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ようこそ、ミラ屋へ!

作者: 宵待翠依
掲載日:2026/02/09

長めの短編です。

定められた結末の先にあるものを、どうか見届けてください。



 その町に吹かれている風は、塩と暖かさで作られていた。


 街路には桃色のキョウチクトウが咲き誇る。離れてその姿を見れば、色めき立つ麗しい女性たちが踊り続けている。同時に優しい春は終えて、刺激とも言える夏を知らせる役割が、その花にはあった。


 ここはユーテラス海洋王国、スズラン。王国内有数の都市だ。


 表通りにはレンガで建てられた建物と、趣を感じさせる木造建築が融和して並んでいた。決して不協和音にならない、この都市らしい考え方だった。新しい風を常に受け入れながらも、過去の産物を風化させない。


 ユーテラス特有の美徳だ。


 スズランの北部に位置するシルエッタ地区は、最も山間部に近い場所だ。しかしながら、シルエッタ地区は春にはサクラが咲き、夏にはレジャー施設が開く。秋には紅葉が広がり、冬にはスキー場が解放される。常に人が入り乱れながらも、活気だけは忘れることすら知らない地区だ。


 現地人と観光客で溢れるメインストリートの間に、鈍い灰色が後を残していた。


 一人の青年が、灰色の髪を風になびかせながら雑踏の合間を縫うように歩いていた。連日晴れを示す空から降り注ぐ陽の光に、髪が反応する。きらめく彼の髪は銀色に見え、作りものでは見れない美しさがあった。青年の服装は、決して綺麗と言うには汚れていた。しかし、それすら一つのアクセントになっている。


 現実のものではない。というわけでは無いが、それでも疑いたくなるほどだ。現地人は当然のように。観光客は目の前の観光物に釘付け。誰一人とも、青年に気を配ることはなかった。まるで幻だ。


 青年は、メインストリートから路地へ入っていく。表の明るさとは対照的に、暗さが支配している。ゴミ箱には、今日の朝刊が捨てられていた。青年はそれを拾い上げ、先の大通りに出る。


 向かった先には、一つの木造建築。二階建てだ。青年は躊躇なく、外階段から二階に向かう。ズボンのポケットから鍵を取り出して、ドアノブの鍵穴に差し込んだ。噛み合う音が聞こえるまで鍵を回した後、ドアノブを手首を回して押し開けた。中は整理整頓された一室が広がっていた。


「シースルさん。おかえりなさい。長い散歩でしたね」


 シースルと呼ばれた青年の前には、黒い尻尾が陽炎のように揺らいでいる化け猫がソファーに座っている。


 化け猫の手元には、一冊の魔法書。大量の付箋が貼られており、勉強中のように見える。


「ニュラは魔法の勉強か。短剣の皆伝の次は、魔法の皆伝か?」

「皆伝は目指してないですよ。ただ前線に出る身として、少しでも使えた方が得かなと思いまして」


 揺らいでいた尻尾を、その手に持っていた魔法書を置いて摑まえる。抱き枕の代わりにしているようだが、抱きかかえている感覚はなかったようだ。尻尾に近づけていた顔は顎を引いて、離れた。辺りを目線を動かして、近くのソファークッションに身体ごと動かして前のめりになる。そのままうつ伏せになる。


 尻尾は天井に向かって左右に動いたと思えば、ニュラの太ももの間に着地した。明らかに大きい、化け猫向けの帽子はソファの先に音を立てて落ちた。彼女の頭にある猫耳もわずかに落ち込んでいた。


「なにをやってんだ。少しは落ち着けよ」


 ニュラの向かい側のソファーに座る。ニュラと違って、奥まで座り込んで背中を預けた。シースルの身体に合わせるように、ソファーの形が変形していく。目の前にソファークッションを抱きかかえて、目元だけを出して座っている彼女の姿があった。小さく「うぅ……」と唸っている。


 そんなニュラの姿に、シースルは小さく口元を明るくさせた。そのまま、彼の視線は彼女から離れた。次に向けられた視線は、さっき拾った朝刊だった。内容はそこまでのものだ。大した事件が起きているわけでもなく、平和そのものだった。書かれている内容を読んでいると、隣に重いものが置かれたときのようにソファーが沈む。


 朝刊から、視線を隣に移す。そこには、ニュラが二つのガラスコップを持って座っていた。ガラスコップの中身はアイスティー。紅茶の中に氷と、輪切りにされたレモンが入っている。彼女が、ガラスコップを少し揺らすと、カラカラと夏らしい音を鳴らす。その音は、人を誘惑するのに充分だった。


「時間的に昼過ぎですけど。中身なんて書いてありますか?」


 朝刊を太ももの上に置いた。右手でニュラからガラスコップを受け取る。彼女は、シースルが受け取ったのを確認した後、ガラスコップの縁を唇で挟んで中のアイスティーに喉を揺らした。


「特には。観光客の数が去年の二パーセント増加ぐらいか。あとは経済状況とか」

「本当に特にないですね。ここまで、平和だと少し怖いですね」


 ニュラの言葉に、頷くだけだった。ガラスコップを傾けてアイスティーを飲む。窓を開けて扇風機を回しているとはいえ、暑い。火照った身体を冷やすように、アイスティーは通り道を鮮明に残した。


 再び、ニュラは魔法書を手に取る。外の喧騒が部屋の中を、騒がしくさせながら消える。その時、階段を上がる音が聞こえた。彼女の猫耳は立ち上がり、魔法書から顔を上げた。


 その数秒後。ドアが四回ノックされた。ニュラが「はーい」と、伸びた声を出しながら立ち上がる。彼女が扉を開けると、そこには白髪の髪に白服装に身を固めた女性が立っていた。夏だというのに、白い手袋までも身に着け、唯一晒されているのは首と顔だけだ。それ以外は隠されていた。


 夏に似つかわしくない服装であるのに、汗一つかいている様子も形跡もない。 


「失礼します。こちらが、何でも屋。でしょうか」

「はい。何でも屋のミラ屋です。こちらへ」


 ニュラは女性をソファーに案内する。座ったのを確認したのち、すぐにキッチンに向かった。冷蔵庫からガラスコップを取り出す。氷と輪切りにしたレモン。そして紅茶を注いでアイスティーを作る。手際が良い。コースターを棚から取り出し、木製のトレーにのせて持ってくる。膝を折って、ソファー同士の間にあるテーブルにコースターを置いてから、その上にアイスティーを置いた。


「ありがとうございます」

「いえいえ。今日は暑いので、アイスティーでお身体を労わってください。どうしますか、そちらの純白の帽子はポールハンガーにかけておきましょうか?」


 ニュラが手のひらを天井に向けて示した先には、入り口の傍に置かれているポールハンガー。なにもかかっておらず、裸の状態で立ち続けている。彼女は一度、ポールハンガーの方を向いてから女性の方に向く。


「ぜひ、お願いします」

「承知いたしました」


 女性から純白の帽子を受け取り、ポールハンガーに優しくかける。ニュラは落ちないことを祈りながら、木製のトレーをキッチンに置いてから、シースルの隣に座る。戻りかけていたソファーの形は再び、型取る。


 ニュラが対応している間にも、朝刊を読んでいたシースル。隣に彼女が座った頃に、朝刊をソファーの端に置いてから、テーブルの引き出しからメモ帳とペンを取り出した。


「改めて。何でも屋のミラ屋へようこそ。雑用から重大任務まで幅広く承ってる店だ。俺はシースル・ミルキント。隣にいる化け猫はニュラだ。まずは、あなたの名前を聞きたい」

「存じております。私はシュラン・ミーレストとお申します」


 その名を聞いた瞬間、ニュラの尻尾が露骨に止まった。数秒経てば、再びゆらりと揺れる。


「シュランね。それで、今回の依頼はなんだ」


 ニュラと違って動揺の類は見えない。ただ、目の前にいるシュランを依頼主として接している。それ以上でもそれ以下でもなかった。メモにシュランの名前を記入する。


「はい。私が依頼したいのは、スミノラ草の薬草採取をお願いしたいと思います。百グラムほど」

「薬草採取ね。だが、スミノラ草って薬草は聞いたことないな。大まかに、どこにあるのか教えてくれるか」


 シュランは一考する。四拍ほど時間が空いてから、再び口を動かした。


「北東の草原にあると聞いたことがあります。ただ、野生生物が多いので」

「そうだな。だが、俺たちは問題ない。期限は?」


 手元のメモ帳に文字を書きながら、言葉を止めることなく続けた。メモ帳に書かれている文字は雑だが、重要点とその前後を最適化し、書き込んでいる。ニュラが、こっそりと頭を寄せて覗き見る。


「四日後の夕刻はどうでしょうか。私の自宅にて。住所は――」

「夕刻……ね。分かった。住所も把握した。金額は五万だ。先払いか後払いか。選んでくれ」


 メモ帳を閉じ、ペンと共にテーブルに置いた。


「先に払います。今ここでお支払いします」


 その言葉を聞いたニュラが、すぐに棚から領収書の束を取り出す。一枚切り取ると束は元に戻す。同じ棚からガラスペンと黒インクも取り出した。テーブルの上で、金額欄のところに五万と黒インクに浸したガラスペンで書いていく。下線に足を付けた、きれいな文字だ。


「では、お先に代金をいただきます」


 シュランの隣に置かれた小さな白いカバンから、革素材の財布を取り出した。中から紙幣を五枚抜く。シュラン自身が数えたのち、端を整えてニュラに渡す。


「……大丈夫そうですね。五万分しっかりと受け取りました。こちらにサインを」


 もう一度、ガラスペンの先を黒インクに浸してからシュランに手渡した。小さく「ありがとうございます」と言葉にしてから受け取る。慣れた手つきで、領収書にシュランのサインが書かれている。


 シュランからガラスペンを受け取ったニュラは、彼女自身の上着のポケットから紙切れを取り出した。その紙切れで、ガラスペンの先端を拭いてからテーブルに置く。領収書を上下に分け、正本をシュランの元へ差し出し、控えをニュラの元に置いたままに。


「これで、手続きは終わりました。あとは、ご依頼の完了をお待ちください」

「というわけだ。依頼を受けた。今日はもう大丈夫だ」


 シースルが話の切りを作り出している中、ニュラはポールハンガーから純白の帽子を取る。


 その間に、シースルとシュランが握手をし完全に切り上げた。


「では、こちらの帽子を」

「ありがとうございます。ご依頼の方を、どうかよろしくお願い致します」


 入り口までニュラが案内する。頭を下げて、ミラ屋を後にした。中にはシースルとニュラの二人だけだ。彼女は、シュランに出したガラスコップと木製のトレーを取る。そのままキッチンで片付け、ガラスペンと黒インクを元の場所に戻した。控えは依頼が完遂されるまでは、棚の引き出しにしまう。


「ニュラ。さっそくと言いたいが、今日はもう遅い。明日から動くぞ」

「分かりました。あっ、今日の夕食どうしましょうか」

「そうだな冷たいものがいいよなぁ。それじゃ――」


 二人はミラ屋の戸締りをし、夕食の材料を買いにシルエッタ地区一の市場に向かった。


 一日目。


 昨日と変わらず、天気のいい日だった。かすかに薄い雲が頭上を漂っているだけで、基本的には雲すらない。


 観光日和の今日。シースルとニュラは、二人で森の中を歩いていた。


 森に入って浅い所では、整備された道が続いていた。しかし、ある瞬間から道はなくなり木々の間を通り抜けるように移動している。すぐ近くに獣道があるが、二人は決して近づかなかった。


「ここまで、整備されていないとは思いませんでしたね」

「あぁ。正直間引きしていると思っていたが、こんなに放置されているとは。完全に予想外だ」


 口では文句をつらつらと続いていくが、足を止めることはなく奥へ進んでいく。枝の折れる音と葉を踏み潰す音が森にこだまする。鳥の鳴き声だけは鳴り続けており、居住区域とは大きく違った。まるで、違う世界に来たような錯覚を覚えるほどだった。


「うひゃ!」


 ニュラは突然声を上げる。彼女の顔にウサギが張り付いているだけだ。引き離そうとウサギを引っ張るが、どうしても離せない。情けない声を出しながら「シースルさん……たすけてぇー」と、願いを出すほどだ。シースルは、ため息を吐きながらウサギとニュラの顔の間に下から腕を入れ、思いっきり自分に寄せた。


 ダイコンやカブが土から抜けた時のような効果音が付きそうだ。ウサギはそのまま跳ねて草むらの中へ潜り込んだ。肝心のニュラは顔を手で押さえて、しゃがみこんでいた。


「どうした」

「変な声が出ちゃった。なんでかわからないけど、すごい恥ずかしい」


 手で抑えきれない頬には、わずかに紅く色を付けていた。尻尾を大きくゆっくりと、左右に揺らしながら情けない声が口元から常に漏れ出している。シースルは彼女の腕を掴んで立ち上がらせる。その時に、またもや「ふやっ!」と、声が漏れてしまった。口は半開きで、まぶたは開いている。


「そんなことで恥ずかしがるな。今更だろ。何回お前の残念な所を見てると思ってんだ」

「慰めかと思ったら刺されたんですけどっ!」


 ニュラの言葉はシースルに届かず。すぐに腕から手を離して、先に向かう。不本意だと言わんばかりに、彼女は頬を膨らませた。だけども、彼から離れることはなく。後ろについていく。


「女の子の扱いがひどいです。シースルさんは」

「お前は女の子じゃないだろ。メスだろ」

「たしかに化け猫なんでメスが正しいんですけど。直球投げられると、納得できませんね。うぬぬ」


 しばらく会話を続けながら森を歩いていくと、目の前が木々から光に変わった。ニュラが先行して前に出て歩くと、そこには広大な草原が広がっていた。どこまでも緑一面で、夏風に吹かれている小さな雑草たちが、身を完全に任せている。抵抗するのがめんどくさいと口にしそうだ。


「うわぁーすごーい!」


 あまりの壮大な景色にニュラのテンションが上がる。あちこちを走り回り、思いっきり飛び跳ねる。猫というよりも犬のように見える。そのまま草原に倒れ、どこまでも広がる空を見つめ、手を伸ばした。


 その間に、シースルはスミノラ草を探す。持ってきていたメモ帳を開いて、スミノラ草の特徴をもとに草原の葉を眺めるように広く見ながら、一瞥する。探しながらニュラの元へ歩み寄る。


「気持ちいいか」

「最高ですよー。ですけど、目的のスミノラ草は見つかりませんね」


 ただ無邪気に遊びまわっていただけでなく、一応目を光らせて草原を見ていた。しかしながら、ニュラすら見つける気配がない。依頼を受けた反面、中途半端で終わらせるわけにもいかなかった。とりあえず、彼女は近くの雑草を引き抜き、持ち帰ることにした。


「おそらく夕刻までの余裕はありますが、陽が西に傾き始めています。一度引き上げるのはどうでしょうか」

「それが妥当か。その草の検査、ニュラ頼めるか?」

「任せてください。知識だけはあります」


 二人は来た道をまた歩く。


 草原から離れて数分後。先導して歩いていたニュラが立ち止まる。揺らして尻尾を止め、左右を何度も繰り返しながら状況を把握しようとしていた。腰の短剣に手をかけて、いつでも抜けるようにする。


「山賊か?」

「いや、人間の類ではないです。人間以外の動物です」


 ニュラは、息と声を同時に出し右奥の草むらを凝視する。腰を少し折り、前傾姿勢で様子を見る。シースルは、警戒したまま足を前に出す。そのとき、草むらから何匹かの複数の動物たちが出てくる。


 ウサギにシカ。オオカミまでもが何かから逃げるかのように、走り出していた。どの動物も共通して、瞳の奥が焦りに統一され、情けない鳴き声を漏らしている。意図して声を出しているそぶりはない。


「デカいのが来ます!」


 彼女が言葉にした瞬間、その言葉に反応するかのように巨大なクマが四足歩行で現れる。瞳は常に見開いており、不気味だ。あえてゆっくり歩く。その動き一つ一つがより恐怖心を煽るように作られていた。


 今走って逃げたところで、追いつかれる未来が見える。その上、クマから隠れていたわけでは無い。


「ど、どうしますか。殺しますか?」


 後ろに移動し、シースルと同じ立ち位置まで下がる。


「無駄に刺激しなくていい。あいつがこっちに走り出して――こっちにこいニュラ!」


 ニュラの腕を引っ張り、横にシースルもろとも飛び込んだ。ニュラは彼の上で、困惑の声を上げることしかできなかった。彼女はなにが起きたのかわからないまま、隣に転んで立ち上がる。


「一体、なにが」


 ニュラが居たであろう場所に目を向ける。そこには小さなクレーターとクマが腕を振り落とし切っているところ。もし、彼女があそこに居たままだったら。静かに足と手先が震え始めた。


「危なすぎ……あとちょっと飛び込む場所が奥だったら、石にぶつかっていたなこれ」


 身体中、枝や葉だけでなく土まで被り汚れていた。軽く叩くが、限度はある。全ては落ち切らない。灰色の髪にも土が乗っている。軽く頭を撫でるように土を前に飛ばしていく。


「大丈夫かお前。足が震えているけど」

「あっ、いや。そんなことは」

「怖いなら後ろにいろ。俺が何とかする。それとも――」


 シースルは先に、クマの元へ向かった。足取りは決して楽なものではなかった。しかし、彼の右手には水の球が生成されていく。人の頬を叩くように、空気を切り裂く。すると、水の球はそのままクマの顔に当たる。大したダメージは見受けられない。どちらかと言えば、挑発しているようなものだ。


 クマが大振りに振りかざしてくる。ただ力任せに動かしているためか、かなり避けやすい。二、三歩分距離を開けながら、水の球をひたすらに投げ続けている。時々、シースルはニュラの方に目を向ける。動く気配はある。前傾姿勢で、クマの隙を見極めていた。


 クマが両手を後ろに回したタイミングで、作り続けていた水の球を離散させた。すぐ人差し指を地面に向けて、上へなぞると木の根元が地面を突き破る。そのまま、クマの両手を縛り上げる。その瞬間を見計らってなのか、ニュラが飛び出してクマの首を斬る。結果、血潮が吹いた。数秒もがいた後、そのまま絶命した。


「おつかれさん」

「あっ、いえ。それよりも、なんでいきなりクマが」

「さぁ。にしても、この辺りのクマにしては狂暴だったな。普通に怒り狂っていたのか。もしくは寄生虫か」


 寄生虫という言葉を聞いた途端、ニュラは身体中が震え上がった。彼女自身の身体を抱きかかえながら、クマから距離を取る。露骨に顔を青くして、できる限り距離を取るように顎も引いた。


「クマから栄養を得ることはできないし、時期に死んでいくだろう。問題ない」


 ニュラにそう言葉をかけながら、絶命したクマの隣を歩く。彼女はクマから離れるように、迂回してシースルの元へ駆け寄る。さっきまでと違い、先導するわけでもなく。シースルとの距離を小さくして歩く。


 完全に陽が傾いた頃。


 シルエッタ地区の市役所にて、クマの狂暴化の報告。そして、討伐したクマの後処理をお願いした。その後二人は、とある酒場にやってきていた。そろそろ仕事が終わる時間帯でもある。


「酒場にスミノラ草のことを知っている人なんて居ないと思いますよ。あっ、この料理美味しい」


 ニュラは白身魚のフライを食べながら、酒場全体を見渡した。ほとんどは男性。女性ごくわずかにいるが、服装を見る限り現場職の方なのだろう。対してシースルは酒をチビチビと飲みながら、頬杖をついていた。


 しかし、顔が向いている先は酒場の中心だ。


「正直、後払いなら依頼達成できなくとも罪悪感はないんだがなぁ。先払いで先に金をもらっていると、罪悪感が湧くんだわ。少しでも情報は貰っときたい」

「そういう物なんですね。どうしますか。少し話聞いてきましょうか?」


 最後の白身魚のフライを皿から食べきると、椅子から立ち上がろうとする。まだ、口の中に残っているというのに。頬を精一杯動かして、喉を鳴らしてからいざ征かんと、聞き込みを始めてしまった。


「俺に聞いた意味。まぁいいや。俺はカウンターの人に聞こうかね」


 酒を片手にカウンター席に座る。目の前で接客してくれる人間は美男美女ばかりだ。スズラン中の美男美女をかき集めましたという意図が見え見えでもあった。


「少し良いか」


 シースルは早速、目の前でカクテルグラスを拭いている女性に話しかけた。見た目は三十代辺り。色気のあるいい年の取り方をしている女性だった。彼女は彼の言葉に反応して、小さく包容力のある声で返した。


「なんでしょうか。お客様」

「スミノラ草って草、知らないか?」

「スミノラ草ですか。聞いたことはありませんね。どうしてその草をお求めで?」


 女性は話を深く掘ろうとする。ここで働いてる人特有の職業病なのだろう。拭いていたカクテルグラスを後ろの棚に置いたと思えば、すぐシースルの方に向きなおした。


「とある人の依頼だな」

「依頼。貴方はミラ屋の人でしたか。初めまして私はクルシャ・セイアントとお申します」

「丁寧にどうも。俺はシースル・ミルキント。ミラ屋の店主的立場の人だ」


 手に持つ酒を口に含ませて、喉を潤す。こつんと、カウンターに金属同士がぶつかったかのような音を鳴らしながら置く。クルシャは、そんなシースルに優しく微笑みながら、近くから椅子を持ってくる。そのままカウンターの向こうに座った。彼女の手にはショットグラスが握られている。


「その、スミノラ草って実際に存在しているのでしょうか」

「存在はしているらしい。過去の文献を片っ端から調べたんだ。ただ裏どりができてない分、可能性は半々だ」

「情報屋に頼ってみてはいかがでしょうか」


 クルシャから情報屋という言葉が出た瞬間、シースルは思わず笑ってしまった。右手で口元を隠して笑う姿は、性別が違えば上品な女性を彷彿とさせるものだった。言葉にしたクルシャは、どこに笑いどころがあるのか。それすら把握できていないようで、首を軽く傾げて頬に人差し指を当てた。


「いやー面白いこと言うよな。情報屋に依頼したことないのか?」

「あ、はい。情報屋という名を聞いたことがあるだけです。情報をお金を払うことで買えるぐらいでしか」

「使ったことないのなら分からないよな。悪い。情報屋はかなり金にがめついんだ。交渉下手な奴が手を出してしまった暁には、全財産無くなっているだろうよ。命かけてるから当然だけどな」


 クルシャは、顔を赤らめてしまった。耳先まで赤くなっている。シースルは酒を飲み干すと、ジョッキをカウンターに置いたままクルシャの元を離れた。小さな笑みを置き土産と残して。


「スミノラ草は知らねぇな。力になれなくて悪いな嬢ちゃん」

「いえ。大丈夫ですよ。お楽しみ中失礼しました」


 ニュラは複数の男女に話を聞いてみるが、大した情報は得られなかった。


 壁に寄りかかって、腕を組む。思案に耽るが、情報が無ければむやみやたらに探すしかない。ニュラの思考に情報屋という言葉が通り過ぎるか、すぐに首を左右に振って忘れる。


「どうだ。なんか収穫はあるか?」

「シースルさん。それが、スミノラ草の名前だけ知っている人は居ても、詳しい生息域まで知っている人が居なかったんですよ。どうしますか。最悪の場合がありますけど」

「明日、シュランのところに行く。また話を聞きに行く」


 するとニュラは、一瞬「は?」と鳩が豆鉄砲を食ったように敬語が飛んで行ってしまった。数秒後、シースルを見ていた彼女は、彼の両腕を掴んだ。そして、奥手前を揺らした。


「シュラン様は貴族ですよ!」

「知ってる、今ならまだ明日の手続きに間に合うはずだ」

「だとしてもですよ……」


 シースルが、伝票を持って今日の酒場代を払う。酒二つ分と白身魚のフライのみ。二千程度で収まった。


 そのまま、シュランの屋敷まで向かった。大通りを抜けた先に佇む大豪邸。


「夜分に申し訳ありません。シュラン・ミーレスト様とのアポを取りたいんですが」


 ニュラが、少し緊張した様子で門に立つ衛兵に声をかけた。その衛兵の姿は、素人目線からでも鍛え上げられた身体と鋭い視線。自然と背筋が伸びそうな風貌だった。


「お名前を」

「あ、はい。えっと、シースル・ミルキントとニュラです」

「今、確認いたします。少々お待ちください」


 番所の中に入り、電話機に手を被せた。黒いその電話機は、右手で受話器を取り、左手でとある場所に電話をかけた。しばらくしてから衛兵は口を動かし、相手からの返答を待っている。


「いけますかね」

「どうだろうな。そこばかりはお相手の都合によって、だからな」


 体感五分ほど経った頃。番所から衛兵が出てくる。


「お待たせいたしました。翌日、九時からであれば取れます」

「その時間で問題はありません」


 手続きをニュラが済ませ、シュランの屋敷に背を向けた。空には月が昇り、過去の姿を映していた。二人とも、きらめく空を眺めつつミラ屋に帰る。帰り道に饅頭を買って。


 二日目。


 予定通り、九時にシュランの屋敷へ来ていた。門の傍には昨日対応してもらっていた衛兵が立っていた。シーラントとニュラの二人の姿が見えると、門を開けた。二人が門を通る瞬間、ごくわずかに頭を下げた。屋敷内に入るまで見送り、門の扉を再び閉じた。


 屋敷内は豪勢であった。ロビーとなるここは、頭上に巨大なシャンデリアがぶら下がり、中央の階段を経由して左右の棟に入れる仕様。おとぎ話で見る貴族の建物らしい屋敷だった。執事服やメイド服を着ている使用人らしき人たちが、忙しく働きまわっていた。


 その中、シースルとニュラは立つことしかできない。シュランの部屋も知らない。構造ですらままならないのは、どんな人でもわかる。今下手に動いてしまうと、迷子になると。二人の共通認識だった。


 忙しい使用人の中から、他のメイドとは一線を画す貫禄のある人が階段から降りてくる。足首まで隠されたスカートに白髪の髪は纏められている、年配の女性。足取りから身体の動かし方すべてに無駄がない。


「お待ちしております。わたくし、メイド長のマンハッタンと申します。お名前を伺っております。主様はこちらにいらっしゃいます。ご案内いたします」


 マンハッタンの後を追いかける。有無を言わさない雰囲気と聖母に似た温もりを両立させていた。常に手は前で重ねており、所作から丁寧さが伝わる。


 階段を登り、東棟の方へ入る。ロビーと違い、使用人の忙しさと騒がしさはここにはなかった。さっきまでの感覚が霞のように、徐々に減らされていく。言葉は生まれない。生まれる理由もない。シースルとニュラは静かに、マンハッタンの背にコガモのようについていくだけだ。


 とある部屋の前で足を止めた。


「こちらでございます。では、失礼いたします」


 二人に一礼をしてから、その場を去る。ニュラが、部屋の扉を四回ノックする。中から「どうぞ」と二日前に聞いた声が聞こえた。彼女が率先して扉を開けると、そこには白いネグリジェを身にまとい、キングサイズのベッドに座っているシュランの姿があった。窓は開けられて、風で白いカーテンがなびいていた。


 この一面だけを切り取れば、幻想的な写真が出来上がる。統一感のある白がそう思わせるのか。もしくは、貴族の屋敷だからそう思うのか。シースルは考えても答えは出ない。


「二日ぶりです。シュラン様」

「えぇ。こんな姿で申し訳ありません。ニュラさん。シースルさん」

「いや。問題はない。近くの椅子使っても良いか?」

「はい。大丈夫ですよ」


 扉を閉める。扉横に置かれている三つの椅子のうち手前から二つ取る。ベッドの傍に置いた。ニュラは小さくお礼を言ったのち、椅子を受け取り、腰を下ろした。


「今回はどうしましたか。それともスミノラ草を集めきったのですか?」


 シュランの言葉に否定の意を示した。シースルは足を組んで、背もたれに身体を預ける。手は組んでいる膝の上に無造作に置かれている。あまりにも、遠慮のない姿に隣に座るニュラが冷や汗を流す。


「集めきれていない。それどころか、見つけてすらない。それで、聞きたいんだが、スミノラ草ってのはどういう物なのか教えてほしい。さすがに文献だけじゃきつい。構わないな?」

「分かりました。まず、スミノラ草はどんな薬にでも姿を変えられる薬なんです。見た目は、五つ星のような紫色の草です。過去に現物を見たきりで、この歳になるまで一度見ておりません」


 シースルは、ポケットから取り出したメモ帳に書き込む。ニュラは少しだけシースルに近づいて、メモ帳の内容をのぞき見する。書いてある文字は相変わらず雑。だが、読める。不思議な文字の書き方だ。


「ちなみに、北東に昨日行ってみたが、森を抜けた先は緑一色だけだった。紫色なんて、一つもなかった。ほかにスミノラ草が生息というか、群生地みたいな場所はあるか?」

「他ですか」


 少しまぶたを落として口を閉ざした。シュランが思い浮かべている最中、ニュラはシースルからメモ帳を受け取る。スミノラ草の特徴を羅列していく。どれも、文献と彼女が言っていた特徴と同じだった。あの文献に間違い自体はなかった。何かを思い出せそうで、思い出せない。もどかしい煙がニュラを襲う。


「北東の草原の奥は行きましたか?」

「いや、行けてない」

「でしたら、草原の奥に行ってみてください。自然のお花畑があるはずです。スミノラ草は草とはいえ、花にとても似ているものです。もしかしたら、自然のお花畑に紛れ込んでいるかもしれないです」

「わかった。そこを中心に探してみる。ただ、見つからないかもしれない。それは、明日に期待してくれ」

「分かりました」


 シースルとシュランが会話をしている中、ニュラだけは謎の既視感と戦っていた。常に避けられ、捕まえることができたと思えば、すぐに逃げられてしまう。そんな不確かで、確実に存在するものと相対している。何度も、メモ帳を繰り返しめくりながら、考えている。その時、部屋の扉がいきなり開いた。


「お母さま!」


 全員が扉の先を向いた。そこには、十歳になる頃の少女と疲れているメイドの一人が居た。少女はシースルとニュラのことを差し置いて、シュランの元へ駆け寄る。シュランと、とても似ている子だった。小さい頃のシュランといっても違和感がなに一つ存在していなかった。ただ、目の間で起きていることを二人は、見ていることしかできなかった。その二人の後ろに汗だくメイドが近づく。


「す、すみません。お客様」


 謝ることを忘れることなく。少し乱れたメイド服を直しながら。頭を下げる。謝罪の言葉にニュラが対応していくと、メイドの顔に余裕が少しづつ戻ってくる。過呼吸気味だった呼吸のリズムも、今は落ち着きを取り戻していた。細かい咳の音が鳴ると、シュランに甘えていた少女は動きを止める。


「お母さま。この人たちは?」

「お仕事の人よ。ほら挨拶は?」


 シュランが挨拶を促すと、彼女から離れてシースルとニュラの近くまでやって来る。小さな小走りが人によって庇護欲を掻き立てるものだ。シースルの肩にニュラの手が置かれる。少し前のめりで、少女の挨拶を期待しているのが丸見えだ。彼は、そんな彼女の姿にため息しかつくことができない。


「はじめまして。私の名前はララス・ミーレスト。十歳です」


 どこかシュランの挨拶を思い出させる自己紹介だった。かなり色濃く受け継がれている。似たもの同士だ。


「はじめまして。私はニュラです。こっちに居る男性がシースル・ミルキント。私たちをよろしくね」

「うん!」


 ニュラの言葉に大きく返事をすると、尻尾をゆらりと動かしてシースルの肩に顔をうずめた。小刻みに揺れる彼女の身体は、シュランを笑わせるのに充分だった。その様子を笑いながらも憂いているようだ。


「それじゃ、俺たちはそろそろ出る。また明日、同じ時間で良いか?」

「はい。お待ちしております」


 シースルとニュラはシュランの屋敷を後にした。最後、部屋から出る時にニュラの尻尾が気に入ったララスが印象的に残っていた。ニュラ自身も名残惜しそうに、ララスのことを抱き着いていた。


 現在、シースルとニュラが居る場所は、昨日クマを殺した場所を通過して、草原一歩手前に来ていた。本当にあるのか分からないスミノラ草は、ニュラ自身は疑心暗鬼になっていた。謎の既視感も相まって、彼女自身の集中力を奪っている。何度も地面の凹みに転び、何度も木の枝にぶつかることか。


 今日だけで、両手を超える数だけ受けている。一周回ってシースルは同情心を隠さない。


「んで、ここからか先か」


 かすかに高台になっている草原から、奥を見渡すと緑一色。目に優しいこの上ないが、今求めているのは緑ではなく紫色だ。ニュラは、シースルの肩に乗り、より遠くを眺めている。


「あっ、けっこう先に紫色が見えましたよ!」

「でかしたー」


 そのままシースルは、ニュラを肩に乗せたまま歩き出す。彼女自身も特に驚いた様子もなく、彼の頭に手を乗せて身体を左右に揺らしている。まるで、叔父と姪が遊んでいるような雰囲気だ。ニュラの尻尾もいつも以上に揺れ動き、和やかな空気が辺りに散りばめられる。


 しばらく歩いた時、ニュラはシースルの頭に、彼女自身の顎を乗せた。


「シースルさん。残酷だと思いませんか」

「なにがだ」

「いつ死んでしまうのか分からないのに、笑顔を作るのって」


 シースルは足を止めることはなかった。ニュラの言葉に大きな反応も見せることなく、彼女の脚を掴んで、落ちないように支えるだけ。だが、かすかに支える手の皮膚は伸ばされた。


「そういうものだろ」

「そうなんですかね。でも、私は難しいですよ。シースルさんに向けて笑顔を作ることはできないです」


 ニュラは、シースルの前髪を撫でるように、手を動かした。愛おしいものを扱うように、決して無くさないように。彼は抵抗することはなかった。ただ好きなだけ、彼女の思うように動き続けることを認めた。


「どう足搔いても結果は変えられない。だから最後まで笑っていたいんだろ」


 二人の言葉は外れに飛んでいく。誰かに届くわけでもない。ただ、空へ飛んでいくだけの鳥だ。


「正直、その時にならないと分からない。もしかしたら、自分の思い出を明るいものにしたい」

「わずかな、抵抗ということですか」


 撫でる手は止まらない。むしろより優しく、前髪を同時に整えている。ニュラの瞳に映る灰色の髪。その一本ですら、表面を軽くなぞるように動かしていた。


「かもしれないな。ただ他人の最後。そうじゃなくても意見する立場ではないからな」

「それは分かってます。それでも、価値が失うほどに怖いです」


 彼を撫でていた手を止めて、包み込むようにニュラの胸元に抱き寄せる。胸は潰され、彼女はシースルの頭に顎を乗せた。風に揺られ、灰色の髪とニュラの黒髪が混ざる。


「先に死なないでくださいね」


 ニュラの言葉にシースルは言葉で反応することはなかった。ただ、足を前に進めていた。


 時間に逆らえないかのように。


 しばらく歩いていくと、紫色が徐々に視界に広がっている。ニュラはシースルの頭から顎を離した。人差し指を紫色の水面に向けた。壮麗だった。視界を余すことなく使うその色は心を揺さぶるものだ。


「わっ!」


 シースルの肩から降りると、小走りで植物の湖まで走る。その後ろを、変わらない足取りで近づく。


「これは、キキョウか?」

「ですね。にしても、こんなに綺麗にキキョウが咲いているなんて。見た感じ、誰も足を踏み入れている痕跡はありませんし、管理している様子もありません。自然の産物ですよこれ」


 ニュラは、その場にしゃがんでキキョウの土を触る。砂のように落ちていきながらも、息絶えたように骸になっているわけでもなかった。その逆だった。


「目当てなのはキキョウじゃない。スミノラ草だ。ただ、この中には入りたくないな」


 目の前のキキョウの群生地を目にして、わざわざ踏み込む人間はいない。かかとを浮かせてつま先で立つ。軽く見渡すが、どれもがキキョウに見えてしまう。一つ大きなため息を吐いてから、キキョウとは別の場所に視線を移した。紫と緑の境界線が曖昧だ。だが、それすら一つの情景に過ぎない。


「少し、周りを探索するか。ニュラはどうする。一緒に行動するか、個別行動するか」

「一緒で、お願いします」

「分かった」


 短い肯定の言葉が、キキョウとニュラに吸い込まれた。雨のように消えることはないが、誰かの元へ届くだけ、儲けものなのだ。しゃがんでいたニュラは立ち上がり、シースルの隣に立つ。


 シースルが歩き出すのと同時に足を出して進む。ニュラの手元は尻尾の上で両手を重ねている。尻尾は左右に揺らしながらも、一定のリズムで旋律が聞こえてきそうなほどに綺麗だ。


「全部キキョウですね」

「下手したら見逃してる可能性はある。だけども、見つかる気しないなこれ」

「どんな間違い探しよりも難しいですよこれ」


 仕事中だというのに、ただ二人で散歩しているように錯覚させてしまう空気が漂い始めていた。夏のぬるい空気と、二人の額に浮かぶ小さな液体。おとぎ話の日常そのものだ。


 何分か、境界線付近を歩いていく。しかし、見つからない。さすがに、疲労の色を隠すことはできないところまでやってきている。シースルがふと、隣を歩くニュラの方を流し見した。


「シースルさん、どうしました」


 さすがに気づく。ニュラは覗き込むように、腰を反らせた。上目遣いでシースルの瞳を捉える。彼女が浮かべている感情は、尻尾を見ればわかった。勢いを殺すことなく左右に動かしている。思わず、鷲掴みしてしまいそうだ。整っている毛並みが、情欲的にも発展させることができた。


 すると、尻尾を隠してしまう。突き出していた尻は潜り込んで隠れた。腰で重ね合わせていた手元は、尾骨の上に重ねられて、尻尾そのものはニュラの右脚に絡む。


「視線」

「なにがだ。それより、そろそろキキョウ畑も終わる。また明日だ」

「……分かりました。シースルさん、本当に女の子は視線に敏感ですよ」


 わずかながら伏せたまぶたの隙間から、景色が反射している。


「お前は化け猫だろ。性別メスだろ」

「メスでも女の子です。というかすごいデジャブ。いや、過去に性的に襲われたことないし大丈夫ですかね」

「聞こえてるからな」


 全身の毛が逆立つような、そんな指摘にニュラは脇を締めた。


 先に戻るシースルの姿に「へ?」と、素直な飛んだ声を発するニュラ。両手首を下に向けて、限界まで伸ばされる。両手は第一関節に食い込ませて中手骨ちゅうしゅこつの先端が浮き出る。目元に無色透明な小さな液が溜まる。結ばれる唇は冬の寒気に襲われているかのように震え、膝が伸びる。今にも飛んでいきそうだ。


「まっ、まってください!」


 淡々と進んでいくシースルの後ろが、見えなくなる前に追いかける。その背中はどこか遠くを感じさせる風貌だ。一瞬だけ、ニュラの足が重くなる。だが、今追いつけない方がまずい。


 追いついてキキョウの群生地から離れた頃。陽は飽きることなく西へ傾いていた。舗装された森の入り口に戻った頃。シースルの足元に影が伸びている。その時、ふとニュラは振り返った。


「そういえば、シースルさん。知っていますか?」

「なにが」


 足を止めて、黒髪が右下に垂れ落ちる。おぼろげに見えながらも橙色との境界線がはっきりしている。


「キキョウには、永遠の愛という花言葉があるそうですよ」

「へー」


 冷たく、どこか隙間風を想起させる声だった。ニュラは、口端同士を近づけて息と言葉の混合物が漏れる。


「興味無さそうですね」

「ないからな。ミルキント家の血は俺で途切れるからな」

「そこまでですか」


 ニュラの声が、呆れと愉快が混じった音質に変化した。一歩、また一歩とシースルに身体を運んでいく。今にも粉雪のように散ってしまいそうなのに。不完全が正当化される理由が、そこには命を授けて証明された。


「私なら、作れますよ」


 シースルの胸元に近づくだけで、決して触らない。額を上げることもせずに、ただ彼の傍にいるだけ。二人の輪郭が曖昧になる。けれど、そこには熱と冷が共存していた。ニュラの尻尾は下がり、先が振り子のようだ。


 シースルは手を上げた。それに共鳴するようにニュラの肩がわずかに上がる。


 手が置かれた先は、ニュラの頭だった。帽子越しであろうと質量を感じられたであろうニュラは、視線を上下に動かしながら、ゆっくり、今この瞬間だけ時間が奇跡的にずれたように遅れる。


「馬鹿なこと言ってないで、早く帰るぞ」


 帽子を介してだが、軽く撫でた。ニュラの隣を歩いて先に進んだ。


 動けない足をかすかに震わせた。肩の力は空気と共に離散していき、蒸発していく。


「やっぱりですか」


 姿を現した一等星に、額を上げて視線を向けた。手を伸ばすようなことはしなかった。


 ただ、あの星に届くことを祈っただけだった。


 三日目。


 ミラ屋の一室が開いた。灰色の髪を触りながら、軽く服を乱しているシースルの姿が出てきた。肩を出しながらミラ屋を歩く姿は、少年のようだった。不安な足取りで欠伸をして、両小指を天井に引っ張り伸ばした。


「おはようございます。昨夜は、よく寝れましたか?」

「あぁ、おはよ。昨日の夜は心地いい気温だったからな」


 ソファーに腰を下ろした。同じタイミングに、キッチンからサンドイッチと水が入った、ガラスコップを運んできてくれていた。テーブルの上に置いてから、ニュラは再びキッチンに戻る。どこか、動きが心もとない。


 キッチンから出てきたとき、右手にはガラスコップに入れられたコーヒーと氷が中を泳いでいた。左手は尻尾の付け根に当てられていた。小さく上下にさすりながら、シースルの隣に座る。


「昨日は……取り乱してたみたいです。ごめんなさい」

「気にすんな。誰だって、乱れることはある。例え化け猫であろうとな。サンドイッチ美味しい……」


 その言葉を聞いたニュラは、頬をわずかに上げた。右手だけで持っていたガラスコップを両手で包んで、唇に触れさせた。少しづつ口内にアイスコーヒーを流し、喉を控えめに揺らした。小さく鳴る、その音は、なによりも鮮明だった。ありきたりなセミの声なんか、かき消されていった。


「今日もキキョウ畑に行きますか?」


 テーブルにガラスコップを置いてから、ほんの数センチだけシースルの傍に座る。彼の肩に両手を乗せる。顔を彼の口元に近づける。腰を反らせて、尻尾を揺らしていた。


 ニュラの猫耳はシースルに当たらないように配慮している。


 すると、シースルはニュラの口元にサンドイッチを運んだ。小さな口が開かれて、犬歯が晒された。彼女の口内にある、薄い唾液の線が上下に伸びる。しかし、すぐに切れてサンドイッチを小さく噛んだ。彼女の口元から離すと人間の跡とは異なる歯型ができていた。彼は躊躇いなく彼女が噛んだところから、食べ始める。


 一口食べれた、ニュラは顔をシースルの口元から離した。口元から離れたが、両手は離れることなかった。そのまま、肩に重ねられた両手の上に顎を乗せた。猫らしいと言えば猫らしい。


 ニュラはシースルの喉の動きを見ていた。


 目端を頬に近づけるように、頬が目端に近づけるように。口元には小さな笑みが浮かんでいた。


 一瞬、その喉元に顔を近づける。しかし、すぐに引き込まれて視線を落として、感情の混じる温い息をか細く、長く吐き出した。そこには、触れたいものに触れられない女性の姿が一人。すぐに、視線を戻した。


「いや、今日は行かない。ニュラはスミノラ草について調べてきてほしい。俺はシュランの元に行く」

「分かりました」


 サンドイッチの最後の一切れを、ニュラの口元に運ぶ。顎を肩から離し、差し出されたサンドイッチに口を開いた。シースルの人差し指と親指ごと口に含ませる。親指は引いて、彼女の口の中に残した。指先に残っていたであろうパンの粉を、硬いトゲ状の突起物を使って、細部まで舐めとる。子猫のように舐めあげる姿を見つつも、抵抗を見せることはない。


 舐めあげて、シースルは人差し指を口から離れていく。ニュラの体液とも言える液体が、当然ながら付着していた。親指の腹で拭くようにこすりつける。


「アイスコーヒー。少しもらっていいか?」

「どうぞ」


 身体を起こして、テーブルからガラスコップを持ち、差し出した。一瞬、人差し指同士が重なった。手渡したあと、空いた手は太ももの上に置かれ、むずがゆそうに両手の人差し指が互いに当たって、可動域の中で動かした。視線はシースルの喉と、ニュラの手元を交互に見ていた。


 シースルが受け取り、口にガラスコップの縁を運んだ。優しく運び、わずかに下唇がつぶれ、氷の影響で薄くなっているアイスコーヒーを口の中に流し込んだ。氷は上唇に当たり、流れをせき止めようとしているようにも見えた。


「ありがとう。それじゃ、スミノラ草について頼むよ。一つ、情報屋だけは利用するなよ」

「心得てますよ」


 糸が切れたように、一度に表情が綻びを見せる。空気にすら負けそうな笑い声を上げながら、ソファーから立ち上がる。食器を取り、キッチンへ向かった。その様子を流し見ながら、身体をもう一度伸ばす。


 数分後。洗い物も済ませ、ソファーに座りながらテーブルに広がっている文献や資料に、四苦八苦しているニュラの姿があった。どの文献にも、どの資料にも存在しているとだけ書いてあり、その裏を取ることが、未だにできていなかった。いうなれば、書かれているだけ。現在にも存在しているとは書かれていない。


 既に、シースルはシュランの屋敷へと向かった。今、ミラ屋にはニュラの一人。一枚一枚、パズルのピースになりそうなものに、鉛筆でマークを付けていく。整合性を取れなければ、弾く。そのようなことを一時間ほど続けた頃。ニュラは手に持っていた資料をテーブルに置いて、そのまま横に倒れた。


 柔らかいソファーのおかげで、衝撃が横顔に当たることはなかった。


「わからなーい。どうしよっかな」


 口から言葉があふれ出した。一時間も似たような言葉に似たような結論。その苦労が、テーブルの上に散らばっていた。ソファーに顔を伏せて、尻尾を揺らしたのち、天井に伸びる。


 勢いよく顔を上げた。前髪が思わず後ろへ飛んでいきそうな勢いだった。


「知識いっぱいな聖女に聞けばもしかしたら。まだ、聖女の礼拝時間じゃないはず」


 腕に力を入れて起き上がる。自室から帽子を取り、ミラ屋の鍵を取る。スリッパからスニーカーに履き替えて、戸締りをしてから出かけた。小石同士がぶつかるような、軽快な音を鳴らして走っていった。


 その頃。シースルはシュランの屋敷へ着いていた。


 衛兵に会釈をして、中に通してもらう。屋敷の中は、昨日と変わらない騒がしさが続いていた。しかし、昨日よりも人は少ない。業務量が減ったのだろうと、勝手に予想することができる。


「昨日ぶりでございます。こちらへ」


 階段を下りながら、マンハッタンが出迎えてくれていた。昨日と変わらない服装。ニュラが居ないことを除けば、昨日の再現をしていると言っても過言ではなかった。部屋に案内してもらうと、彼女はその場を離れていった。メイド長という役割を頂いている時点で、優秀なのだろう。重そうなまぶたを持っていた。


 四回、ノックをした。中から「どうぞ」と声が聞こえてからドアを開けた。


 景色は変わっていない。


「昨日の言われたところに行ってきたぞ」


 シースルは近くの椅子を取り、シュランが座っているベッドの傍に座る。


「どうでしたか」


 力が抜けた言葉だった。白い掛け布団の上で左握りこぶしを包むように、右手が覆いかぶさっていた。手に込められていた力は抜けていき、小さく震えていた。儚いと呼ぶには罪な姿だ。


「あそこは、キキョウで埋め尽くされた自然の花畑だった。一応、明日。最終日だが花畑で探させてもらう。ただ、見つからない可能性の方が高い。ムダ金になるかもしれない。覚悟しといてくれ」


 シュランから返答の言葉は、返ってこなかった。彼女が向いている先は窓。厳密にいえば、窓の近くに置かれた細いテーブルに向けられていた。そこには、シュランが取ったであろう、メダルやトロフィーが。そして、ミーレスト家の家族写真だった。シュランと旦那。そして、その間に立つ満点の笑顔を浮かべているララスが居る家族写真。背景にサクラが映っている。花見をしたときの写真だろう。


「依頼の変更を受け入れてくれますか」


 シースルの方を向いた。いまにも、ともしびが消えそうな瞳で彼を捉えた。シュランの姿を見ても動揺している様子は見えなかった。依頼の変更も想定済みだと言いたげだ。


「妥当な判断か。なにがお求めだ」

「一通手紙の代筆をお願いしたいです。それと、キキョウを三本摘んでくれませんか」

「わかった。紙はどこにある」

「そこの一番上、右から二番目の引き出しに便箋とシーリングスタンプのセットがあります」


 シュランが指さした先に、落ち着いた木製のグラムチェストを開ける。そこには彼女の言葉通りに便箋とシーリングスタンプのセットが丁寧にしまわれていた。取り出して、近くの机に置く。グラムチェストを途中で閉じながら、椅子を机に持ってくる。ポケットからペンを取り出した。


「いつでもいいぞ。言葉を言ってくれ」

「はい――」


 シュランは言葉を紡いでいった。まるで音楽のようだった。一つ一つの単語に彼女の想いがこれでもかと、想像を超える重みを重ねていた。重みは確かに感じられるのに、捕まえることができない。


 そもそも、触ることすら憚れるものだ。


 シースルはできる限り、足が付いた丁寧な文字を心得ているようだ。指先がかすかに震えていた。それは、慣れない書き方を実践しているからなのか、他の感情が邪魔しているのか。外からでは分からない。


「以上です。ありがとうございます」

「なぁ」


 シースルがシュランに問いかけた。


「サインはシュラン自身で書くか?」


 悪魔のささやきだ。甘美で、ぜひとも受け入れたいものだった。シュランは断ればいいものなのに。大丈夫です。と、口にすればいいものだというのに。何度も虚空を飲み込みながら、手を出そうとしていた。


「……手が震えて書けないなら、俺が手伝ってやる。安心しろ。シュランは気にせず、手を動かせ」


 シースルがペンと便箋を彼女の前へ、便箋の下にメモ帳を置いて掛け布団にのせる。シュランの隣に「失礼するな」と一言、言葉にしてからベッドに座る。彼女の右手にペンを握らせ、その上から被せた。


 二拍の間が起きて、微振動を繰り返しているシュランの右手をシースルが抑えてサポートする。領収書にサインしたときのような、流れるような文字書きではない。それでも、存在していたことを。この世界にシュラン・ミーレストが、確かに存在していた証明を残そうとしていた。


 便箋に水が落ちた。シースルはただ震える手を支え、シュランのサインを最後まで見届けた。


「ありがとう、ございます」


 少し湿気を感じさせる声だった。シースルは返事をせずに、便箋を折りたたんだ。封筒に入れて、シーリングスタンプで封をした。固まったのを確認してから、シュランに手渡した。決して顔は見ずに。


「これで、一つ依頼達成だ。キキョウは明日。持ってくる」


 シュランは小さく、返事をした。そのまま、シースルはこの場を後にしようと、扉に向かっていた。だが、ドアの持ち手に手を重ねる瞬間、彼の動きは止まった。


「シュラン。最後に聞きたいことがある」

「なんでしょうか。今なら何でも、答えられますよ」

「……いつ死んでしまうのか分からないのに、笑顔を作るのは、残酷だと思うか」


 予想外の質問が飛んできたことに、時が一瞬だけ引き延ばされる。だが、経験が物を言うのか。シュランは視線を左上に向けてから、すぐにシースルの背中に向けた。


「いえ、残酷ではないですよ」

「そうか。質問に答えてもらってありがとうな。良い夢。見ろよ」

「はい」


 シュランの部屋を出て、そのまま屋敷を背景にミラ屋へ向かった。


 時刻は夕刻時。シルエッタ地区は橙色に染まっていた。


 ミラ屋には、ニュラがテーブルに散らばっている文献も資料を前に頭を抱えていた。その時、ミラ屋の扉が開く。そこに視線が自然と独り歩きする。そこには、普段と変わらないシースルの姿があった。


「おかえりなさい。シースルさん。帰宅早々なんですが、調べた結果が出ました」

「どうだった」


 すぐに答えられなかった。ニュラは言葉を濁しながら、一文字を乱雑に並べていた。シースルは彼女が口を開くまで、反対側のソファーに腰を下す。時間は有限だ。それでも、伸ばしたい本音があった。


「スミノラ草は、私たちが生まれる数百年前の流行り病で、すべて採取し、絶滅したみたいです。話では、先祖様たちが、不安に駆られて、必要以上に取り、無駄に消費した結果らしいです。さらには、文献には気候変動もあります。全てが噛み合った結果で、スミノラ草はこの世から消えてしまいました」


 言葉が苦かった。ニュラは親指を手のひらに折りたたみ、握りこぶしを両手で作る。ニュラはシースルのことを正面から見ることはできなかった。テーブルの方を自然と視線が向けられていた。耳は垂れ、尻尾は完全に落ち込んでいる。彼につむじを見せ続けている。


「そうか。お疲れ様」

「シースルさん。どうするんですか。もう叶わないですよ」

「すでに、依頼の変更は受けた。明日、キキョウを三本摘むことになった」

「えっ」


 顔を上げた。ニュラはシースルをの目を捉えながら見開いていた。彼女が何かを言葉にする前に、シースルの口はゆっくりと、明確に開いた。


「シュランからの変更だ。依頼主の意向には基本的に従う」


 シースルはそう言葉を残したまま、自室へ戻った。ニュラは何も言えない。感情ですら制御できない。口元は上がっているのに、なぜか頬には涙が伝う。全てまとまらないことが、今のニュラが体現していた。


 ニュラは、テーブルに広がる資料に手を伸ばしたのだった。


 四日目。


 シースルとニュラは、昨日訪れたキキョウ畑へ向かっていた。普段であれば会話を積み重ねていたが、今日ばかりは静かだった。二人の間に物理的距離はない。ただ、どこまでも距離が存在しているように、感じられてしまう。それは、考えの違いなのか。それとも、もっとも根源的な要素なのか。


 現在地は、森を抜けて草原が顔を見せ始めている場所。


「依頼変更の内容、もう一度聞いてもいいですか?」


 控えめながら、下出に出る。前傾姿勢でシースルの顔を下から覗いた。彼の瞳には光が無かった。この先の結末を知っているからなのだろうか。ニュラ自身も、かすかに恐怖心を尻尾で表現するように、小さく揺れ動く。物は、左手を使って付け根から押さえつけた。


「依頼の変更内容か。手紙の代筆とキキョウ三本摘むこと」

「手紙ですか。シュラン様は、もう決められたのですね」


 背骨を伸ばし、元の位置へ戻った。この言葉以上に、今の言葉を言語化する手は無かった。たとえ、存在していたとしても、蛇足になるのだろう。今は沈黙が全ての肯定であり、否定だった。


 時間を数えるほど億劫なほどに、時間が過ぎていった。一秒、一分、一時間。どれを数えても、進んでいくことは変わらない。足を前に出すたびに進んでいく。この日だけは、時間の不可逆性を恨んでしまう魔性が潜み続けている。決して表に出ない。四次元じゃないことを、憎んでしまう。


 キキョウの元へ着いた。時は刻々と進んでいる。


 シースルは膝を曲げ、キキョウを一本ずつ摘んだ。ニュラは、彼の様子をただ見ることしかできなかった。祝福とも弔辞とも取れない。不安定な輪郭が彼女の顔を不明瞭なものにした。まるで、固定概念に囚われている大人たちの、過去の姿だ。二度と戻らないはず、この時だけは回帰した。


「三本ということは」


 ニュラは、続きを言葉にすることはなかった。彼女が思い浮かぶのは、小さな命。そこから離れてしまう大きな命。言葉にならない、嗚咽をしながらシースルの元から。キキョウの花畑から離れた。


 その様子を横目で、変わらない表情で眺めているシースルが居た。一定の水面のような動きは決してなかった。三本握る手ですら変化は見受けられない。覚悟をしているのか、していないのか。


 はっきりと、理解できるように見えなかった。瞳の奥で反射するニュラの動き以外は。


 喜怒哀楽。この言葉に含められない感情だけが生きている。それは、世界における美徳なのだろうか。シースルは、膝を伸ばして立ち上がる。少しづつ離れていくニュラの後を、揺れる足元を動かして向かう。


 今は、シュランの屋敷に向かっている。やけに騒がしい。世話になった衛兵が、二人の元へ走って来る。その額には、汗か冷や汗か分別できない液体が付着していた。格式高く感じられた衛兵の姿は、そこには居なかった。まるで、死んでしまったようだった。


「どうした」

「シュラン様の容態が変化しまして、今、危篤状態です」

「そんな……」

「そうか」


 突き放したような言葉に、ニュラも衛兵も続きを言葉にすることはできなかった。シースルは衛兵の隣を通り、屋敷へ向かった。変わらない足取り、変化の見えない足取り。ニュラはしばらく動けない。


 屋敷の門を越えた辺りで、ニュラは尻尾を揺らし始めた。衛兵に一言だけ言葉を残して、シースルの元に走り出していった。今度は、シースルがニュラを追いかけるのではなく、逆になった。彼が扉を開ける前に追い付いた彼女は、荒れた息を整えながら後ろに着く。


 その時に、屋敷の中から何人もの白衣を着た人間が走り出てくる。その人間と、ぶつかりそうになるニュラは避けきれない。シースルが彼女の手を引き、胸の中に引き寄せた。そこには、性的な印象は含まれていなかった。ただ、人間を引き込んだという結果だけを残した。


 二人は走っていく、白衣の人間たちの背中をただ見ていた。ニュラに至って、吐息と混ざり込んだ困惑の声は、シースルの服に吸い込まれていく。困惑が優先して起きた現状に、尻尾は固まる。


「い、今のは」

「医者だろうな。薬を取りに行ったのかもしれない」


 シースルの冷静な言葉は、ニュラに平常心を取り戻すのを手伝うものだった。それほどに、冷たくて手を差し伸ばしてくれる、人間特有の温もりに彼女には充分過ぎるもの。胸元から離れると、よれてしまった服を叩いて直していく。終わらせるのを待ち、完了してから屋敷内に入る。


 騒がしくない。メイドも執事もいない。数回しかシュランの屋敷に来たことはないが、それでも異質なほどに静かだった。ロビーには誰もいない。明かりだけはついている。誰もいないわけがない。マンハッタンもくる気配もない、シースルとニュラは記憶を頼りにシュランの部屋まで歩いていく。


 広い廊下で無音。たった二つの要素だけなのに、不安を刺激する化け物はどうすれば消えるのであろうか。叶わないことだとしても、祈ってしまうのは人間の性なのだろうか。


 シュランの部屋は遠くから見て開いていた。中から光が漏れ出している。近づいていく。


「――さま。お母さま!」


 ララスの声が聞こえた。虚空を切り裂くほどの声は、シュランが流した湿り気のある声とは同系統でありながら、別種のように聞こえた。ニュラは足を止めた。額を下に向けて、帽子で表情は見えなかった。


「ニュラ」

「嫌です。わがままでごめんなさい。見たくありません」

「ニュラ」

「嫌です」

「ニュラ」

「……なんでシースルさんは、平気な顔をしているですか!」


 額を上げたニュラの視線には、恨みは含まれていなかった。そこにあるのは、シースルに対しての不安感だけが含まれていた。彼の表情には変化が見受けられなかった。それが、彼女を煽るようにも思えてしまう。


 なのに、ニュラは言葉を続けることはできなかった。ただ「いや、ごめんなさい。行きましょう」と、言葉を使って訂正した。彼女が向いていたシースルの瞳には、ニュラの姿はなかった。かといって、シュランのことを思い浮かべていることもなく、ララスのことを思い浮かべていることはない。


 ただ、これから突き付けられる現実を受け入れる覚悟をしているだけだ。それが、ひどく悲しいのか。ニュラは踏み込むことができなかった。踏み込んだら最後。シースルの傍にいることはできない。させてくれないと言った方が正しいのかもしれない。本当の理由はニュラにしか分からない。


 シュランの部屋の中から、医者の声が聞こえた。


「死亡を、確認いたしました」


 一人の男の声が聞こえた。その声を聞いたシースルは足を止めた。部屋に入れない。キキョウの茎を巻き、指の付け根に爪を立てた。小さな振動を、ニュラが見逃すことはなかった。


「シースル様とニュラ様」


 二人の背後から声が聞こえた。ニュラが振り返る。


 そこには、疲れの色を隠しきれていないマンハッタンが立っていた。彼女が手に持っているのは一通の手紙だった。シースルがゆっくりと振り返ると、その手紙に視線を配った。


「こちらをシュラン様から、ララス様へお渡ししてほしいと」

「わかった」


 手紙を受け取った。


 マンハッタンが先導してシュランの部屋に入る。シースルとニュラも後を追う。マンハッタンとニュラは一礼してから、寝室に入る。何度もシュランに呼びかけているララスの姿に、写真に似た優しい顔で眠っているシュランの姿。医者はシュランから離れて、マンハッタンと会話をしている。


 その間に、ニュラではなくシースルがシュランの傍に近づく。ニュラはゆっくりと足をララスの方に動かしていき、彼女の姿を見たララスは、ニュラの胸元に抱き着いて、泣き続けた。ララスの言葉と息と涙の全てを身を使って受け止めている。優しく、背中をさする。


「良い夢を」


 (なが)い眠りについたシュランに一言だけ。これ以上の言葉は野暮だった。


「マンハッタン。隣の部屋、空いているか?」

「はい。空いております」

「そうか。ニュラ、ララスを連れて隣の部屋に来てくれ」


 シースルは先に、シュランの部屋を後にした。


 数分後、ニュラとシュランと共にやってきたララス。その部屋には、シースルが窓際の椅子に座り、足を組んで、窓の先を眺めていた。空に浮かぶ雲を飽きることなく見ていた。浮世離れしているとも言えばいいのだろう。三人とも、彼の姿から目を離すことはできなかった。


「ララス」

「は、はい!」


 頬には、涙が色を付けてた結果が残っている。


「シュランからのプレゼントがある。こっちに来てくれるか?」


 海から流れてくる暖かさのようだった。ララスは一歩づつ、遠くの存在だと錯覚してしまいそうなシースルに近づく。彼から差し出された、一通の手紙と三本のキキョウ。小さなシュランに渡した。


「これは、なんですか……なんで、これが……あるんですか! 全部知って――」

「開けて」


 シースルの有無も言わせない言葉に従うしかなかった。手紙を開け、中から便箋を取り出した。そこには、シュランの文字ではなく彼の文字が。昨日、シュランに依頼としてお願いされた代筆の内容だった。ただ、震えていた字ではあったが、確かにシュランが書いたサインが一番下に書かれている。


「お母さま……あぁ……っ」


 ララスは、読み始めた。内容は決して口にすることはなかった。彼女の中でシュランの言葉が飲み込まれていく。拒否することはない。少しづつ溢れていく涙をシースルは、はっきりと視認した。立てなくなり、その場で、腰が落ちて横座りをした。彼女が持つ手紙端が徐々に握られ、そこを起点に広がっていく。


 手紙をララス自身の顔に近づけ、言葉と息。感情が入り乱れたものが口から溢れていた。


 シースルは立ち上がり、ララスのすぐ横を通り過ぎた。動かなくなっているニュラとマンハッタンの元へ行く。二人は、ただ彼と中心人物であるララスを両方見ている。


「マンハッタン。後は頼む。ニュラ行くぞ」

「……はい」


 部屋を出るシースルの後を、ニュラは傍観する。足は動かない。だが、すぐに彼女は彼の元へ向かった。部屋を出て、三人が閉めたはずのシュランの部屋が開いていた。部屋の前を通る瞬間、横目で見る。その時に中から声が聞こえた。


「シュラン。依頼は達成した。あの子は強い。両親揃ってララス・ミーレストを見守ってやれ」


 その声を聞いて、ニュラは咄嗟に隠れてしまった。あの時、初めてシュランの部屋に入った時のように、椅子に座り込んで、シュランのことを見ながら話している。死者に話しているようには到底見えない。だが、それでもシュランが死者へ繰り上げられた事実は変わらない。全てを知っていたシースルに、ニュラは壁に背を預け、そのまましゃがみこんでしまった。顔を抑えていた。


 時間は過ぎ、場所はミラ屋。


 時間は、日付が変わり始めようとしていた時。夕食も済ませ、シースルが自室へ戻ろうとドアノブに右手を被せた瞬間のことだった。ニュラが、彼の背中に張り付いた。


「どうしたんだ」

「今日だけは、一緒に寝ませんか」


 願いだった。シースルには断る理由もない。一言「いいぞ」と言葉をニュラに渡した。


 ベッドに入り、シースルは早々に寝てしまった。ニュラには大きすぎる背中に、できる限り近づいた。抱き着くことはしない。それでも、シースルを亡くさない。明確な意志を宿らせ、そのまま眠りについた。


 定められた結末は物語の主人公であれ変えられない。


 綺麗で、残酷な話だった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

短い物語にお付き合いいただけて、とても嬉しいです。



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