ジュリエットの死⑥
孝毅は野口綾子の均整のとれた後ろ姿を恍惚とした表情で見送った。
「最近、講義の様子はいかがですか?何かご要望があれば、なんなりとお聞かせ下さい」
さした用事も無いのに、綾子を塾長室に呼び寄せて、「一度、食事でもしながら、ゆっくりとお話を聞かせてもらいたいですな」と食事に誘ってみた。だが、「優秀な生徒さんばかりで何の問題もございません。塾の講師の仕事にも満足しております」とさらりとかわされてしまった。優雅に踵を返して塾長室を去ってゆく綾子の後姿を見送るしかなかった。
綾子を見送った後、ふと我に返ると、鬱陶しい約束を思い出した。
昨晩、玲から電話があった。「話があるので今日は自宅に顔を出してちょうだい」と言われていた。
「ちょっと仕事が忙しくて・・・」と言い訳してみたが、「じゃあ、お昼休みでいいわ。あなただって、お昼くらいは食べるでしょう。直ぐに済むから――」と有無を言わさない口調で言わた。
どうせ留守中に、寝室をラブホテル代わりに使った従弟の裕を早く処分しろという話か、部屋の掃除をしてくれと言った要求に違いない。
(いっそ離婚を切り出してくれた方が楽なのに――)と孝毅は思った。
従弟の大楽裕は玲が実家に戻っているのを幸いに、クラブでナンパした女性をラブホテル代わりに別館の寝室に連れ込んでしまったのだ。いまだに親の脛を齧り続けている裕には、ホテル代を支払う甲斐性がなかった。
そのことを玲が知って、「嫌だ。不潔だわ!」と烈火のごとく腹を立てた。甲斐性の無い裕は大楽塾で働いている。玲は塾長である孝毅に裕の処分を迫っていた。
激しく燃え上がった恋から、現実に目覚めるのは早かった。目の前に立ちはだかる障害が、二人を盲目にしていただけだったからだ。
夫婦仲は完全に崩壊していた。
だが、何故か、玲は離婚を切り出して来なかった。それが孝毅には不思議だった。玲の実家は大楽家を凌ぐ資産家だし、地元では大村益次郎の子孫として尊敬を集めている。郷土の英雄、大村益次郎を暗殺した人間を出した大楽家よりも世間一般の印象は良いと言えた。
孝毅は重い腰を上げた。
大楽塾棟の正面玄関を出て、屋敷を向かう。途中、築山が行く手を遮る形となる。塾と大楽家はレンガ塀で仕切られている。屋敷は築山の影になり、塾からは見えない。敷地内に居座る築山は塾の景観を損なっており、取り壊しの話があった。だが、考古学の調査が入り、弥生時代の古墳のひとつに認定されてしまった。
勝手に取り壊すことができなくなった。
孝毅は築山を迂回して屋敷に向かった。
春の陽がさんさんと降り注ぎ、公私ともにくすんだような生活を送っている孝毅の体を消毒してくれているかのようだ。(たまには外に出るのも悪くないな)と鼻歌でも歌い出したくなりそうな弾んだ気持ちになった。
塾と屋敷を繋ぐ正門がある。
塾の敷地内の壁で仕切られた空間に大楽家がある。近くに職員住宅用のアパートがあるので、覗かれないように高い塀で囲まれている。
正門の脇に勝手口があり、ここにも暗証番号式のドアがある。勝手口を抜け、駐車場を兼ねた広々として玄関前の敷地を横切る。堂々とした母屋が来る者を威圧するかのように出迎える。本館の向こうに別館があり、更に壁を隔てて、更に奥には小山がある。築山と小山の間に本館と別館が建っているのだ。
玄関に鍵がかかっていた。大楽家は塾の塀と屋敷を囲う壁の二重のセキュリティで守られている。部外者は塾に入れないし、塾生は大楽家に入れない。この為、玲はいつも鍵を掛けない。鍵が掛かっているなんて珍しい。いつも鍵を掛けないものだから、留守中に勝手に寝室を使われてしまうのだ。一族の裕は大楽家の敷地に入ることが出来る。玲が何時も玄関に鍵を掛けないことも知っていた。
鍵を開けて、中に入った。床の上にゴミが散乱している。相変わらず、掃除をする気はないようだ。こういう、家庭的でないところが、孝毅を冷めさせた原因のひとつだ。
コミを蹴飛ばしながら居間を横切る。
二階の階段を上がって行く。掃除が面倒で、玲も香美も、二階の部屋で生活していることを孝毅は知っていた。寝室を勝手に使われてから、玲はベッドで寝るのを嫌がり、もっぱら客間で寝泊まりしている。
寝室が使えなくても、寝泊まりする部屋には困らなかった。
「玲。いるのか?玲――」孝毅は名前を呼びながら、階段を上がって行った。
もう正午過ぎだ。いくら朝が苦手な玲と雖も、寝ているとは思えなかった。
客間の前に立った時、孝毅はえも言われぬ寒気を感じた。これから、玲に浴びせられるクレームの数々が、気を重くさせているのだと思った。
「入るぞ!」客間のドアを開けようとしたが、ここにも鍵が掛かっていた。部屋に鍵を掛けるなんて、珍しい。寝室を勝手に使われたことが、よほどショックだったようだ。
「おお~い! 玲! 開けてくれ~‼」ドアを叩きながら怒鳴ったが、反応がなかった。
(面倒くさいな)孝毅は合鍵をどこに仕舞ったか考えた。確か、リビングのテレビ台の引き出しに入れておいたはずだ。舌打ちを繰り返しながら、階段を降りて行った。
合鍵を持って、再び、二階に上がる。運動不足なので、息が切れた。
「開けるぞ~!」と声高に叫びながら、ドアを開けた。
「ううっ・・・くっ・・・」
部屋から押し寄せて来た強烈な臭いに、孝毅は顔をしかめた。
そして次の瞬間、「うわっ――!」と悲鳴を上げて飛び退いた。勢いよく飛び退いたので、反対側の壁に嫌と言うほど背中をぶつけてしまった。孝毅は「あうっ!あうっ!」と呻き続けた。
部屋の中は血塗れだった。




