキャノピーは足早に閉まる。
外は、やはりまだ暗かった。
冷たい夜風がアラートハンガーを出る二機と入れ替わるように吹き込む。
マーシャラーの誘導に従って外に出た二機の鋼の鳥が、滑走路へのタキシング(誘導路を走ること)を始めた。
左右の航空管制灯を断続的に煌めかせ、マズルから陽炎と青白いアフターバーナーを噴き出し、まだ真っ暗な空へ飛び立つ二機を私達整備班は敬礼で見送る。
緩やかなピッチでの離陸などしていられない。
轟音と閃光を暗闇に放ちながら、70度以上の急角度で二機は編隊離陸する。
私達整備班に出来るのはここまでだった。
腕時計を見れば4時20分。
出撃時間二分は上出来だ。
後は彼らの勝利を願うばかり…
いや、勝敗などより、2人の無事を願うばかりであった。
今のような戦時、スクランブルとは不可避な戦闘を意味する。
一昔前の、対岸のの情報収集機へ吠えに行くことなどではない。
待ち受けているのは明確な攻撃の意思と目的、そして兵器を携えた“敵”なのだ。
これまでのスクランブルや作戦で、この基地からは5人のパイロットが消えていた。
2人は空で死に、1人は着陸時のクラッシュで死に、2人は行方不明。
帰らぬ鳥がいた格納庫のスペースはただ何も無く、ただコンクリートの床があるだけで、なんとも物寂しい。
そこに鋼の鳥と1人のパイロットがいた痕跡は何も無い。
私は幾度もその何もない、しかし重い意味を持つ空間で涙を流した。
3人の死亡と2人の行方不明は、我々整備班の責任でなかったか?
もっと隅々まで整備すれば未然に防げたのではないか?
もっと、もっと親身になってパイロットと接し、機体をいたわってやっていたら…
嗚咽を漏らし、どれだけ後悔の念にかられ続けようが、そこに消えた鳥が帰ってくることはない。
それでも涙と共に零れ落ちる自責の念は絶えなかった。
そんな悲しい虚無の空間をこれ以上、私は増やしたくない。
だから毎回、整備は徹底して三回の反復検査をし、機体には帰ってこいよ、と願いをかけるのだ。
私は待った。彼らが帰還後に機体を駐機するエプロンに立ち、白み始めた空を見つめ続けた。
帰ってこいと願い、祈った。
果たして一時間半後、軽快なジェット音と共に、微かな光点が一つ近付いてきた。
機体軸が、少し滑走路の中心線より左に寄っている。
彼は昨日、着陸する時に機体が左にブレる癖があると言っていた。
私は無上の歓びが胸の奥底から湧き上がるのを感じた。
彼は帰ってきたのだ!!
ミサイルが幾本か減っているのを見ると、あの新兵はいっちょ前に戦闘までこなしたのだ!!
ちょうど朝日が昇り、朝靄を裂くように彼の機体が着陸する。
着陸コースも、ちゃんと滑走路中心線に修正できている。
バルーニング(ギア着地後の機体の上下運動)もクラッシュもない。
完璧な着陸だ。
私の視界左から滑走路に進入した彼の機体は滑走路中央まで来ると、タキシングに移り、滑走路右脇の誘導路に入る。
こちらに機首を向けた時、私を発見したのかキャノピーを開け放ち大きく手を振っている。
バイザーに隠れて表情は分からないが、まるで父親に手を振る子供だった。
私も嬉しくなって手を振り返す。
よく帰ってきた!!と叫びながら。
……だが私は気付かなかった。
もう一機、同じように出撃した機体の存在に。
そしてその機体が戦闘で被弾し、垂直尾翼を消し飛ばされた上に一部の操舵系統の電子回路に穴を空けられ、満足な舵取りも出来ないまま着陸体勢に入った事に。
煙を吹き上げる僚機の機体の針路は、着陸体勢の超低空のまま滑走路から大きく右に逸れ……
一瞬だった。
別のジェット音が左から現れた刹那、タキシング中だった彼の機体の横っ腹に、僚機は減速することも出来ずに突っ込んだ。
断末魔も悲鳴もありはしない。
紙のように突き破られた彼の機体。
煙を噴きながら為す術なく激突した僚機の機体。
双方の区別もつかず、同時に巨大な爆発が起こった。
衝撃波と爆風は何十mも離れていた私を吹き飛ばし、体がコンクリートに叩きつけられる。
ショックで一瞬息が止まった。
仰向けになった私の目に映ったのは空。
夜明けの、白い空。
私は未だにコンクリートの地面に横になっていた。
何が起きた?
彼が帰ってきて、着陸して、タキシングに入って、手を振って……そして……それで……?
怒鳴り声が聞こえる。
何か叫んでいる。
何かが燃える音と臭いがする。
ツンと鼻に抜ける刺激臭。
嗅ぎ慣れた、ジェット燃料の臭い。
瞬間的にあの一瞬が脳裏に甦った。
現実の事とは思えなかったあの一瞬が。
反射的に体を起こし、立つ。
そして……
そこにあった景色は現実以外の何物でもなかった。
誘導路上で轟々と炎を上げる何かの2つの巨大な残骸。
もはや原型どころか、2つの区別もつかない。
消防車が水を撒いている。
真黒な煙が、朝靄を押しのけるようにして濛々と空に立ち昇る。
私はただ呆然と立ち尽くしていた。
まるで夢を、客観的に見ているようだ。
彼は帰ってきた。
確かに帰ってきた。
数十m先まで。
戦闘も着陸もこなした新兵が。
帰ってきていたのに。
昨日の彼が。
確かに、そこまで……
私は叫んだ。
遅れて涙が溢れた。
朝日を浴びて、なお冷たいコンクリートの地面に崩れ落ちる。
私は叫んだ。
炎の中の彼の名を、何度も叫び続けた。
信じたくなかった。
帰ってきた若鳥は、巣の目の前で遥か木の下へ叩き落とされた。
あの後、やはり私はいるべき主を亡くしたアラートハンガーで累々と涙をこぼした。
またも自責の波に襲われていた。
若い命の灯火が確かに揺らぎ、存在していたその場所で。
そして現在。
あの事故が起こった誘導路の上。
私の手には2つのネームプレートと2つのウィングマークと一等空尉、空曹長の階級章があった。
一つは三等空尉だった僚機の物。
一つは彼の物。
…私と同じ階級だ、と誰に言うでもなく呟く。
彼らが存在し、そして死んだ証拠を、私はその誘導路の脇の芝生の下の土に埋めた。
天を仰ぐ。
風が吹いている。
太陽が輝いている。
空は広がっている。
戦争が続いている事も含め、何も変わらない。
私はしばらく埋めた跡を見つめていたが、不意に決心し、踵を返した。
そして去り際にこう呟く。
こみ上げる涙をこらえ、しっかりとした声で。
「……よく帰ってきた!」




