第五話 剣聖、名乗らぬ剣を抜く
あの少女が再びギルドに姿を現したのは、酒場で目が合ってから三日後のことだった。アーレンハイムに来てから初めての、少しばかり肌寒い朝だった。その三日間、俺はいつも通りの依頼をこなして過ごしていた。街道の見回り、薬草の採取、迷子になった山羊の捜索。剣聖と呼ばれた頃には考えもしなかったような、地味で穏やかな仕事の数々だ。だが不思議と、こういう時間の流れ方が今の俺には心地よかった。誰かの命運を背負うこともなく、王国から召集がかかることもない。ただ目の前の小さな依頼を、自分のペースでこなしていくだけの日々。
依頼の受付を済ませてギルドを出ようとした俺の前に、フードを外した少女が立ち塞がった。癖のない黒髪と、意志の強そうな鳶色の瞳。歳の頃はやはり十代半ば、そこらの子供と大差ないように見えるが、纏う気配だけは明らかに歴戦の戦士のそれだった。
「あなた、名前は?」
「答える義理はないな」
「なら私から名乗るわ。リゼ・ハウエル。蒼鷹傭兵団の斥候をしている」
蒼鷹傭兵団。聞き覚えのない名だった。前回の生でも耳にした記憶はない。もっとも、あの頃の俺は王国の戦場を渡り歩くばかりで、国外の傭兵団にまで詳しかったわけではない。俺が知らないだけで、名の通った組織なのかもしれなかった。
リゼは腕を組み、興味深そうに俺の全身を眺め回した。値踏みされているような視線には、あの日の路地裏で感じたものと同じ気配があった。やはり、あの時からずっと俺を観察していたらしい。
「それで、俺に何の用だ」
「あなたの実力を測りたいの。うちの団長――ヴォルフガング・アイゼンが、腕の立つ人材を探していてね。盗賊団を単独で壊滅させた男の噂を聞いて、確かめてこいと言われたわ」
リゼはそう言うと、腰の剣に手を添えた。飾り気こそないが、手入れの行き届いた大ぶりの一振りだった。武器の状態一つを見ても、彼女がこれまで真面目に鍛錬を積んできたことが窺えた。
「団長の名は初めて聞くな。どういう組織だ」
「蒼鷹傭兵団は、五年ほど前にクロムトリア公国の辺境で結成された組織よ。今じゃ公国軍の一部業務を請け負うまでに大きくなってる。団長は元々、隣の小国で騎士をしていた人でね。実力主義を掲げて、生まれや身分に関係なく人を集めてるの」
「盗賊上がりでも構わないのか」
「腕さえ確かならね。もちろん、団の規律には従ってもらうけど」
リゼの口調には、自分の所属する組織への誇りのようなものが滲んでいた。まだ歴史の浅い組織だからこそ、そこに所属する者たちは皆、何かしらの野心や矜持を抱えているのかもしれない。
「ここでやるつもりか」
「街中じゃ迷惑になるでしょう。東の外れに、稽古用の空き地があるの。今日の夕方、そこで手合わせをお願いしたいわ」
断る理由は、特に思いつかなかった。目立つことは避けたいが、この街の外れであれば見物人もそう多くはないだろう。それに、あの足運びで剣を抜けば、どんな動きをするのかには興味があった。俺の腕を見せる代わりに、こちらも、蒼鷹という団で育った斥候の実力を見せてもらうつもりだった。
※ ※ ※
その日の夕方、待ち合わせた東の空き地へ向かった。オレンジ色の光が、乾いた土の広場を照らし出している。周囲には人影もなく、鍛錬にはうってつけの場所だった。リゼは剣を抜き、ゆっくりと正眼に構えた。無駄のない、綺麗な構えだった。それなりの修練を積んできたことが、その一挙一動から伝わってくる。
「念のため言っておくけど、殺し合うつもりはないからね。あなたの腕を確かめられれば、それでいいわ」
「分かった。だが、手加減が過ぎたら文句を言うなよ」
「言わないわ。むしろそれで実力が分かる方が助かる――行くわよ」
合図と共に、リゼが地を蹴った。踏み込みの速さは、この歳にしては見事なものだった。剣先が空気を裂く音、地面を蹴る足音、それら全てが淀みなく連動している。だが、遅い。あの魔王軍の幹部級と幾度も刃を交えてきた俺の目には、彼女の動きの全てが緩やかな流れのように映っていた。
俺は腰の剣を抜き、最小限の動きで彼女の斬撃を受け流すと、体勢を崩したところへ切っ先を突きつけた。ものの数秒の出来事だった。
「……嘘でしょう」
リゼは息を呑んだまま、剣を構え直そうとしたが、それより先に俺は剣を鞘へと納めた。
「これ以上やっても、確認することは変わらないだろう」
「今の一瞬で、私の太刀筋を全部見切ったっていうの?」
「踏み込む前に、剣先が僅かに下がった。そこを見ていた」
挑発するつもりで言ったわけではなかったが、リゼの顔には悔しさと同時に、隠しきれない驚愕の色が浮かんでいた。彼女は剣を鞘に納めながら、しばらく無言でこちらを見つめていた。
「――あなた、本当に何者なの。それほどの力を持ちながら、どうしてこんな辺境の街で燻ってるわけ?」
燻っているように見えるらしい。俺にはようやく息をつけた場所だったが、これから名を上げたい剣士なら、別の感想を持つのも分かる。リゼは剣を収めても俺から目を離さなかった。さっき指摘した動きを、頭の中で確かめているのかもしれない。あの真剣さを前に、自分の事情を言い訳のように並べる気にはなれなかった。
「事情があってな。それより、団長とやらに伝えておけ。俺は目立つ真似をするつもりはないと」
「そう都合よくはいかないと思うけど」
リゼは腰の剣に手を置き、肩をすくめた。
「団長は、こういう規格外の力を放っておけないたちなの。それに、うちの傭兵団は今、公国内でも急速に頭角を現しつつある。実力さえあれば、出自も過去も問わない。あなたみたいな人間には、案外居心地がいい場所かもしれないわよ」
その言葉に、俺は少しだけ興味を惹かれた自分を自覚した。出自も過去も問わない。今の俺にとって、それはこの上なく都合の良い条件だった。だが、すぐに深入りする気にはなれなかった。まだこの時代に戻ってきてから、二ヶ月ほどしか経っていない。焦って何かに属する必要は、どこにもなかった。
「一つ聞いておきたい。蒼鷹傭兵団は、エルデシア王国とは関わりがあるのか」
「今のところはないわね。うちはあくまで公国内での活動が中心。とはいえ、団長は野心家だから、いずれ国境を越えた仕事も請け負うようになるかもしれないけど」
王国軍の指揮下に入っているわけではないらしい。それなら、話を聞く余地はある。とはいえ、公国軍の仕事を受ける組織が、完全に自由であるはずもなかった。誘いの言葉だけで決めず、何を引き受け、何を断れるのかを確かめておく必要がある。王国の顔見知りに会う危険が少ないことも含めて、俺は条件を一つずつ考えた。
「考えておく。だが、今すぐに返事を求めるな」
「気の長い話ね。まあ、いいわ。気が向いたら、この街の南にある『黒鳶亭』って酒場を訪ねて。私宛てに伝言を残してくれれば、話が繋がるから」
リゼは懐から小さな木札を取り出し、俺へ差し出した。表には蒼鷹の意匠が彫られている。紹介を受けた証だという。俺が受け取ると、彼女はようやく一歩下がり、フードを被り直した。帰り際まで剣の柄に触れていた指先には、手合わせの続きを求めるような落ち着かなさが残っていた。
※ ※ ※
宿への帰り道、俺は手合わせで踏み込んだ足の感触を確かめていた。剣の制御も、相手の重心を読む目も、剣聖と呼ばれていた頃と変わらない。若い身体に合わせて間合いを取り直す手間も、ほとんどなかった。ただ、力が残っていることと、人にそれを見せずに暮らせることは別だった。リゼの驚いた顔を思い出し、もう少し時間をかけて受け流すべきだったかと考えた。
今の世に剣聖ユリウスはいない。魔王もまだ生きていて、俺がその城へ辿り着くはずだった日までは数年ある。ヴェルダ平原で名を知られてから、どれだけの戦場を越えたのか、数えようとすれば幾らでも思い出せる。だが、今日俺の剣を見ていたのは、戦果を記録する王国の役人ではなく、悔しそうに唇を噛む一人の斥候だった。
だが今度は、その道を歩むつもりはなかった。魔王討伐という頂点を目指す必要は、もうどこにもない。俺が求めているのは称号でも英雄譚でもなく、ただ自分の裁量で選び取れる生き方だ。リゼの誘いに心が動いたのは、それが王国とは無関係の場所で、実力に見合った居場所を提示してきたからだろう。
宿の部屋に戻り、寝台に腰掛けながら、俺はしばらく考え込んだ。蒼鷹傭兵団。名も知らぬ組織に属することのリスクは、当然ある。新しい人間関係を一から築くことにも、手間はかかるだろう。だが、この街で燻り続けるだけの日々にも、いずれ限界が来るはずだった。ヴェルダ平原の一件のように、目の前に困っている者が現れれば、俺は結局手を貸してしまう性分らしい。それならばいっそ、自分の意志で選んだ場所で、自分の裁量の範囲を広げていく方が、よほど性に合っているのかもしれない。
木札を机に置くと、灯りに照らされた彫り目が影を作った。剣聖の徽章に比べれば、ひどく粗末なものだ。それでも、持っているだけで誰かへの忠誠を誓ったことにはならない。必要なければ返せばいい。俺はその軽さを指先で確かめながら、黒鳶亭へ行った時に尋ねるべきことを、頭の中で並べていた。
剣を壁へ立てかけ、明日の依頼書を開いた。すぐに傭兵団へ行かなくても、暮らしは続けられる。その余裕を持ったまま、相手を見て決めたかった。誰かに必要とされた嬉しさだけで頷けば、また断る言葉を持たないまま、仕事を重ねてしまうだろう。今度は入る時から、出ていく道のことも考えておく。
※ ※ ※
翌朝、ギルドの掲示板には、見慣れない一枚の張り紙が貼られていた。エルデシア王国の紋章が入ったそれには、「戦力提供者募集、破格の報酬あり」という文言が並んでいる。魔王軍との戦線が悪化し、王国は国外の傭兵や冒険者にまで手を伸ばし始めたらしい。
張り紙の前で足を止めた冒険者の一人が、呆れたような声を上げていた。
「エルデシアも大変だな。あそこまで王国が外部に頭を下げるなんて、よっぽど追い詰められてるんだろう」
「聞いた話だと、南方の防衛線がまた崩れかけてるらしいぜ。抱えてた腕利きの騎士団も、ここ数年でごっそり数を減らしたって噂だ」
破格の報酬という文字を見ても、受け取る金貨のことは浮かばなかった。浮かんだのは、解放されなかった手首の痛みだ。あの王国の紋章がある限り、俺にとっては割に合わない仕事だった。張り紙の前で相談する冒険者たちを避け、俺は受付へ向かった。
懐から木札を取り出し、蒼鷹の彫り目を親指でなぞった。リゼから教わった酒場の名を思い返し、再び懐へ戻す。今すぐに答えを出す必要はない。だが、この木札が示す道は、少なくともあの国とは違う方角へと続いている。それだけで、今の俺には十分な意味があった。
王国の依頼に応じるかどうかを、他の冒険者に指図するつもりはなかった。ここで軍の実情を話したところで、まだ起きていない処刑まで説明できるわけではない。忠告するなら、報酬の支払い方と帰還の条件を確かめろ、という程度だろう。俺は掲示板から視線を外し、薬草の絵が添えられた依頼書を探した。
受付のミレイユが、今日の依頼書を並べながら声をかけてきた。
「あんた、また辺境の依頼を選ぶのかい? たまには街中の楽な仕事もあるよ」
「いや、これでいい」
俺は薬草採取の依頼書を手に取り、出発の届けを済ませた。急ぐ仕事ではなく、夕方には街へ戻れる。ギルドを出る時、懐で木札が剣帯に触れた。返事はまだしていない。それでも、今までと同じ一日を選びながら、別の行き先を一つ持っていることが、少しだけ心強かった。
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