推しの悲劇を回避するため、悪役令嬢は彼を合法的に監禁することにしました
深い森の奥にひっそりと佇む公爵家の別邸。その豪奢な一室で、公爵令嬢であるサラは、天蓋付きのベッドに横たわる青年を見下ろしていた。
「殿下、本日のお加減はいかがですか?」
サラの問いかけに、青年──第一王子ルカは、力なく微笑んだ。
窓からの柔らかな光を受けて微笑む彼のお姿は、まるで精巧な硝子細工のように美しく、そしてひどく儚げだった。
夜の闇に浮かぶ月光をそのまま糸にしたような、細く柔らかい真珠色の髪。長い睫毛の下では、透き通る紫水晶の瞳が優しげに弧を描いている。
血通いすら疑うほどに滑らかな白磁の肌の中で、薄紅の薔薇の花びらのような唇だけが艶やかな色を主張していた。
「ありがとう、サラ嬢。君の献身のおかげで、少し息がしやすいよ。……でも、僕の正体不明の病が君にうつってしまわないか、それだけが心配だ」
憂いを帯びたその声に、サラは内心で(ああっ! 今日も推しが尊い!!)と絶叫しながらも、表面上は公爵令嬢としての完璧で冷徹な微笑みを浮かべた。
「お気になさらず。私はこの命に代えても、殿下をお守りすると決めておりますの」
──そう、すべては私が仕組んだ完璧な「合法監禁」なのだ。
サラには前世の記憶がある。そしてこの世界が、かつて愛読していたWEB小説『月光のレガリア〜断罪予定の悪役令嬢ですが、なぜか王子様に溺愛されています〜』の世界であることも知っていた。
本来のシナリオであれば、優しく儚い第一王子ルカは、王位継承を巡る陰惨な権力闘争の末に暗殺されてしまう運命にある。
前世からルカを「推し」として強烈に崇拝していたサラは、その悲劇を回避するため、悪役令嬢ポジションにある己の権力と財力をフル活用した。
国の上層部を買収し、「ルカ殿下は他者に感染する未知の風土病に罹患された」という事実をでっち上げたのだ。そして、「我が身を犠牲にして殿下の看病をいたします」という崇高な大義名分のもと、ルカをこの絶対安全な別邸へと隔離した。
ここは王都から遠く離れ、幾重もの結界と公爵家の私兵に守られた難攻不落の要塞だ。
(ふふふ……殿下はもう一生ここから出られませんわ! 私だけの鳥籠の中で、私が一生かけて愛でてさしあげます!)
サラは「冷酷な看守」を気取っていた。
だが、事態は彼女の想定とは少し違う方向へ転がり始めていた。
「サラ嬢……行かないで」
サラが王都との連絡や物資の確認のために部屋を出ようとすると、ルカが途端に息を乱し、ベッドから身を乗り出してサラのドレスの裾を掴むのだ。
紫水晶の瞳を涙で濡らし、縋るように見上げてくるその姿は、庇護欲を激しく掻き立てる。
「どうか、私を一人にしないで……暗闇は怖いんだ。君がいないと、私は息の仕方すら忘れてしまいそうになる」
「っ……! すぐに戻りますわ、殿下」
そう言われれば、サラは別邸の敷地から一歩も出ることができなくなってしまう。
結果として、サラは最高級の調度品を揃え、彼を甲斐甲斐しく世話し、四六時中ルカの傍に侍るようになっていた。「看守」であるはずのサラの方が、ルカの存在に縛られ、別邸に引きこもるようになっていたのである。
それでもサラは幸福だった。推しが生きている。推しと同じ空気を吸っている。それだけで、彼女の自己完結した愛は満たされていた。
──あの日、別邸の周囲を無数の松明が囲むまでは。
「サラ様!! 一大事でございます!」
深夜、別邸に雇い入れたはずのメイドの一人が、血相を変えて飛び込んできた。
窓の外を見ると、森の木々の間に無数の武装兵の姿が見える。
「ルカ殿下の政敵である第二王子派の私兵団です! 『公爵令嬢サラは病を騙り、第一王子を不当に軟禁している大逆人である』と! すでに結界は破られ、本邸の兵も制圧されました!」
「……っ! なぜバレたのですか!?」
サラは血の気を引かせた。裏工作は完璧だったはずだ。このままではルカが殺されてしまう。
「殿下、起きてください! 早く!」
眠っていたルカを揺り起こし、サラは彼に上着を羽織らせる。
「サラ嬢、外が騒がしいけれど……」
「殿下を暗殺しようとする愚か者どもが押し寄せてきたのです。いいですか、殿下はこの部屋の隠し通路からお逃げください。森を抜ければ、公爵家の隠密が手配した馬車があります」
「君は……君はどうするんだい?」
「私は公爵令嬢サラ。この別邸の主ですわ。大逆の罪はすべて私が被ります。私が奴らの足止めをしている間に、どうか生き延びて……!」
サラは微笑んだ。
恐怖はなかった。推しの命を救うために死ねるなら、悪役令嬢として本望だ。
部屋の扉が乱暴に蹴破られ、完全武装の討伐隊が雪崩れ込んでくる。
サラはルカを背に庇い、扇を広げて彼らを真っ直ぐに睨みつけた。
「無礼者! この公爵令嬢サラの部屋と知っての狼藉ですか!」
だが。
部屋に踏み込んだ討伐隊の隊長は、サラを捕縛するどころか、その場に膝をつき、深く平伏した。それに続くように、兵士たちが次々と跪いていく。
「……え?」
サラが呆然とする中、背後から、静かな足音が聞こえた。
「ああ……本当に君は、また俺を置いていこうとするなんて⋯悪い子だ」
振り返ったサラは、息を呑んだ。
そこにいたのは、いつも震えていた儚い王子ではない。
一切の光を呑み込む、底知れぬ夜の闇のような濃紫の瞳。その見下ろす視線は酷薄で、圧倒的な王者の覇気を纏っていた。
「で、殿下……?」
「ご苦労だった。お前たちは下がれ。この『誘拐犯』は俺が直々に罰を下す」
ルカの一言で、討伐隊は音もなく部屋から消え去った。
パタン、と扉が閉まる。静寂に取り残されたサラの腕を、ルカが強引に引き寄せた。
「きゃっ!?」
サラは目を丸くした。ルカの腕力は、病に伏せる華奢な青年のものではなかった。
薄い寝着越しに伝わる彼の肉体は、硝子細工どころか、しなやかな肉食獣のように鋼の筋肉で覆われており、サラの抵抗など赤子のように封じ込めてしまう。
「ど、どういう、ことですか……殿下、お加減が悪いのでは」
「病気など、最初から罹っていないよ」
ルカはベッドの端に腰を下ろすと、長い指でサラの頬にかかった髪を掬い上げた。
その唇には、うっとりとするような愉悦の笑みが浮かんでいる。彼の手がサラの髪に愛おしげに口付けると、背筋が粟立つような甘い色気が漂った。
「この数ヶ月、俺がただベッドで震えていたと思うかい? 君が俺を閉じ込めるために必死で裏工作をしてくれたのは知っていたからね。可愛くてたまらなくて、騙されたフリをしてあげたんだ」
「殿下……?」
「君が外に手配したと思っていた私兵や使用人は、最初からすべて俺の直属の暗殺部隊にすり替えておいた」
さらりと言ってのけるルカの指が、サラの頬から首筋へとゆっくり這わされる。柔らかな愛撫のようなその仕草に、サラは息を呑んだ。
「君が王都の父公爵に送っていた定期報告も、俺が書き換えてから送らせていたんだよ。『娘は正気を失い、王子を完全に私物化しようと企んでいる』……ってね」
「そんな……お父様に……!?」
「ああ」
ルカは喉の奥でくすくすと笑い、サラの顎をぐっと持ち上げて自分だけを見つめさせた。
「そして王都の政略が煮詰まる頃合いを見て、第二王子派に『大逆の証拠』とこの別邸の場所を匿名で流してやった。彼らが意気揚々と討伐隊を編制するようにな」
楽しげに語るルカの所作はあまりにも優雅で、だからこそ底知れない狂気が滲み出ている。彼はずっと、彼女が作り上げた鳥籠の中で、さらに巨大で強固な鳥籠を編み上げていたのだ。
「もちろん、第二王子派の本隊は森に入る前に俺の部隊が制圧済みだ。いまこの部屋に踏み込んだのは、彼らの鎧を奪って着込んだ俺の駒だけだよ。……これで君は、王族を拉致・監禁した大逆の罪人。公爵家は保身のために君を勘当するしかなくなり、君は社会的に完全に抹殺された」
「……え?」
「もう、君には俺しかいない。俺以外の誰にも頼れないし、俺の腕の中から一生逃げられない」
ルカの瞳に、狂気的なまでの執着と愛欲がどろりと溢れ出す。
「前世、君は俺を庇ってその命を散らした。……君の血で赤く染まったドレスを抱きしめた時の絶望を、君は知らないだろう」
ルカの声が、ひどく低く、生々しい熱を帯びて震えた。瞳孔が開いた紫水晶の瞳が、サラを逃がさぬよう縫い留める。
「俺の腕の中で、君の温かかった体が少しずつ冷たく、硬くなっていく感覚。どれほど名前を呼んでも、二度と開かない瞳。……君の血を啜ってでも、この命を半分切り裂いてでも君を生かしたいと、神に狂ったように泣き叫んだあの地獄を、二度と味わうものか」
「っ!? 殿下、まさか……」
サラは戦慄した。ルカが語る光景は、物語のエンディングよりさらに先──サラが前世の記憶の中で読んだものではなく、ルカ自身が経験した「1回目の人生(前世)」の記憶だった。
彼は死に戻りだったのだ。
「二度目の人生は、君を誰の目にも触れさせず、俺だけのものにするために生きてきた。君が俺をこの森の奥へ連れ去ってくれた時、どれほど歓喜したか……」
ルカはサラをベッドへと押し倒し、逃げ場を塞ぐように覆い被さった。
「君が俺を攫って、閉じ込めたんだ。責任は、一生かけて俺の側で取ってもらうよ。サラ」
獣のように強靭な腕に抱きすくめられ、甘く危険な囁きが耳元をくすぐる。
圧倒的な力と権力によって完全に包囲され、帰る場所をすべて奪われたサラ。
自分が看守だと思っていたら、最初から彼の用意した分厚い防弾ガラスの鳥籠に入れられていたのは自分だったのだと、彼女はついに理解した。
──だが、サラの心に湧き上がったのは、絶望でも恐怖でもなかった。
(……私はずっと、彼を守ってあげなければと、そう思っていた)
推しを悲劇から救うため、自ら手を汚して彼を囲い込んだつもりだった。愛読していた『月光のレガリア』の中で、彼は陰謀に巻き込まれ、誰からも真に愛されることなく孤独に死んでいく運命だったから。
しかし本当は、この美しく恐ろしい彼の方こそが、サラのいない世界に絶望し、骨の髄まで狂おしくサラを求めてくれていたのだ。
(私が守らなければ、なんて思い上がりだったのね)
彼を守るための、冷徹な公爵令嬢という立場。いつか討伐隊に殺されるかもしれないという自己犠牲の覚悟。
そんなものは、ルカが抱える重くてドロドロとした純粋な執着の前にあっては、ひどくちっぽけなものに思えた。
サラを逃がさないために、世界を騙し、彼女からすべてを捨てさせて、それでもただサラの命と存在だけを求めてくれる男。
(推しが……推しがここまで私を求めてくれている……!)
冷徹な公爵令嬢の仮面の裏側で、限界オタクの魂が歓喜の悲鳴を上げる。
彼がそれほどまでに自分を必要とし、外の世界のすべてを奪ってくれたのなら。もはや躊躇う理由など、どこにもない。公爵令嬢としての誇りも、外の世界の光も、サラにとってはもはや不要なガラクタでしかなかった。
(ああ……なんという、至福──!)
サラの気高く冷徹な仮面が、ふわりと溶け落ちる。
彼女は、自分を囲い込む肉食獣の首にそっと腕を回し、熱に浮かされたような、とろけるような笑みを浮かべた。
「……ふふ、殿下は本当に、寂しがり屋でいらっしゃるのですね」
「……サラ?」
予想外の甘い反応に、狂気を孕んでいたルカの瞳がわずかに丸くなる。
そんな彼の艷やかな唇を、サラの指先がそっと撫でた。
「私が攫ったのです。もちろん、一生かけて責任を取らせていただきますわ。……殿下、この鳥籠の鍵は、今ここでもう捨ててしまいましょう」
すべてを捧げるという、残酷なほど純粋な愛の肯定。
その言葉に、ルカは一瞬息を呑み──やがて、張り詰めていた糸が切れたように、歓喜に顔を歪ませた。
「ああ……もう二度と離さない。この世界がどうなろうと、絶対に、二度と君を死なせはしない。君のすべては永遠に俺のものだ」
切実な渇望を孕んだ囁きが、サラの唇を塞ぐ直前に紡がれる。
「愛しているよ、俺のサラ」
獲物を食い破るような、深く重い口付けが落とされる。
もはやどちらが看守でどちらが囚人なのか、誰にもわからない。
閉じ込めようとした女と、閉じ込められたかった男。互いの鎖を幾重にも絡ませ合いながら、二人は二度と出られない甘い狂気の底へと堕ちていったのである。




